凍る命に咲く蓮華
彼女の手に、突然刀が出現した。違う、あまりに目を奪われていたせいで刀を視認できていなかったのだ。その刀を指揮棒のように動かし、辺りを漂っていた花弁を身に纏わせる。すると、今まで惜しげもなく顔を覗かせていた蠱惑的な柔肌が隠され、夜を吸い込んだような透き通る深青色のドレスが彼女を包む。そんなたった一瞬の出来事が、僕にとっては永遠のように思えた。
月下の花園で、一際輝く一輪の白い花。そんな印象を抱かずにはいられなかった。彼女は優雅な足取りで花を踏み荒らし、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
「ご主人様!避けて!」
そんな刑部の叫び声で、夢が覚めたように意識が明瞭となり反射的に身を屈める。すると肩に鋭い痛みが走った。ただそれは違和感のある痛みで、傷口に熱さを感じない冷ややかな痛みだった。すぐさま後ろに飛び退き、肩に触れて傷を確かめる。傷口からは出血がなかった。その代わり、肩の一部が凍りついていて動きがだいぶ鈍くなってしまっていた。
(十中八九あの子の術式効果だろうな…。凍りつかせる能力?だとしたら炎の花の説明がつかない。未知数すぎる、ここは距離をとって様子見かな。)
僕が茶釜との稽古で学んだことは、戦闘技術だけではない。稽古の中で最も重視されたものは、冷静さを保つ訓練だ。どうやら、僕は戦いが盛り上がるとどうも冷静さを欠くようで、俯瞰して状況を見れなくなる。そんな欠点を補うために、茶釜と行ったのは一対一の単純な組み手だった。そこでは、茶釜の持つ独特の間合い、老獪さから生み出される安全に一呼吸置けるタイミングを学んだ。それに『未来測定』を組み合わせ、実践で使える精度にまで練り上げのだ。
肺の中の酸素を吐き出して、脳をより回すための新鮮な空気を取り入れる。より視界が開け、彼女の動きが数秒先まで手に取るようにわかる。右下からの切り上げ、その勢いのまま一回転して横薙ぎ、切先を上に向けてからの流れるような唐竹割り。揺れるドレスが蝶のように舞う姿に視線を誘導されながらも、僕は幾分かの余裕を持って軽々と回避した。
(中々、見えておるの。これなら手助けは無用のようじゃな。)
彼女の剣術は、はっきり言ってお粗末なものだった。狸たちが洗練されすぎているというのもあるのだろうが、刀を力一杯振り回しているばかりで、刀に振り回されているのがありありと分かった。それでも、回避するたびに僕の動きを学習しているのか、段々と回避が困難になってきた。
これ以上の回避は悪手だと思い、背中から刀を取り出して剣戟を弾く。火花が飛び、彼女の美しい顔に翳りが浮かぶ。舞踏会のごとく足を運ばせ合い、甘美な鉄音が響き渡る。何度か攻防が続いたあと、埒が開かないと見たのか彼女は勢いよく後ろに飛び退いた。
そして、彼女は刀を投げ槍のごとくこちらへ投擲した。僕は投げられた刀を上へ弾き、その一瞬の間を潰しに素手で向かってくる彼女を無力化しようと構える。しかし構えも虚しく、彼女は僕の間合いのギリギリで急停止して上空へと飛んだ。
器用にも、曲芸師にように空中で刀を掴んだ彼女はそのまま身を回転させて着地し、回転の遠心力を活かしてコマを思わせる動きのまま切り掛かってくる。格段に攻撃の威力が重くなり、いなすことはできたものの腕が衝撃によって痺れ、しばらく使い物にならなくなった。
(腕が回復するまで約一分ってとこか…。ここは一旦、時間稼ぎかな。いや…あえて攻める!)
「東の豊穣、一番『盛馬千』」
稽古中、何度か刑部に妖術を教えて欲しいとねだったことがある。しかし、刑部は色々と理由をつけてはついぞ使い方を教えてくれなかった。それでも、いつも使っていたこの術だけはなんとか見て覚えた。正確な教えを受けていないせいか、使える時間は二分にも満たないが、見たところ十分に能力は発揮している。
この術は、術者の脚力を大きく向上させ、馬のように飛んだり跳ねたりすることができる。しかもそれだけでなく、効果中は脚が刀と同程度の硬度を持つ。つまり、逃げ回るだけでなく脚での応戦さえもが可能ということだ。
「ん?刑部、まさかとは思うが…お主。狸秘伝の術をボンに授けたとは言うまいな?」
「…ほんっとに教えてないんやけど。なにあれ、意味がわからんなぁ。…いやほんとやって!」
(術の効果中にできるだけ削ることができれば重畳!目標は刀の破壊!)
