信頼するは罪なりや
船がいくつも沈んでいく。あれらは元より、海に流れた悪霊の群れ。戦力的に一切の価値は無い。
ただそれでも、白亜の極光が船底に穴を開けたり、黒い影が船を何隻も呑み込んでいく光景は流石に圧巻であった。
「船頭多くして、なんとやら...。全滅も、時間の問題ですね。」
そう呟きながら、私はグラスを傾けて日に透かしてみる。琥珀色の陽光が瞳をすらりと通り抜け、酔いを加速させてくれるような気がした。
だが、酔いが回ったところで脳みそは幸せになっても現実は変わってくれない。あれだけの数的有利がありながら、たった数人の少女たちに滅茶苦茶にされている事実。
現実はいつだって、見たくないものだけで塗り固められている。だからこうして、どれだけ劣勢にあっても酒で目を逸らし続けるのだ。
と、そうしているあいだにもう全艦が沈められてしまったらしい。残るは私が一人乗っている一際大きな幽霊船のみ。
私は甲板で少女たちの来訪を待ち侘びながら、グラスを置いて煙管を手に取った。戦いは怖い。だから手が震えてしまわないよう、必死で心を落ち着かせる。
「.....どうも。いっぺん、落ち着いてみてはいかがですか?我々には口があるのだから、話し合うべきだ。」
「詭弁ですね。凶器を振りかざす相手を前に、対話で応じろと?」
一番乗りは狼の少女。続いて蚕とその背に乗った小さな童女。それから小舟を私の船の隣に止めて、縄を使って登ってきた狸と人間の乙女。
遂に全員が集結してしまった。私は頭痛で頭を抱えたくなったが、何とかそれを我慢して丁重に全員をお出迎えする。
「ちょっと待ってくださいね。一服させてください。一服だけ...ただ、それだけでいいのです。きちんと、身支度は済ませておきたいですから。」
そう言って私は煙管を口に付けようとして、腕をほんの少し動かした。すると蚕の方から糸が凄まじい速さで伸びてきて、私の腕をがっしりと掴む。
「...ん。不審な動きはさせない。」
投げ縄のように私の腕は糸に捕まれ、動きを阻害されてしまう。その衝撃で煙管は地面に落ち、情けない音を立てて転がっていった。
片腕を拘束され、五人の少女がじりじりと距離を詰めてくる。全員が軽率に飛び込んでこないのは、恐らく私の術式を警戒してのことだろう。
完全な詰み。まさかここまで虚しく追い詰められてしまうなんて、考えもしなかった。もし、このまま死んだら私はどうなるのだろう。
一度は妻と海に投じたこの身。自分だけ生き残ってしまった負い目はあるけれど、心底死ななくて良かったとも思う。
だって死んだら、それっきりじゃないですか。気立てのいい妻ではありましたが、おっかなびっくりの哀れな女でした。
私の手には負えない。手に負えないものは、海に流してしまうぐらいが丁度いい塩梅であると、私は固く信じています。
「死んだら私は、幸せだった頃の無垢な女房と一緒に天国へ行けますかねぇ。果てまた、仲良く地獄行きでしょうかねぇ。私にはなんだか、後者のような気がします。」
「.....かぐや様、油断ならない相手です。私が相打ち覚悟で詰めますので、かぐや様は後方からトドメを。」
人間の乙女と狼の少女が何やら密談を交わし、二人の目線が私の方を鋭く向いた。私には分かる。敵意の香りだ。
人の顔色ばかり伺ってきたから、私にはよく分かる。だから、この後何が行われるのかも、私には手に取るように理解出来る。
狼の少女が甲板の地面である板材を蹴りあげて、こちらへと一直線で飛んできた。後ろにいる人間の少女は両腕を構え、蚕は糸を掴んで離さない。
一方的な殺戮。蹂躙と言って差し支えない悲劇。私は二度目の生を、なんの意味も価値も無く終わらせてしまうのだろう。
「でも、地獄に行くにはまだ早いでしょう。もう少しだけ、遊び足りないのです。【血界侵蝕】『桜桃弔花筏』」
幽霊船も超えて、辺りに沈んだ船たちも包んで。辺り一帯の海の水面にまで、満開の桃の花びらを浮かべる。
「遊んでいきましょう。ここには道徳も、糞真面目で興醒めなこともない。快楽の京、桃源郷。エデンの園...と言い替えてもいいのやも知れませんね。」
聖女から聞きかじっただけの言葉を、私はさも自分の知識の如く語る。彼女が言うには、我々は生まれた時から罪を抱えているらしい。
同感だ。そうでなければ、私はこんなにも苦しんでなどはいない。だからこそ、このエデンの園はあらゆる苦しみを取り除く。
「まさかっ?!【血界侵蝕】『不明常夜』!!」
狼の少女が目をギョッと見開き、私の数メートル手前で急停止して黒い墨のような血界を作り上げた。
