夢でふるさとに戻る理由
気がついたら、小さい頃暮らしていた両親のアパートにいた。
いたというか、家は三階、自分はベランダの下から見上げていた。
ここは日本最北の街稚内市、漁業と観光で成り立っている。
昔は高林デパートがありアーケード街も活気にあふれていたが、数年前に行ったときはもう昔の街ではなかったが、駅だけはとっても立派になっていた。道の駅とJRの駅が一緒になり、2階には映画館も出来ていた。しかし海沿いに出来たホテルは何回も名前が変わりそれは観光業の衰退も意味していた。
稚内といえば、ポンたら、カンカイ、タコのしゃぶしゃぶで有名だけど、地元民に人気の居酒屋は面倒な観光客が来ないように暖簾を出さず営業している。観光客が来てしまうと常連客が入れなくなり、結局はお客さんが減ってしまうので、観光客を当てにせず地元民を優先する商売をするのは、ある意味当たり前かもしれない。
高校生の頃よく行ったピザ屋は、相変わらず営業していたが娘さんに代替わりしていた。
この駅の一つ手前に南稚内駅という所があり、僕はこの駅のそばで子供の頃を過ごした。
この駅の周りも昔は栄えていたが、正面にある船で働くひとのための宿である船員会館も、今は廃墟となっていた。
駅の右側に仮設のスーパーみたいのがあって、そこに度々、旭川の蜂屋時計店がお店を出すのがたのしみたった。小学生の頃は時計をするのに憧れていた。
ある日、行ってみると時計屋さんがお店を出していて、母が「買ってあげようか?」と言い出した。たしかシチズンの大人っぽい時計で家でもつけていたのを覚えている。
よく両親に連れて行ってもらった、大昌園という焼肉屋は見つけられなかった。親父は銀行員だったので、美味しいお店をたくさん知っていて、毎週のように外食に連れて行ってもらった。
細い商店街の道を歩き大きな交差点を右に曲がると踏切があり、そこを左に曲がるとそのアパートはあった。
今から思うとその銀行の殆どの人がそこに住んでおり、多分家に帰ってもカースト制度があり、オンオフのない生活だったろうと思う。
親父は、車に乗ると人と目が合うたびに礼をしていて、知り合いが多いなぁと思っていたら、自分が知らなくても相手が知ってるからもしれないと全員に頭を下げていたそうだ。
その一番奥のアパートの三階に住んでいた。
内階段の手すりで逆立ちして親を驚かせるのが日課だったが、そのせいかある日突然高所恐怖症になってしまった。
50ねんたった今、何故かその部屋のベランダをアパートに囲まれた広場から覗いている自分がいる。
何となく動いている人影が見える。
窓が開いて、「早く帰っておいで!」という母の怒鳴り声が聞こえた。
「はーい」と返事をするが何故か母には聞こえない。悲しくなって目が覚める。
こんな夢を数日おきに繰り返すのはなぜなんだろう?
その建物の広場を挟んだ向かいに独身寮もあった。
高校生の時、両親が転勤になり、僕だけ独身寮に住むことになったときは正直嬉しかった。
独身寮だから、ご飯は出るし、社員の人もそれほど歳は離れていなかった。
学校から帰ると、商店街のレコード屋の二階にある喫茶店に行き、キープしてあるコービーチケットで苦いコーヒーを飲みながら漫画を見るのが日課だった。
今から思えばコービーチケットで1ヶ月毎日コーヒーを飲みに来るませた高校生だと思ったことだろう。
実際お金だけは不自由なく与えられていたので、社会人の大人と同じような生活をしていた。
夜は銀行の人の部屋に遊びに行き悪い遊びを覚えたしドライブにもしょっちゅう出かけた。
でもそのせいか不良にはならなかった。高校ではかなり真面目なやつに見えたことと思う。
高校では軟式テニス部に入ったが、やはりボルグやコナーズのような硬式テニスをやりたかった。
友達の広橋君と一緒に2年で硬式テニス愛好会を立ち上げた。先生は忙しくなさそうな先生(名前は忘れてしまったごめんなさい)にお願いした。
あっという間に硬式テニス愛好会が立ち上がった。
すると軟式テニス部の男女がごっそり移籍してきてあっという間に大組織となったが、先輩達はかなり腹を立てた事だろう。でも何故か文句を言われたり喧嘩になることは一切なかった。
今ではちゃんと正式な部になっているが僕が創設者だと言うことは知らないだろうな。
小学生のときは、アパートの前の道を通りに向かって進み左に曲がった商店でコカ・コーラのヨーヨーチャンピオン大会があったっけ。
チャンピオンはしかも外人だったので、こんな田舎まで来るなんて凄いなと思ったけど今から考えたら不思議だ。
チャンピオンって何人くらいいたんだろうな。
そのお通りをもう少し進むとおやきのお店があった。多分食堂だったんだと思うけど、子供の僕にはおやき専門店だった。おやきは炊飯ジャーに保存されていて野球のあとは必ず食べた。
もう少し行くと文房具店の勉強堂があった。
文房具はそこに行けば何でもあった。
僕たちのクラスにチラシを書くのがとっても上手な男の子がいた。
銀行の架空のチラシをかっこいい万年筆でスラスラ書いていた。
だからみんな万年筆を買った。
しかもインクにつけて書くタンクのないやつ。
そこがプロっぽかった。
更に進むとフレンチドッグのお店があった。
多分そこも食堂だったんだと思うけど僕たちにはフレンチドッグ屋さんだった。