力強い踏み込みをして、四肢が届く範囲まで詰め寄る。それを見て彼女は一歩分後ろに下がり、地面をとんと軽やかに踏んだ。すると、地面の花が一気に浮き上がって壁のように僕と彼女の合間を隔てた。視界が埋め尽くされ、彼女の視認が不可能となる。
しかし、焦ることなく『未来測定』を発動すると、花の壁を割って突撃してくる彼女が見えたので体を左に捩り危なげなく回避。追撃にも強化された脚力のおかげで余裕を持って対応できる。そんなこんなでのらりくらりしていると痺れもそろそろ取れそうになってきた頃合いになった。
回復した腕と強化された脚。この二つがあれば彼女を畳み掛けることができると確信し、その剛脚から繰り出される速度に任せてスピードで制圧する。術の効果が終わる頃にはもうほぼ防戦一方といった形になり、彼女の刀は刃こぼれが所々に点在していた。側から見ても、もう勝負はついたと判断してもおかしくはないほどだ。
そこでふと、大切なことに気がついた。
「一旦待って!僕らはここに悪霊を退治しにきたんだ!戦う理由なんてない!」
彼女はそれを聞いて崩れた体勢を立て直し、ゆらりと刀を地に突き刺した。そうして、赤く染まった唇が初めて開かれた。
「…お腹が空いたの。今までは屍肉しか食べたことがなかったから、あなたがとても美味しそうに見える。だからね、もっと美味しくなって!」
彼女が手のひらをこちらに向ける。その瞬間、僕の周囲に炎の花が咲き誇る数コンマ先の未来が知覚できた。そうして生み出され、今すぐにでも開花してしまいそうな蕾たちを可能な限り切り捨てる。それでも全てを無力化できたわけではなく、幾らかの花が開花する。
開花した花は全部で三本。左足付近と腰、それに加えて顎の少し先だ。それらの部位が凍り付き、花は線香花火のように儚く消えた。そこでようやく、彼女の能力が大まかに見えてきた。
(熱を奪う能力か!奪った熱を貯めておけるなら炎も攻撃として使えるはず…。近接と炎と冷却。やりにくい…。)
地面から刀を抜き、下段に構えながら全速で向かってくる。『未来予測』を使い、切り上げの形を取っている未来を把握、対応出来る形に構えを変える。
(左足が凍っているから回避は不可能、ただ切り上げはもう見た。速度も膂力も恐れるに足りない、対処は可能!っ?!フェイント?!)
『未来予測』の範囲ギリギリだったのか突きの動きが見えず、彼女は僕の切り上げの対応をするりと抜け、脇腹を切り抜ける。幸い、身を捩って軽く掠ったほどに押えたが、それでもダメージは馬鹿にできないものだった。
片膝をつき、なんとか防御の体制を固める。そんな僕を見て、彼女はさらに口角を上げた。そして攻勢を緩めることなく、予想は最悪な形で的中した。
炎の花が彼女を取り囲むように咲き、段々と形を変えていく。最終的に、花は矢の形状を取ってこちらに向いた。
矢が射出される。一斉にではなく、やや緩急をつけて。面としての範囲攻撃であれば、力を振り絞って飛び退き回避ができた。ただ、点として完全に狙いを研ぎ澄まされたそれは、一本一本が悪意を持っており、全てを回避出来るような生易しいものではなかった。
結果、数本は叩き落としたものの、大部分はもろに直撃。僕は初陣にして、なすすべも無く惨敗した。
「刑部、ここで助けてなんの意味があるのじゃ。神の器となり、その力を得て尚この程度のもののけにも打ち勝てんようなら、今ここで死んでしまった方が良いのでは無いのかの?」
刑部は茶釜の静止を振り切ろうとするも、諭されて勢いを失ってしまった。刑部は苦虫を噛み潰したような顔でこっちを見ている。対して茶釜は冷徹で、しかしその中には師としての期待が含まれていた。
奥の手が無いわけじゃない。ただ、それを使えば簡単に眼前の女の子を殺してしまう。それが、正しいことだとは僕には思えなかった。
焼け跡や霜焼けが斑にある体は、もう言うことを聞かなかった。地面に倒れ、月を仰ぐことしか出来ない僕に、彼女は馬乗りになって舌なめずりをした。
彼女の息遣いは荒く、くすぐったい息が顔にかかる。彼女の口が僕の首筋にカプリと添えられ、食べられる。そう確信した。
