プロローグ
虐待描写とややグロ描写があります...。
全てが終わって、ようやく荷物を下ろすことができた今。僕はどうしてか、酷く昔の出来事を思い出している。
まだ幼かった自分。何も知らず、ただ無機質に生き、悲しみだけしか持たなかった、哀れな子供のことを。
これは僕の記憶だ。一度死に、何の因果か再び別の世界で生を得た。祝福のような物語。
幼かった自分はもういない。今ではすっかり老いさらばえ、日向の中で孫たちに昔話をするだけの日々だ。
老人の思い出話ではあるが、どうか少しばかり耳を傾けてみて欲しい。
これは僕が、想いを知り。人を知り。愛を知る。色々なものが繋がって、そうして紡いできた、継承の物語。
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目が覚めると、いつもひとりだった。暗くて冷たい夜の中、梟が鳴き始めると同時に目を覚ます。
なぜ夜に起きるのか。理由は明白、夜の生き物の方が危険だからだ。
親から森に捨てられて、一体どれだけの年月がすぎたのだろうか。少なくとも、五歳の時にはもう森の中にいたような気がする。
まだ親と暮らしていた時のことだ。父と母は両方とも声が大きい人で、よく耳がちぎれるほど大声で会話していた。
今思えば、あれが喧嘩だったのだろう。森にいる猿が時々食べ物を奪い合っている姿を見ると、懐かしい思いがぐっと湧き上がってくる。
ただ、それが日常だった。ある時会話が盛り上がり、母が近くにあったマグカップを父へ放り投げた。
父はそれを避けてから、怒りすぎて真っ青になった顔で母ににじりよった。
それから先の記憶は曖昧で、ぽっかりと思い出せない部分がいくつかある。随分昔のことだから、もう忘れてしまったのかもしれない。
少しだけ覚えているのは、いびきのような音をたてて動かなくなった母と、ぜぇぜぇと息を切らして座り込んでいる父の姿だ。
母が動かなくなってから、父は優しくなった。もう火がついた煙の出るものを押し付けてこなくなったし、ご飯だって時々くれるようになった。
でも父は時々、思い出したように涙を流して蹲ってしまうのだ。
僕はその時、何をしていいのか分からずにじっと父を見ていた。すると父はうわ言のように小さく、ごめんな。ごめんな。と僕を見て呟いた。
蝿や蛆が湧く薄暗い部屋の隅で、父はずっと謝り続けた。そうしてしばらく経ったあと、僕に笑顔でこう言った。
「お出かけしよう。家族三人で、前みたいに。」
家族三人でどこかにいくのは、初めての事だった。父は僕を車に乗せた後、しばらく部屋から出てこなくなった母を抱えて車に乗せた。
久しぶりに会う母は、随分小さくなっていた。体からぽろぽろ虫が這い出てきていて、母は虫が好きなんだなと思った。
はじめての家族三人旅行の行先は、大きな山だった。父は動かない母を担いて歩き、疲れたのか母を地面に置いてしばらく休憩した。
僕も久しぶりに外に出たから随分疲れていて、いつの間にか眠ってしまっていた。
起きた時、もう父は居なかった。母もいなかった。いたのは、大きな熊とたくさんの野犬だった。
牙をむき出しにしたたくさんの動物たちは、一心不乱に目の前の肉を食べていた。
僕は怖くなって逃げ出して、それからお腹が空いて。ひもじくて寂しくて、もうどうしていいのか分からなかった。
気づけばもう日が落ちていて、月明かりが眩しいほど地面を照らしていた。
その月に目を奪われていると、いつの間にか目の前に一匹の狼が現れた。
狼は、小さな子供の狼を口に咥えていた。子供の狼はただぶらぶらと無機質に揺れていて、その無機質さがまるで母のようだと僕は思った。
不思議とその狼に恐怖は抱かなかった。月明かりに濡れた狼が、綺麗だとさえ感じた。
それから、僕はこの狼と過ごすことになった。獲物のとり方、食べていい植物。他にも人間についての知識や、野生のことだけでない様々なことを狼は教えてくれた。
今思えばあの狼は、特別だったのだろう。人語を解し、高度な知恵を持ち。そうして時たま、常識では理解できないような技さえやってのける。
その大きな力が、きっと狼を孤立させたのではないか。あの狼も、強さゆえに色々なものを失ってきたのではないか。
そうしてなんとなく狼の伝えたいことが分かるようになり、何回もの冬を越した時。狼は死んだ。
狼が死んだ時初めて、僕は母も死んだんだと理解出来た。狼は、母以上に色々なことから僕を守り、父以上に色々なことを僕に教えてくれていた。
涙は出なかった。それでも、その日の晩は何も食べなかった。
それからというもの、繰り返しのように日々を過ごして今に至る。ただし、もう片目が見えなくなってきている。
水面に映る自分の姿は全身が白く、髪や髭、それから片目に至るまでの全てが白色だった。
死を悟った。幾度も見てきた死だ。母が死に、狼が死に、そして今自分に死が迫っている。
死はありふれているものだ。昨日だって、熊を死なせ肉を貰った。爪も貰ったし、ついでに毛皮も貰った。
だから怖くない。きっと怖くない。死は怖くないんだ。そう思いながら薄れ行く意識を、どこか他人事のように眺めていた。
次に目を開けた時、懐かしい感覚に身を襲われた。思うように声が出ない喉が、開かない目が。何より、自分を持ち上げる暖かな手が告げていた。
二度目の人生を。