絶対、忘れないで。
深夜、春水たちと作戦会議を終えた私は、何だか寝付けなくって、一人仮設キャンプを抜け出して海をぼーっと眺めていた。
見えないほどの遠くに、自分と同じ悪霊たちが浮かんでいるのかと思うと、何だかぞっとする。
作戦として、私はあの船長と戦うことは無い。一度敗北したからではなく、私はどうしてもあの男が苦手なのだ。
あの、全てを見透かしているかのような目。それでいて、全てを諦めているような。紛うことなき亡霊の目。
あれを見ていると、自分も同じだと言われているみたいで嫌になる。私は、彼らと一緒なんかじゃないのに。
海はただ静かに、私を呑み込んでいく。そこには肯定も否定もない。ただ単純に、感傷を持たずさざ波を寄せる。
規則的な音が心を落ち着かせ、私の中の迷いを濯ぐ。そう、これでいい。私があれこれ考える必要なんて、無いんだから。
「やぁ、良い夜ですね。お嬢さん。」
聞こえるはずのない、不愉快な声がした。浜辺の向こうには、一隻の小舟と白髪混じりの覇気がない男。
絶対に会いたくないと思っていた、幽霊船の船長。葉蔵がグラスの中の氷をカランと鳴らして、小舟の上一人で酒を煽っている。
「.....奇襲ってわけ。いいわ、始めましょうか。」
私は辺り一帯、広範囲の熱を奪って白い息をはーっと吐く。周囲の温度は急激に低下し、葉蔵のグラスにも霜が着き始めた。
「対策は練って来た...と言うわけですか。なるほど、これなら確かに華が芽吹くことは出来ないかもしれませんね。」
葉蔵はニコニコと余裕の薄ら笑いを浮かべ、薄気味悪く小舟の上で酒をクイッと喉に通らせる。
臨戦態勢を取っているのはこちらだけ。だからこちらの方が圧倒的に有利なはずだし、このまま熱を奪い続ければ確実に敗北は無い。
そのはずだ。そのはずなのに、私はあと一歩踏み出すことが出来ずにいた。正直に言おう。私は今、眼前の葉蔵の迫力に気圧されてしまっている。
「試してみますか?私の華が、咲くのかどうか。」
お互いが既に互いの間合いの中に居る。即ち、ここから先は術式の早撃ち勝負。こちらが力を入れるのが先か、あちらが術式を発動するのが先か。
ここには、私と葉蔵の二人だけ。故に、一瞬の勝負で生死までもが決まってしまう。その重圧こそが私の感覚を狂わせ、キリキリと神経がすり減っていく音が聞こえた気がした。
この刹那の時間が、永遠よりもずっと長い。そう思えてしまうほどの錯覚を私は覚え、冷や汗が一筋頬を伝う。
「なんて、冗談ですよ。私は戦いに来た訳ではありません。ただ単に、貴女に興味が湧いたのです。私と同じ、悪霊の貴女に。」
葉蔵はパッと自身の両手を上に挙げて、降参のようなポーズを取った。私は当然、それを信用なんてするはずも無く、未だ警戒を続けながら葉蔵を睨んだ。
(罠?作戦?まだよく分からないけど...とにかく油断は禁物...!)
