割かれた愛、紡がれた白。(二)
手を替え品を替え、何度攻撃のパターンを変化させようと、こちらの攻撃が相手に届くことは決してなかった。
しかし一方で、向こうもこちらに危害を加えて来ようとする気配はない。
そんなふうに不自然な均衡状態が長く続き、あっという間に僕は背が四歳児ほどに縮んでしまう。
「何が....!何が目的なんだっ!!」
思うように体が動かない苛立ちを言葉にして相手へとぶつけ、蚕のもののけを睨む。すると、蚕のもののけは一本の腕で横の方向を指さした。
その方向の先には今の僕と同じく、四歳ぐらいの子どもの姿があった。その姿は、どこか見覚えのあるようなないような、そんな不思議な感覚を思わせる子供。
その子供は、自分の弱さを象徴するように体にいくつものアザをつけており、体育座りで自分の膝を見つめている。
どうしてだろうか。この子供を見ていると、苛立ちが際限なく湧いて出てくる。自分でも分からないくらい、むかっ腹が立つのだ。
苛立ちは止まらない。僕はその苛立ちを発露するため、体育座りしている子供に近づいて胸ぐらを掴みあげる。
少し伸びた前髪がサラリと揺れて、目と目がピッタリ重なった。そこで、僕はこの子供が誰なのか、気づいてしまった。
この子供は、僕だ。それも今の僕じゃない。前世の、まだなんの力もなかった頃の、弱かった僕だ。
「今更....今更っ.....!なんのつもりだっ!!」
僕は子供の頬を殴り飛ばし、馬乗りになって顔面を攻撃し続ける。なぜ攻撃が通用するのか。なんて疑問は頭からすっぽ抜けて、今はただこの弱者を蹂躙せねば、という思いに突き動かされ続けた。
前世では野生に生きた。そうして今世では、人を知って、強さを知った。だから、お前のそれはもう僕には関係の無いものだ。
絶望の中で立ち上がり、鍛錬に励み、経験を経て。それからやっと、力を得るに到った。弱さなんてものは、とっくのとうにかなぐり捨てたはずのもの。
獣としての脆さでも、人としての強さ故の迷いでもなく。純粋な、選ぶ力のない弱さ。そんな弱い自分を見せられて、僕は苛立ちを抑えきれなくなっていた。
これは、僕が最も唾棄していた弱さだ。弱いから仲間を失った。弱いから大切な人を守れなかった。弱いから己を突き通せなかった。
そんな弱さが嫌で嫌でたまらなかったから乗り越えたのに、こうして未だ、僕の前に弱さは顔を出す。
そんな弱さの象徴に僕は手を掛けて、無抵抗な首を思いっきり絞める。
「僕は....お前とは違う.....!!もう、十分強くなった....。強く....なったんだよ.....!!」
「.....かはっ.......。ね......ぇ....。覚えて.....る.....?昔の...こと.......。お母さんと....お父さんと...。三人で.....出かけたよ.....ね.....。」
こいつの言っていることは全て、ただの戯言だろう。実際、僕には前世で父と母と三人で出かけた記憶なんてない。
僕にあるのは、空腹と痛みと寒さ。それだけが、あの両親から貰った全てだ。そんな暖かい記憶なんて、あるはずのない虚構のもの。
今なら分かる。僕はあの両親に、愛されてなどいなかった。今世で沢山の温かいものに触れてきたからこそ、あの冷たい記憶が明瞭に浮かび上がってくる。
そうして欠落を埋めるように、人の温もりを求めた。際限のない寂しさが波のように押し寄せて、温もりを感じているのに冷たかった。
これを、呪いと言わずしてなんと呼ぶ。僕にとって、あの両親との日々は正に悪夢だった。その、はずなのに。
「最初から.......愛されてないって.....。そう.....諦めていれば..........傷つかずに済む............。」
「何が....言いたい....!」
胸騒ぎがした。聞こえるはずのない波の音に、見覚えのない海の景色。僕には存在しないはずの、仲睦まじい前世の記憶。
そんな覚えのないものが、堰を切ったように溢れ出した。閉ざしていた記憶の鍵が外れ、僕は思いの濁流に呑み込まれていく。
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蝉の声さえ心地よかった夏、僕は父と母と三人で、人気のない田舎の海へ行った。