ケチャップ派とさとう派に分かれていたが僕はどちらも大好きだった。
そのあたりから右側の坂を登ると中学校があった。
あのよさこいて有名になった所だ。
その途中にもう一つ文房具店があった。
そこは父の友人のお店で、儲かっていたのか、いすゞ117クーペに乗っていた。
あれはカッコ良かった。僕たちにしたらスポーツカーだったよ
だって父は、サニーそしてバイオレットだったから。
海の町稚内といえど、海水浴に行くのは遠かった。
緑一丁目から五丁目、そして坂の上を通り、大きく下った坂の下に海水浴場はあった。
自転車で一時間はかかったと思う。
そこから利尻島も見えた。
利尻島といえば小学校3年までは利尻島の沓形に住んでいました。
ここでは遊びは釣りしかありませんでした。
朝起きたら、親父と釣りをしてから学校に行きたました。
投げるたびにチカ用の仕掛けに、チカとイワシがごっそりかかり、持ってきた入れ物に入り切らず半分以上海に返したように思います。
休みの日には友達とフェリーで礼文に遊びに行くこともありました。
冬は学校の横の小山でスキーです。
大きなビニール袋に入って上から滑る方が面白かったのを覚えています。
おっと話が飛びましたのでもとに戻ります。
すっかり気持ちが子供に戻っていました。
高校生になると自転車が流行りだしました。
シルクというかなり高額な自転車が自転車屋さんに入荷してこぞってみんな買いました。
そうなると遠出したくなるのが僕たちです。
増幌というところに友達の牧場があり、そこに泊まりに行こうということになりました。
自転車で一時間程度の距離だと思いますが、僕たちには大冒険でした。
牧場につくと、ちょうどお産の最中ということで初めて牛のお産を見ることが出来ました。
このあたりの記憶はドラマなどとごっちゃになっており何が本当なのか覚えていません。逆子だったような気がしますがテレビでみたやつかもしれません。
人の記憶というのは怖いものですね。
夜みんなで騒いでめちゃくちゃ盛り上がっていたら一人がてんかんを起こして大騒ぎでした。
救急車が来てその後どうしたかも忘れてしまいましたが、処置だけで乗らなかった気がします。でもその後は騒がす静かに一夜を過ごしました。。
またバルコニーを見上げています
あれまた同じ 夢なのかデジャブなのか
母がまた「早く帰って来なさーい」と叫んでいる
この夢は何なんだろう
何を意味するんだろう
いつも思っていました。
小高い山の上にある稚内公園には、百年記念塔やスキー場、氷雪の門、九人の乙女の碑などがある。
この中でも九人の乙女の碑は必見です。
これが最後です
さようなら
さようなら
樺太が日本領だったとき、ロシアが攻めてくるギリギリまで電話交換手として頑張った九人の乙女を称える碑です。
乙女たちは、仕事上いろいろな秘密を知っていることから死を持って自らの仕事を全うした訳です。
この公園からはその樺太をのぞむことができます。
また夢を見ました
自分が住んでいたはずのバルコニーを見上げています
ガラスの向こうに母が見えました。
出てきた母は、私に向かって石を投げてきました。
えっ?
すごい形相でこちらに石を投げてきます。
なんで?
慌てて玄関に対って走ったところで目が冷めました。
そして現在、 場所は同じ海がある札幌近郊の小さな町
その日から同居している母の様子がおかしくなりました。
年なので、物覚えが悪いのは当たり前ですが、とても怒りっぽくなりました。
ネットでいろいろ調べてみたら、痴呆症の症状の1つのようでした。
朝起きたら、突然怒り出し手がつけられない状態で、半日すると別人のように静かになったりの繰り返しでした。
顔についた化粧品が取れないと一日中顔を洗っていたり、ちょっとした傷をいつまでも触っていて酷い状態になることもよくありました。
その頃から外に出かけるのが億劫になり、家に引きこもるようになりました。
カラスに襲われるのが恐いと。
大好きなセブンイレブンにも行かなくなりました。
このままではいけないと思い、親戚友人の電話帳を作ってあげました。
これが嬉しかったようで、毎日のように色んなところに電話して暇をつぶしておりました。
市に問い合わせて、年寄の集まるデイサービスに行かせようともしてみましたが、一度行ったら、自分はあんなに年寄りじゃない、自分で満足にトイレもいけないような人達と一緒にするなと、すっかりご機嫌斜めでした。
そんな母にもついにその日はやってきました。
急にお腹が痛いと言い出しましたが、食あたりがなにかだと思い胃腸薬を飲んでもらい様子見をしていました。
二日立っても治らず、ついに救急車呼んでほしいといいだしました。
コロナ禍で救急車が来るまでに20分、病院が決まるまでにさらに30分、救急車の中で誤嚥で心臓が止まり、心臓マッサージのかいもなくこの世を去りました。
たまに見ていたあの夢は、何を意味していたのかは未だわかりませんが、たくさん優しくしてあげられたのは事実です。
ベランダと母との距離は、現在の母との距離を表していたのかもしれません。
いなくなって初めて親の有難みを知るとよく言いますが、その言葉に間違いはなさそうです。
このエッセイは限りなく現実に近い内容となっておりますが、登場する名前や住所は一部変更しております。