「私たちはね、この波と一緒なんですよ。えぇ、寄せては返す。一度誰かに寄り添ってみても、結局は灰になって何も残せず返る。私たちの生に、意味ってあるんですかね。」
ドクンと、心臓の鼓動が鳴った。ずっと考えてきたこと、その本質を言い当てられたような気がして。
私は何も残せない。どれだけ春水を愛していても、子供を作ることは出来ないし、未来へ自分の痕跡を残していくことだって出来ない。
私はそれに、耐えられるんだろうか。無為な体の重ね合いと、火照る体とは対照的に空虚が横たわって冷える心。
彼にとって私はいつか、忘れ去られてしまう女なんじゃないか。そう考え至った途端、私は溺れたみたいに息が出来なくなった。
彼の強さに助けられて、彼の優しさに救われて。彼の弱さを、助けてあげたいと思った。彼の隣に立って、少しでも力になりたかった。
春水は完璧じゃない。そこそこ強くはあっても、負ける時は負ける。どうしようもなく強い相手には、やっぱり一人じゃ勝てない。
そのはずだった。でも、久しぶりに会えた春水は、何だか丸っきり変わってしまっていた。
春水は強くなった。立ち姿で分かるぐらいには、見違えるほど。彼は、もう強くなってしまった。
(私はもう....要らないのかな。)
強さに縋った。それは、彼の隣に立っていい証明。強さだけが、私にとって彼の隣に立つための切符だった。
今となっては、それさえもう必要ないのかもしれない。自分の存在意義、存在理由は酷く曖昧で、簡単に崩れ落ちてしまうものだ。
「消えゆく私たちに、意味は無い。それは、貴女も同じじゃないですか。救われませんよね、そんな人生。」
「......何が......言いたいの.......。」
「私たちと来ませんか?聖女様は悪霊の救済までして下さいます。貴女もきっと、救われますよ。」
気づけば私は、術式を解いて浜辺まで寄っていた。一歩前に足を出せば、もう冷たい波が私の足に触れる。
葉蔵は浜辺近くの浅瀬にゆらゆら舟を漂わせ、こちらを手招いている。私は、どうしたらいいんだろう。
あなたの眩しさが好き。あなたの優しさが好き。あなたの笑顔が好き。あなたのちょっとダメなところも好き。周りに女の子が多いのはちょっぴり嫌だけど、それでもいいって思えるぐらい好き。あなたの所作、一つ一つがとても愛おしい。
あれが好き、これが好き。例をあげたらキリが無い。胸に彼のことを思い浮かべれば、ほんの少し胸が暖かくなる。
暖かくなって、熱くなって、どうしようもない感情が溢れ出す。これはきっと、自分の心じゃ抱えきれなかったものたち。
(あぁ。本当に、泣きたくなるほど大好きなんだ。)
ボロボロ、熱を帯びた銀が落ちる。私は、傷だらけだ。好きだから、その好きの分、体に見えない傷がつく。
「分かります。残せないのは、辛いことだ。貴女はもう、惨めな思いをしなくていい。一緒に来ましょう?一緒に、救われましょう?」
今ここで海へと身を投げ出せれば、どんなに楽だろう。葉蔵について行けば、私はきっと言葉通りに救われるんだろう。
でも、その先にきっと彼は居ない。彼がいる場所は、あの海の向こうなんかじゃ決してない。
私は愛されている。彼に愛されて喜んでいながら、その愛に同じぐらい傷つけられる。なんて愚かで、憐れな女。
「救いなんて、私は要らない。私はね、何にも残せない。残せないけど、爪ぐらいなら立てれるの。」
私は無意味だ。私の生に意味は無く、意義もまた無い。出来ることと言えば、精々誰かに傷をつけることぐらい。
「私は救われなくていい。救われたら、きっと忘れられちゃう。だからね、その代わり...酷い傷跡になるの。醜い醜い、化膿して一生跡が残るぐらいの大きな傷。かっこよく死ねば、忘れたくても忘れないでしょ?」
泣きながら、私は笑った。大好きな人のことを想って、大好きな人のために死ぬ。これ以上ない、幸せのはずなのに。
私はなんで、泣いているんだろう。
「....救われないでしょうね、貴女は。」
「本望よ。それで、彼の中に一生居れるのなら。」
もう、迷いは無い。私は、春水の目の前で死んでやるんだ。彼を守って、それでかっこよく死ぬ。
綺麗な思い出なんて、すぐに褪せてしまう。寝る前に毎晩思い出して、涙のせいで寝付けなくなるような夜を過ごして欲しい。
熱病と見まごうほどの悪夢を。私は、あなたの傷でありたい。美しい過去になんて、しないで。
葉蔵はいつの間にか、もう随分遠くまで舟を漕いでいた。私は、夜の浜辺で一人泣き続ける。でも、それでいい。
この痛みの分だけ、きっと彼も痛むから。この苦しみが、愛そのものなんだから。
私はただ、お守りを握るみたいに両手で虚空を抱えて胸に抱いた。そうして、ぽつりと雨のように呟く。
「大好き...。大好きだよ、春水。」
砂浜に雨粒が落ちる。空は雲ひとつ無く月を浮かべ、さざ波だけが雨の音をかき消してくれた。