ゴツゴツとした硬い右手と、柔らかな左手に両手を預けて、僕は砂浜を踏んで宙に浮かび上がる。そんな僕の重さを、両親は心底嬉しそうに支えていた。
「よ〜し!冬雪!父さんと一緒に泳ぐか!」
「もう、あんまりはしゃぎすぎないでよ?ふゆくんも!まだ三歳なんだから。」
冬雪。僕の前世の名前だ。雪の降る冬の日に生まれたから、冬雪。両親がよく僕に、そう教えてくれていたっけ。
「おっと...悪い悪い。冬雪、母さんも一緒に遊べることをしよう。そうだな....砂のお城とか作るか?」
母さんのお腹は膨らんでいて、僕はお兄ちゃんになるみたいだった。この時は実感が上手く湧いていなかったが、多分その事に少しだけワクワクしていたんだと思う。
父も母もこの頃はずっと家にいて、次に産まれてくる妹か弟の名前について、あれでもないこれでもないと仲良く話し合っていた。
「波の音....。この子が産まれてくる時には、もう忘れちゃってるのかな。」
夕暮れの海に太陽が反射して、それを見た母がそんなことを言う。僕はそんな母の大きなお腹を擦りながら、母の顔を見上げた。
その表情の内に、一体どんな思いを秘めていたのか。今ではもう聞くことも、知ろうとすることもできない。
「きっと覚えてるさ。覚えてなくても、冬雪が教えてあげるんだぞ。お兄ちゃんとしてな。」
ガシガシと乱雑に、父が僕の頭を撫でる。不器用で適当な撫で方が、僕は好きじゃなかったけれど、あれもきっと父なりの愛情表現だったのだろう。
幸せだった日々。決して忘れることのなかったはずの、温かな記憶たち。そんなぬるま湯のような日々は、ある日突然、ビリビリと簡単に引き裂かれてしまった。
その日は雨がざあざあと降っていて、何の変哲もないように見えた。そうして何も起こらないまま、昼下がりになって事件は起こる。母が洗濯物を畳んでいる途中、突然ばたりと地面に倒れ込んだ。
父はそんな母を抱えて慌てて病院へ。僕にお留守番を命じて、父と母は車に乗り込み家を後にした。それから夜になって帰ってきたのは、やつれて萎んだ母と、同じくやつれてやるせない顔をしていた父だった。
母は両手に、何も入っていないお包みを抱えて、僕に話しかける。いつもの微笑みではなく、なんだか胡乱な作り笑顔で。糸が切れて壊れてしまった人形を彷彿とさせる母は、ボソリと一言。
「雨音。雨の音で、雨音。冬雪。あなた、お兄ちゃんになったのよ。」
その日から日常は音を立てて崩れ、もうどうしようもなくおかしくなった母と、あと少しのところで壊れずに踏みとどまった父だけが残った。そんな父も、長くは持たなかったのだが。
「なぁ…。もういい加減に…冬雪のことも見てやれよ……。最近のお前、ちょっとおかしいよ。」
「別におかしくなんて無いわ。そりゃあ、今は雨音がまだ小さいから…冬雪にはちょっと我慢してもらうことも多いけど…。」
忙しそうに、母は哺乳瓶にミルクを入れてかき混ぜ、温度を確かめる。そうして満足のいった温度になってから、お包みの中に包まれたぬいぐるみへと、母はミルクをあげた。
当時の僕から見ても、この時の母は異常に見えた。そんな風に壊れてしまった母から、父はため息をついて哺乳瓶を強引に取り上げる。
「雨音は....!もう死んだだろっ?!確かに俺だって辛いよ....辛いけど......!俺達にはまだ...冬雪がいるだろ.....。」
「.....やめて.......。やめて!!!!!聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない!!!!!!!」
真っ暗な部屋で、母は髪を揺らして発狂する。この時のやり取りが、おそらく父と母に、深い溝を作ってしまったんだろう。
父は発狂している母を僕に見せまいと、急いで家を出てから、僕を連れて二人でドライブに出かけた。
「冬雪、もし...もしだぞ。また妹ができたとしても、雨音のことを忘れないでやってくれるか....?」
僕は頷くことしかできなかった。幼い僕の反応を見た父は、軽く笑って再び言葉を続ける。
「そんで、生まれ変わったら。また、雨音を妹にしてやってくれ。コレ、父さんとの約束だぞ。」
それが僕が見た父の、最後の笑顔だった。




