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灰色の日

作者: カーミラ














 ある奥深い山間の道を、カーステレオを鳴らしたまま走ぅていると、それらしい橋が見つかった。橋の入口にあるスペースに車を乗り上げ、運転席から暫くその橋を眺めた。車一台通る幅しかないコンクリートの橋の上を、数本のワイヤーが空に向かって伸び、鉄柱の先端に繋がっている。橋は本来赤かったが、随所に塗装が剥がれ落ちて、曇天の昼下がりで見る古い橋は茶色い印象を見る者に与えていた。

 徒歩で橋の向こう側へ渡ろうとすれば、煙草1本吸い終えるまでの時間がありそうだった。橋はいまこうして実際に来て確かめてみると思っていたよりも長いことがわかった。そして半信半疑だった誰も立ち寄る者のいない寂しい場所だというインターネットの情報は、半ばからかうように疑っていた軽い気持ちを霧散霧消させるには十分な孤立感を肌に感じさせてもいたのだ。

 同じ目的で来た人間が二人以上はいるものと思っていたが、実際に橋の近くには誰もいない。それどころか、この橋に辿り着く数分前、もしかしたら数十分前から、すれ違う車や人を見掛けなくなっていた。ただ舗装された道路の両側に迫るように生い茂る樹木の葉が、車を走らせながら気付いた時には、山深い隙間のない音で風に揺すられながらクスクスとざわめいているばかりであることに今振り返ってみて、はじめて気付いたほどだ。

 車から降りると身体を伸ばす為に精一杯伸びをして、両腕を厚い雲で覆われた広い空に向かって拳で指した。その時背後でひとの気配を感じて咄嗟に振り向いたが、勿論誰もいなかった。ただ、この場所の性質上、伸びをして気を緩めているうちに、心理的に誰かがいると、錯覚しただけだろう。車の後部座席から三脚を出すと橋の入口まで行き、平らな地面を見つけてその上に立てた。小型のビデオカメラを設置して、橋の上をファインダーに収めると、スタートボタンを押し、車に戻った。

 撮影時間は2時間だった。一般的にいって夜に撮影した方が残る確率は高いのかも知れない。しかしこの場所では、昼下がりのこの時間帯に撮影した方が確実に残るらしいのだ。情報にはそうあった。そして幸いと言って良ければ、空はどんよりと曇り、陽が射すこともなさそうだった。まさに絶好の日時と空模様だったのだ。

 長い間運転していて疲れていたのだろう。最初は運転席に坐ったまままどろんでいたのだが、次第に横になりたくなって、後部座席に移ると、身体を横たえた。そしてすぐに睡魔が訪れた。



 どれくらい眠っていたのか。後部座席の窓から外を見るまでもなく、辺りは暗闇と静寂に満ちていた。ただ橋の下を流れる川の急流が、呻るような音を暗闇の中に響かせていたのを除いては。昼間より流れが激しくなっていた。着いた時には、急なことに変わりはないが、流れがもっと緩やかだったはずだ。あのとき川の流れる音すら、今はもう既に聞いた憶えはなかった。

 躊躇した後、車のヘッドライトを点灯させた。車の前に、白装束の女を照らさずに済んだことに止めていた息を吐いた。暗闇に溶け込んだ森の中から野鳥の鳴き声が川の激流の間に規則正しく聞こえていた。身を乗り出して助手席のダッシュボードから非常時の為に置いている懐中電灯を取り出して、車から降りると、足下を照らしながらカメラを立てた三脚の方へ歩いた。ビデオカメラを外し、三脚を片手に抱えて車に戻り、後部座席に置くと、ジーンズのポケットからジッポーを出して煙草に火を点けた。運転席のドアの横に立って、煙草を吸いながら、激しい川の流れに周囲の鳥や夜風の音を呑み込んでいる様子に暫く耳を澄ましていた。

 陽が落ちた後の山の中は寒かった。運転席に戻り、小型のビデオカメラに収められたはずのものを、今この場所で、この暗闇の中、ひとりで確かめた方が、家に帰って観るよりスリルが味わえると思った。何も映っていなくてもいい。ただ見てみるという行いそのものに興奮するのだ。

