新しい日常
次の日、授業を終えて専科棟三階の共用トイレに向かう。共用トイレは、その名の通り男女問わず使用できる個室トイレで専科棟には各階に一つづつ設置されている。
もともとは、誰でも通いやすい学校を作るというユニバーサルデザインの考えのもと、前理事長が設置したものだ。ただ、三階の共用トイレはその立地もあり、使用している人は皆無といっていい。
そのため、軽音同好会の活動前に女装するにはうってつけなのだが…
詩織から借りた女子の制服に着替えて、ウイッグをつけて軽く化粧をする。だんだんと手慣れてきていることを喜ぶべきか、悲しむべきか悩むところだ。
「はぁ…何してんだろうな。私は」
すっかり女に化けた自分の顔を見ながらため息をついて、トイレから出た。
小レッスン室に入るとボーイシュ南野がいた。すでにドラムの練習を始めていたらしい。こちらに気づくと練習をやめた。
「こんにちは、ほ…方位さん、今日もよろしくね」
「こんにちは、南野さん…ずいぶん早いですね」
「うん…みんなで弾けるのが楽しみで、つい早く来ちゃった」
「南野さんは大勢で弾くのがお好きなんですね」
「うん…そうだね。やっぱドラムだけだとね。ドラムは他の楽器と合わさってこそだと思うし、一つの曲をみんなで弾く一体感も好きだよ。特に、前のバンドを辞めてからずっとソロで練習してたから、なおさらかな…」
そういえば、ボーイシュ南野は男嫌いなんだっけ?バンドをやめた理由もそれが理由だろうか?
「前のバンドはどんなバンドだったんですか?」
「ん…みんなあんまり上手くなかったけど、楽しいバンドだったよ。男ばかりのバンドだったから、居づらくなって辞めちゃったけどね」
やはり、そうか。ボーイシュ南野はサバサバしてそうな見た目とは裏腹に、人と接するの苦手そうだもんな。周りに男ばかりじゃ、男嫌いになるのもわからないでもない。
「おーす!後輩諸君ご機嫌よう!」
勢いよくドアを開け入ってきたのはギャル東條だ。でかい声だな。
「こんにちは、東條先輩も早い…」
顔だけをギャル東條に向けて挨拶をすると…むぎゅ!うぉ…いきなり後ろから抱きつかれた。柔らかな感触が背中に当たる。いいぞもっとやれ!もっと強く押し付けろ!ゲヘヘ
「な、何にするんですか!東條先輩!」
柔らかな感触に若干テンションが上がりつつも、表面上は平静を装って後輩らしい反応を返しておく。
「何って、可愛い後輩とのスキンシップだよん。ピカちゃんは肉付きが薄いなぁ。でも、いい匂いがする」
当たり前だ。ここに来る前にフレグランスを軽く香るくらいふりかけてある。こんだけ密着すればさぞ香るだろうよ。ギャル東條からも、なんか甘そうないい匂いがするぞ。オラ、なんだかムラムラすっぞ!
「やめてください。匂い嗅がないで、ちょ…身体を弄らないでください!」
匂いを嗅がれたり、頬ずりされたりまでは許容範囲だが、身体を弄られたのには焦った。急いで逃げ出すが…バレてないだろうな?