彼女の歯が僕に突き立てられる。じわりと血の滲む感覚に痛みを覚えながら、迷いを断ち切り奥の手を繰り出す。そうしようとした時だった。
彼女は震えていた。その震えが段々と大きくなり、彼女はゆっくりと口を僕の首筋から離した。
至近距離で、お互いの目を見つめあった。彼女の目からは大粒の涙が雨のように降っていて、彼女の顔の横にある月と合わさって、不謹慎だがこれ以上ない眺めとなっていた。
「私、私ね。ほんとうは誰も殺したくなんてないの。死んだ方がいいって、ずっとずっと思ってるのに。でも、それでもお腹が空いちゃって。もうどうしようもなくて。ごめん。ごめんね。ごめんね。」
その表情に、見覚えがあった。前世の父だ。前世の父も、あんなふうな顔で僕に謝り続けたんだった。僕は、ずっと後悔していた。あの時に、父に何かしてあげれていたら、変わったんじゃないか。父の心を救えたんじゃないか。
過去には戻れない。もう前世の父には会うことも出来ないし、涙を拭ってあげることもできない。それでも、今目の前にいる女の子は救える。涙を拭って、抱きしめてあげられる。
力を振り絞って、腕を彼女の頭に伸ばす。
「もういいんだよ、泣かなくても。死んだ方がいいなんて、そんなわけない。初めて君を見た時、綺麗だって、そう思った。僕は君に生きていて欲しいんだ。だから、僕が君を生かすよ。」
血と臓物と、死体だらけの花園で、この子はたった一人で苦しみ続けたのだ。空腹もあっただろう、生きた人間を食べたいと思ったことも、これが初めてじゃないだろう。それでも、彼女は耐え続けた。戦場の跡地のみを狙って、もう死んでしまった人の肉だけを貪り続けた。
まさに地獄だ。そんな地獄を進んできた彼女に、少しくらい幸せになって欲しいと思って何が悪いのか。僕は彼女の髪を優しく撫でて、そのままそっと首筋まで抱き寄せた。
彼女の頬はほんのり桃色に染まっていて、泣き腫らした目と合わさって綺麗な色だった。
再び、彼女の歯が立てられる。今度は明確な意志を持って、強く深く突き刺さる。
そうして、僕の意識は彼女の腕の中で沈んでいった。
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目を覚ますと、ぼろ布を恥ずかしそうに纏っている女の子が、僕に膝枕をしていた。どうやら、僕は食べられなかったらしい。
次第に恥ずかしくなって飛び起きると、彼女もまた恥ずかしそうにこっちを見て、口を開いた。
「.....美味しかった。あなたの血を飲めば、お腹もしばらく膨れる。だから...えっと...、ありがとう。」
首筋を確認するように触ると、歯型がうっすら残っているのが分かった。歯型と言っても、犬歯二本分の穴がちょっとあるだけで、ほかはほぼ無傷と言って差し支えなかった。
気づけば刑部がほっとしたような顔で、ひらひら手を振っていた。僕が倒れている間に治癒をしてくれたのだろう。今度美味しそうなおやつでも買ってあげよう。
「私、あなたについて行ってもいい?どこにも行くあてなんて無いし、あなたをまだ食べ足りないから。」
僕は二つ返事で了承し、彼女を迎え入れた。茶釜は微妙そうな顔をしていたが、刑部はなんだか嬉しがっていた。
「そういえば、名前まだ聞いてないや。僕は春水。君は、何て名前なの?」
「名前....ない。だから、春水が決めて。春水に決めて欲しい。」
ぺたんと女の子座りをしながら、上目遣いの彼女は真剣な眼差しでこちらを見た。僕は急にそんなことを言われて戸惑ったが、しばらく考えて、なんとか決めることが出来た。
「安直だけど...優晏なんてどうかな?君は、力の使い方次第で人に自分の温かみを伝えられる、そんな優しい力を持っているから。」
それを聞いた優晏は、嬉しそうに何度も反芻して自分の名前を呟いていた。
「優晏、優晏、優晏!ありがとう春水!私に名前をくれて。」
にっと、花が咲くように笑った。その顔は、彼女は見せる表情の中で、一番眩しくて尊いと思える、そんな魅力のある顔だった。