 録画記録は約2時間。正常に撮影されているようだった。再生ボタンを押し、録画した内容を確かめた。昼過ぎの、厚い雲に覆われた広い空が、カメラの広角に遮られて一部を映し出しているばかりだ。赤茶色の橋の鉄柱が画面の中央を船のマストのように伸び、その上からワイヤーが数本張られて、狭くなった灰色の空を更に小さく見せていた。三脚の上に固定されたビデオカメラの手前から、奥に小さく捉えられた橋の向こう側までの無人の道を、カメラが被写体として捉えている。画面の端の方には吊り橋の赤茶けた欄干と、その外側に僅かに灰色の川が動いていた。音声を上げて行くと同時に轟音も増していった。やはりあのときでも、川の流れは激しかったことを、ビデオカメラから今知らされた。偶に鉄柱やワイヤーに鳥が羽を休めに止まっては、また何処へとも無く飛び去っていった。橋の向こう側に広がる名前の知らないいくつもの山脈のうねりとそこからずっと、橋の向こう側、手前まで続いているような深い森が、黒く、小さくなって平坦な画面の真ん中よりやや上方に押し込められている。

 橋の上には何も変化はない。ただの忘れられた、無人の橋だった。仕事や恋愛の躓きから、自爆自棄になって非現実的なものに眼が行き、今日のようにひとり車で人里離れたこの場所まで興味本位で来た顛末のこれが証しだった。何もないのだ。何も。また普段と変わらない生活が始まる。ただ現実があるのみだ。失うものが何もないとわかってはいても、不慮の事態に囚われるかも知れないという心配もしなくていいのだし、今日のように、スリルを味わっただけでも、身体のどこかに溜まっていた灰汁が取れたのだから、それでいいのだ。車を出して、来た道を戻り、いつもの暮らしに戻っていく。だがもう二度と、こんな寂しい場所へは、もう金輪際来ることはない。仮に今度ひとりで来るようなことがあれば、その時こそ、そしてそれこそ奴らの仲間に入れて貰う時だろう。

 後は2倍速や4倍速で早送りしながら見ていった。一応撮ったものは最後まで、倍速しながらでも見てみるのが道理というものだろう。ガソリン代だって掛かったのだから。

 最初はそれに気付くのに時間が掛かった。一時停止のボタンを押して、運転席に坐ったままジッポーで煙草に火を点け、ヘッドライトに照らされた暗闇に浮かぶ橋の入口をただぼんやりと見つめながら煙草を吸った。小さな羽虫が白いライトの光線の中を塵のように舞っているだけだった。異変の所在が夜の現実以外の時空で起きている事に、正視出来なかった事実を否定するように、初めの内はただ夜を見ていたような気がする。煙草を途中で消し、ビデオカメラの画面に視線を戻し、再び再生ボタンを押した。カメラの前に女が立っていた。三脚の上に固定され、定点撮影されたビデオカメラの前に立ち、レンズを見ている。その様子は人間そっくりだった。表情にはどこか悲しみを外に出さない、或いは出してはいけないと心の奥に常に押し隠しているような、無理な微笑みがあった。黒い髪が川の上を奔る下方からの風に揺れ、時に襲ってくる疾風によってたなびいた。女はまるで自分が本来の被写体であるかのようにカメラの前に立ち、そうしている間にも、ビデオカメラに向かって話し掛けていた。何故なら唇が動いていたのだから。だが彼女が何を言いたいのか、伝えたいのかが、わからなかった。ビデオカメラのマイクが女の音声を拾うことが出来ないのか、女の声が小さすぎるのか、風が音声を遮るのか。巻き戻し、音量を最大限に上げても、その女の、言葉も、声も、呼吸も、聞くことは不可能だった。無声映画のように、川の音や自然界から出る不明な小さい効果音だけで、人物が発声することを拒否しているかのようにだ。

 女は唇を動かすのを止めた。動かしている時間もほんの短い間だった。俯いた後、右側に身体を翻して橋の入口へ向かった。カメラから離れると、女はブラウスのようなものを着ているのがわかった。色の濃いスカートの先から覗いた細い脚の先には赤い靴も履いていた。女は車一台分通れるのがやっとの橋の上をゆっくりと歩いて行くと、鉄柱がある吊り橋の中央付近で立ち止まり、川の方を見ているようだった。やがて欄干に近付くと、白いブラウスの袖口から伸びた華奢な両手を欄干の縁に置いた。視線を真っ直ぐにして遠くの景色を見つめているような様子をみせてから、欄干の上に上り、縁の上に両足のみで立つと、背筋を伸ばし、倒れるように川へと身を投げた。









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