始まらない物語
「メルディ様を解放してあげてください!愛のない結婚なんて、メルディ様が可哀想です!」
「……はい?」
突如として目の前に現れた男女に睨みつけられ、行く手を塞がれた公爵令嬢は金の稲穂のような豊かな髪を揺らして立ち止まり、ワインレッドの大きく愛らしい猫のような目を瞬いて礼儀もなく大声で唾を飛ばしながら叫んだ少し背の低い彼女を見つめた。
この彼女は伯爵家の令嬢なのだがいささか訳ありらしい。噂好きで知られる顔見知りが楽し気にテラスで語っていたのをふと思い出した。入り婿である伯爵が手をつけた侍女の子なのだと。
伯爵家には娘が一人と息子が一人。いずれも正当なる伯爵家の血筋である夫人が産んだ子らであるが現在の伯爵と夫人は政略結婚から結ばれたものたちで婚約を交わしていた時分よりあまり仲よいものではなかった。
加えて体の弱い娘の他に丈夫で外部に嫁がせられるものが必要と勝手に思い込んだ入り婿である伯爵がいそいそとある日突然連れてきて娘にしようと言い出した。その娘こそ冒頭の叫びにも近い声をあげた彼女である。
伯爵邸にいた侍女に無理矢理に迫り事に及んだ挙句、バラされたく無かったらと言う卑劣な言葉でずるずると関係を続かせ孕ませるまでした癖に己の地位を脅かされるのが怖くなり適当な罪をでっち上げ金を握らせ追い出したのを不審に思いつつも知らず、数年経ってから罪の意識にかられた他の侍女の口から全ての事実を知らされ更には母子のみで慎ましくも精一杯生きる彼女からひったくるようにして娘を奪ったと夫人は知り、当然のことながら怒り狂ったそうだ。
入り婿の分際でとそれだけではなく、己の世話を焼いてくれていた侍女の一人にそのような鬼畜極まりない所業を行った事は同じ女として業腹だったのだろう。その時の夫婦喧嘩の様は凄まじく、数年と経つ今でも伯爵が治める領民の間で語り継がれているほどと。
隠居した前伯爵も健在であるためにその後の現伯爵の処遇は言葉にしなくとも明らかであろう。とは言え、確かに娘は二人いた方がとなった。
それと言うのも母親から無理矢理に離された娘を親元に返そうとした時に他でもないその娘が伯爵家に養子となっても良いと乗り気な発言をし、元侍女、伯爵親子と話し合い娘の幸せを祈った母親が貧しい自分と暮らすより娘がそれを望むならばと伯爵家に託し養子となる予定で教育が施されることになったのだが……。
まぁ、出来の悪いこと悪いこと。
平民ではなく子爵家から侍女へと来た母親の長年のしつけも虚しく教養は皆無、加えて自ら伯爵家の養子にと名乗りをあげたのにも関わらず教育係が少し辛く当たっただけで自分の出身が悪いからかと大げさに泣きわめき誰彼構わず被害者ぶるので皆が呆れ返った。
これでは嫁ぎ要員としての意味も、体の弱い娘の代わりに婿を嫁がせようという話も無理である。よって、養子の件は断念され今は侍女として母親とともに伯爵家に住まわそうかと流れつつあった。
子の出来が悪かろうとも、すべての元凶は入り婿の伯爵が悪いのだからと前伯爵とその娘たる伯爵夫人は金で解決なども出来ただろうにそれをせず何とか彼女らにチャンスを与えようとしたのだ。
そんな彼らの思いも、母たる侍女の思いも知らず今この瞬間にも彼女は我が道を突き進もうとしている。
「いきなり人の行く手を遮り、何なんですかあなたは。自身の身分も名前すら明かさずにこのような廊下の真ん中で淑女が大声をあげるなんて、恥を知りなさい」
「ひ、ひどい!そんなふうに言わなくてもいいじゃないですか!学園はきせんのかきねなく平等だと、私、教わりました!」
「確かに共に学び励んでいくことにおいては平等でしょう。国王陛下もそう仰られています。しかしそれとこれとは別。最低限の礼儀と規則を誰も守らなければ秩序は乱れ、風紀もまた荒れてしまいます。そんなこともわからずに平等を振りかざし己の行為を正当化させようとするなんてそれこそ横暴です。暴論に違いありません」
「難しいことばっかり言わないで下さい!私が養子だから馬鹿にしてるんですね?!」
「……そんなことは一言も口にしていません。それに名乗りも受けていないのにわたくしにどうやってあなたの素性や生い立ちがわかるのです?」
突然ではあるものの、事実二人で顔を会わせたこともなければ学年も違う。領地も離れ今の今まで接点など欠片もなかった事を考え冷静に受け答えする公爵令嬢はしかし言葉の通じない伯爵令嬢に呆気にとられ、思わずというように小首を傾げて背後にいた者に言葉をかけた。
「どなたか、彼女をご存知?」
「カトァリー伯爵家で身を寄せている方かと。伯爵夫人の血を継ぐご息女のナトゥーラ様に良い主治医が見つかった事から恐らくは養子の件もなかったことにされると既に話はつけられ、卒業後は伯爵夫人の侍女殿と共にカトァリー家で勤める予定とのことを私は父より教えられています」
「そう。ならば何故わたくしたちに声をかけてきたのかしら」
「シュティーリケお嬢様とのご婚約後も王太子殿下をお慕いしている令嬢は多いと聞きます、彼女もその一人なのではないでしょうか?」
「マクネウェル公爵家を公衆の面前で貶すような真似を平気でするような者です。事実無根と学園の者に知らしめるためにも王太子殿下をお呼びしますか?」