しかし、その血界はあくまで普遍的な大きさのもの。私の血界のような広大さを持つものでは無いため、彼女本人と私以外を包み込むことは叶わない。
「っ....!大規模な血界...!こんなものを隠し持っていたなんて...!!」
「.....外がどうなっているのか、気になりませんか?」
私は糸が項垂れて自由に動けるようになった腕をフラフラと揺らして、狼の少女にこれでもかと見せつけた。
たったそれだけの動作で、眼前の少女は面白いほど激高した表情を作り上げる。私はそれを無感動に、くたびれた様な気持ちで眺んだ。
「下衆がっ!!卑劣な術ばかりを....!!」
卑劣。卑劣と来たものだ。私のようなものは、どうやら彼女にとっては卑劣であるらしい。全く、この上ないほど正確な審美眼。
落ちた煙管を掬い上げ、私はパッと埃を払って再び口へと煙管を咥える。そうして紫煙を燻らせ、ふーっと煙を少女へ吹きかけた。
「立派、ご立派だ。貴女様はさぞ、高貴に産まれたのでしょうね。私はそう、産まれながらに卑しい者でございましたから。人の顔色を伺って、ヘコヘコペコペコしてばかりなのです。」
「御託はいい。外の皆様が心配なので、即座に終わらせます。」
少女は地面の影から真っ黒な刀を作り上げ、それを携え言葉通り即座に私へ刀を走らせる。
私はそれを回避するため後ろへ一歩下がろうとしたが、影で作られた腕が地面から生えて来て、私の足をがっしりと掴む。
掴まれた足は自由を失い、影の腕は私を逃がさぬようその場に縛り付けた。少女は表情に勝利の確信を浮かべ、私の首元目掛けて一気に刀を振り抜く。
戦いは恐ろしい。怖くて怖くて、堪らない。でも、それと強さはまた別の話。私は右手に煙管を持ち直し、少女の剣先を少し上に逸らしてやった。
その急な動きに対応し切れなかった少女は、トドメと力んでいた分だけ大きな後隙を生み出す。
術式だけの惨めな男だと、そう侮られていたのだろう。そうでも無ければ、血界を使えるような技量の少女があそこまでおざなりな斬撃を放つはずがない。
私は相手の影の腕によって固定されている片足を軸に体を回転させ、少女の腹部へ蹴りをお見舞する。
油断に加え、想定外の反撃。無防備だった腹は見事に撃ち抜かれ、少女は自らの血界の壁に衝突した。
「さぞ誇り高げに息巻いてらっしゃるようでしたけど、所詮は相手を見下し油断する程度。いいえ、否定している訳ではありません。誓って本当です。高貴さとは、無垢さとは美徳だ。けれど、無垢は罪だ。罪には、必ず罰が着いて回る。」
「がっ...!何が....言いたい...!!」
「妻がね、居たんですよ。年端もいかない可憐な少女でしてね、人を疑うことなんかしない。無垢な美しい妻でした。でも、その無垢さ故に騙され、妻は強姦されてしまった。」
私は強引に影の腕を振りほどき、ゆっくりと少女に向かって歩を進める。そうして少女の細首に手を掛け、首を軽く締めながら体を持ち上げた。
「私は...それが苦しいことを知っています。妻が強姦されたのですから、苦しいに決まっているはずなのです。それなのに、私はどこか他人事のような気持ちだ。」
悲しい事柄が起きれば、泣くことを知っている。理不尽な事柄が起きれば、怒ることを知っている。なのに、何が悲しい事柄なのかが分からない。実感がない、手触りがない。
真綿で首を絞められるとは、こういうことなのだろうか。どこか欠落しているような、我の無い自分。
「穢れがないから、無垢。我と言う垢が無い無垢。私の妻が無垢さ故に罰を受けたと言うのなら、私もいつか受けるのでしょうか。私には、それが分からない。」
それが恐ろしくて、私は妻と共に海へ飛び込んだ。罰に追いつかれてしまうのが、怖くてどうしようもなかった。
怖い。怖い?何が?罪?妻?分からない。苦しい。息ができない。死にたい?死にたい?救われたい?
頭の整理がどんどんつかなくなってきた。まずい、早く苦しみから解放されなければ。脳みそがどろどろ溶けだしていく、神を貴方は信じますか?
例えばそれは暖かいスープで火傷する子供。
例えばそれは授乳で窒息する赤子。
例えばそれは風鈴の音で凍りつく童。
例えばそれは、幸福で傷つく弱虫。
「罰!罰!そう、罰!!私にも妻にもあったのだから、貴女にも!!罰が必要だ。」
・【血界侵蝕】『桜桃弔花筏』
要蔵の術式である『道化華』で奪った分の幸福感と統合を振り撒く血界。故に長く発動し続ければ本人が統合と幸福感を失う結果となる。