「んーせっかくのスキンシップなのに!」
と言いつつ、東條先輩は私から素直に離れる。無理強いはしない性格らしい。助かったが、今度はボーイシュ南野に近づいていく。
「え?こ…こんにちは、東條先輩」
私とギャル東條の過剰なスキンシップを見て、しばらく呆気にとられていたボーイシュ南野も、ギャル東條が近づいてきたことに気づいて…戸惑いながらも挨拶をする。
ギャル東條は挨拶には応えず、ボーイシュ南野にもいきなり抱きついた。
「おー!なぎっちは見た目によらずボリュミーだ。ぼんきゅっぼんだ!」
「あわわ!や、やめてください…東條先輩!」
嫌がるボーイシュ南野を散々と弄ぶ…ギャル東條…うーん、これはヘタなAVより興奮するかもしれん。
などと馬鹿なことを考えていると、悠香が来た。
「…何してるの?楽しそうだね」
目が腐ってるのか?楽しそうなのは一人だけだよ。まぁ、私も一瞬楽しかったけどね。
「おーす!ゆうちゃん!後輩とスキンシップ中だよ」
悪びれた様子もなく、そう言ってボーイシュ南野をようやく解放するギャル東條。
「はは…ほどほどにね。それで、今日の練習だけど、みんなで一度音合わせをしてみようと思うんだけど…」
悠香め…スキンシップ云々の話は、めんどくさいから軽く流しやがったな。
「でも、しおりんいないよね?」
「うん、だから代わりにヒカリにギターをやってもらいたいんだ」
「別に、それは構いませんが…」
事前に打ち合わせ通りに振る舞い、同好会の練習が始まる。
--ー同好会の練習後にヴァイオリンを弾く準備をしていると、ギャル達と帰ったはずの悠香が詩織と一緒に戻ってきた。
「ずいぶん、お楽しみだったみたいだな」
ジト目で睨みつけてくる詩織。あれ?おまえなんで知ってるの?
「そうだね。東條さんに抱きつかれて…鼻の下を伸ばしてたみたいだしね」
あれ?私が抱きつかれている場面にはいなかったはず…なぜ?そんなに刺々しいんだ…?ああ、南野から聞いたのか。
「ちょっと待て!どう考えても私は被害者だよね。それに、悠香だって見てないだろ?」
まぁ、役得と思わないでもなかったが、黙っておく。
「どうせ役得とか思ってたんだろ?」
げ!…コイツ、いつもは鈍いのに私のすけべ心には敏感だな。
「きっと、胸をもっと押し付けろ!げへへ…って思ってたんだよ。それに、東條さんがなぎさちゃんに抱きついてるの見てる時、私の胸を見る時と同じ顔してた」
おいおい流石にそこまでは…思ってました。すいません。なんなの君たち…エスパーなの?
「まぁ、いいや…そんなことより、今日の演奏はどうだったんだ?」
何も言えないで黙っていると…詩織が助け船を出してくる。実際は、そんなに怒ってないのだろう。
「…悠香のベースは去年より大分良くなったね。」
とりあえず、ご機嫌斜めの悠香を褒めておく。
「でしょ!練習したからね。でも、東條さんと南野さんもすごいよね。今からでも、ライブに出れそうな仕上がりだね」
「ああ…東條さんのボーカルもいいけど…南野さんのドラムはかなりの腕前だな。正直…私より上手い」
「へぇ…そんなにか。これはうかうかしてられないな」
本当だよ。上から目線で言ってるけど暫定ビリは詩織だからな?分かってるか?
そのとき、上のピアノ室からピアノの音が聞こえてくる。その澄んだ音色はどこが寂しげで、まるでこちらを誘うように弾かれている。
「まぁ、明日は全員で音合わせするから…そのつもりで準備してきてね」
ピアノを聞いているうちに、ヴァイオリンを弾きたくて仕方なくなってしまったので、そう言ってヴァイオリンを弾き始める。
詩織も悠香もしばらく聞き入っていたが、30分ほどすると帰っていった。
自由気ままに弾いていたはずのヴァイオリンは、ピアノの音につられてか、気がつけばまるで伴奏するように弾いてしまっていた。
ピアノの演奏が聞こえ始めたのは、去年の文化祭が終わったばかりの11月の下旬だった。
少し窓を開けて弾いていたところ、偶然に聞こえてきたピアノの音に惹き込まれ、思わず伴奏してしまったのが始まりだ。
ピアノの演奏が終わった後も完全下校時刻のギリギリまで余韻に浸って弾くのが日課になっている。
ただ、今日は少し事情が違うことに気づく。
「げ…やばい!」
今日は、祖父に顔を見せに行く日だったことを思い出す。慌てて帰る準備をして駅に向かう。約束の時間ギリギリなので化粧などを落とす余裕はなさそうだ。
なんとか、乗る電車の時間には間に合った。ホームで一息ついて目の前を見ると…駒城がいることに気がついた。学校からの帰りらしい。
腕を組んで、貧乏ゆすりをしているだけで周りをこれだけ威圧できる女はそうはいないだろう。覇王色の覇気でも出てるの?