「既にカトァリー家の者への連絡と守衛の者は手配しています」
「このような面倒ごとにメルディ様のお時間を頂くわけにはまいりません。それに生徒間の些細な衝突です。学園の皆もマクネウェル公爵家とカトァリー伯爵家のいざこざを無用に広めるなどすれば火の粉が己の身にも降りかかることくらい弁えているはず。放っておきなさい」
「「「我が主の御心のままに」」」
生徒の服を着たもの、清掃の業者を装ったもの、どこからか音もなく現れた明らかに影と思わしきものたちの言葉をそれぞれに聞いて公爵令嬢は口をパクパクとしている伯爵令嬢、いや、伯爵家のものを見据え溜め息を吐く。
「あなたがメルディ様の何なのかはわたくし存じ上げませんが、隣国より嫁いできた二の姫たる母の血を継ぐわたくしとメルディ様の婚約はニヶ国の悲願でもあり邪魔立てしようものならそれ相応の罰が下ることを覚悟なさいませ」
先代は共に同性同士の子しか生まれず、タイミングもなかなか合わず上手く行かなかっただけに今度こそはと言う思いが両国にある。
そしてなにより……。
「そこで何をしているか」
青褪め震えだした伯爵家の彼女の顔がパッと明るくなる。
先程の脅しも忘れたかのような変わり身に公爵令嬢は眉を顰めた。
「メルディ様!聞いてください、わたしっ」
「口を慎め。我はそなたに名を呼ぶことを許した覚えもなければ声をかける許しも与えた覚えはない」
「そんなっ!私は!」
「わからぬ奴だな。おい、この者を捕えよ」
可愛らしい彼女の縋りつこうとした手も阻むように立ち塞がる彼の側近候補らに彼女はあっという間に捕縛され、悲鳴をあげながら未だ王太子の名を呼び遠ざけられようとも必死に振り返り何かを訴えるが誰も聞かずに終わった。
残されたのは彼女の連れていた数人の子息たちだが、王太子を前におどおどとするばかり。
そんな彼らを怪訝そうに見ながらも王太子は己の婚約者の元へと歩むとカーテシーを取る彼女の許可を取り、その細く美しい手を取りその場に跪き口付けを贈った。
「何やら妙な輩に絡まれていたようだが、大事はないか?」
「はい。メルディ様がすぐに駆け付けてくださいましたので。お心遣い痛み入ります」
「もっと疾く事が起きる前にともにいたかったのだがな、流石にそなたに着けた影も風の如くはなれなかったようだ」
「お戯れを。このくらいのことも己で解決出来ねば国を担うものとして失格でございましょう」
「だが我は愛した女性を守れぬ不甲斐ない男になどなりたくはない。……もっと我を頼り、扱き使ってもいいのだぞ?そなたにはその権利がある」
傲慢で無慈悲な王太子と呼ばれる彼が人目も憚らずにそう口にすれば周囲で事の成り行きを見守っていた他の生徒たちはざわりとざわめきだし、公爵令嬢は微かに頬を赤らめると顎を引き黙り込んだ。
その様子に手応えを感じ王太子は笑みを深めると逃げたそうにしている彼女の手をようやくと放し、立ち上がり彼女の隣へと並んでエスコートをする構えをとった。
「さて。行こうか、我が婚約者殿」
今日は久しぶりに二人で学園の中にあるカフェで食事をする約束だったのだからと連れ立ち歩き始める。
もう、と呆れたようにけれどエスコートを嫌がることはなく体を預けていつもよりも少し近い距離を許す彼女もきっと僅かにだが突然の出来事に心を乱していたのかもしれない。
政略的な婚約。されど、王太子が初めての顔合わせで彼女に惚れたが故に成った確かな愛ある婚約でもあるのだから。
何かしらの理由をつけて贈られる贈り物やメッセージカード、恋文は山の如く。彼女も彼女の両親も公爵家のもの全てが王太子の彼女への愛を信じてやまない。婚前からこんなにも想われ大切にされているのだから、決して不幸な目には遭わないだろうと微笑ましく思っている。
愛だの恋だのを自覚する前より想いをめいっぱいに注がれ、幼き日より今に至るまで来た彼女もだからこそどんなに辛い教育も忙しさで会えぬ日々も耐えてこれた。
一時でも一人だとは思わなかったからだ。この苦難を共に乗り越え、その先で己の事を待つ人がいると知っていたからこそ常に最上を求め立場に甘んじることはなく研鑽を重ね、国一番の才女、次代の王妃の器と呼ばれる程にのぼり詰めた。
「メルディ様、お慕い申しております」
「我の答えも必要か?」
「……はい」
「まったくそなたにはかなわないな。この世でそなた以外に我の心を乱すものはおらず、また我の行動を制限できるものもこの唇から言葉を引き出すものもおらぬ。そなたは我にとって生きる糧であり、光であり、唯一無二の宝だ」
「有り難く、存じます」
自然と二人の周りから人がはけ、それを見計らうよう薄く小さな唇を開き思いをこぼした彼女の告白を上回る熱く重い言葉が囁き落とされ、彼女の口元が緩み俯き顔を真っ赤にしながらも嬉しそうに公爵令嬢は噛みしめるよう、小さく会釈を取り、王太子も満足そうに頷きまた前を向き直った。
柔らかな風が吹き、二人の髪が揺れた。黄金と銀色の煌めきが宝石のように輝く。
あと三ヶ月ほど過ぎれば夫婦となる。
きっと互いに助け合い、高め合える良き夫婦として歴史に名を刻むだろう。