【6】大人
ゴールデンウイークが明けた日は大雨で、残っていた桜の花は見事に散り終えて道端に湿った花道を作っていた。
その翌日から、日差しは急激に強さを増した。
「いいよなあ、好聖館の娘……」
最近、幸彦が嫌味っぽく僕の横でよく呟く。
僕の現状を認めながら、まだどこか事実を否定している。
みな、好聖館の生徒は見たままに清楚で上品で奥ゆかしくて、とっつき難い……そう思っている。
正確ではないが、僕の学校で好聖館高校の生徒と付き合っているのはごく少数で、学年に一人いるかいないからしい。
それだけ高値の花だから、理想は幻想を生む。
実際はありふれたごく普通の女子高生と何も変わらないのだけれど。
何時ものように放課後、紫里と一緒に時間を過ごしていた時、僕はふとした事に気付いた。
それは今日、教室で見た光景が頭を過ったからだ。
クラスの女子がプリクラノートを見せ合っていたのだ。
以前のクラスの友人と撮った物や、×印のついた元カレ。新しい今カレ……。
それぞれに見せ合いながら、教室の隅でギャーギャーと甲高い笑い声で盛り上がっていた。
しかし紫里は……?
以前、彼女がスケジュール帳を取り出した時、そこには一枚もプリクラが張られていなかった。
いや、表紙の内側に一枚だけ、知らない女の子と撮ったものが一枚貼られていた。
手帳を取り出した時カバンの中が少し見えたが、他にプリクラ手帳らしき物も見えなかった。
彼女はアレだけ僕と撮ったプリクラを何処にやっているのか?
普通は身近な物に貼りたがるのが女子のパターンで、手帳だったり携帯だったりそれは様々だが、何故か自然に目に入り易い場所に貼りたがるのもだ。
しかし、紫里の持ち物には何処にも僕と撮ったプリクラの姿は見えない。
紫里はコーラのLサイズのストローに口を着けて、ブクブクっと吹く。
「他の飲み物頼めばよかったんじゃない?」
「なんで?」
「炭酸苦手なんだろ? コーヒーとか飲めば?」
僕は自分のアイスコーヒーを指でつつく。
「苦いのヤダ」
「じゃあ、オレンジジュース」
「ミカン嫌い」
紫里は目を細めて甘えたように笑うと、再びコーラをブクブクと吹く。
彼女は果物に例えると、きっとブルーベリーだ。
見かけはとっつき難い不透明絵の具のような濃い紫色で、国産の果物と比べるといかにも異色な色合。
上品そうだが、苦いか酸っぱそうで近寄りがたい。
見た目では誰もが触れる事に躊躇するけれど、口に入れると濃厚な甘さと香りがある。
彼女のクールで清楚な装いと、甘ったるい感じの内面はブルーベリーだ。
そろそろ聞いてみようか……僕は喉元で押さえ込んだ疑問を切り出す。
「なあ。紫里は、プリクラ帳とか持ってないの?」
「えっ?」
モスバーガーの窓際でホッとドックを咥えながら、彼女は僕の問い掛けに目をパチクリとさせてくぐもった声を上げた。
僕は食べ難い照り焼きバーガーの端っこを齧りながら
「だって、さんざんプリクラ撮ってるのに、何処にも貼ってないしさ」
紫里は炭酸の抜けたコーラでホットドッグを喉に流し込むと、長い睫毛を何度も瞬きさせる。
「あたしは家にしまう派だから……だってほら、何処かに貼ると劣化してダメになるじゃん」
彼女は笑った。
「そうか。そうだよな」
「そうだよ。あたしは机の中にコレクションしてるの」
言われてみれば確かに、大切なステッカーとかはよく使わずにしまう事も多い。
彼女にとってのプリクラシールも、そんな部類なのか。
机の中にしまっているのがベストだろう。普通、コレクションといったらそんな風に大切にしまっておくものだ。
好聖館だしな……。
会話の最中、紫里は突然僕の後ろに向かって手を振った。
繁華街から少し離れたこのファーストフードショップは学生よりも車のお客が多いから、最近よく来るのだが。
僕はチラリと振り返って紫里の視線の先を追った。
今日は日本人だ……。
トレーを戻して帰るところだったのか、紫里が手を振った相手の彼女は身体の向きを変えてこちらに近づいてくる。
黒髪を後ろで二つのお下げに束ねた少しジミ目な娘で、おそらく同じ学校の娘だろうと直ぐに判る。
今時お下げを作るこの辺の娘といえば、好聖館だけだ。
彼女は僕達のテーブルに近づいてくると、無言で両手を動かしてジェスチャーを見せる。
驚く事に、紫里も無言で笑ったままジェスチャーを返した。
僕はその異様な光景に目を丸くする。
紫里と、目の前に立っている娘を交互に眺めた。
ちがう……ジェスチャーっていうか、これは……手話だ。
「同級生の尚美ちゃん」
紫里は傍に立つ娘を僕に紹介した。
無言で手話を使うこの娘は、おそらく耳が聞こえないのだ。
僕は出そうとした声を呑み込んで、片手を小さく上げてニカッと笑ってみせる。
動揺していた……。
尚美は僕に向って軽い会釈をすると笑顔のまま、紫里と手話で話す。
「ステキな人だってさぁ」
紫里は悪戯っぽく笑って、尚美の手話を通訳した。
尚美は直ぐに手を振って、出口付近で待つ他の友達と一緒に店を出て行った。
僕は只ならぬ事態にあっけに取られ、暫しの間出口を見つめた後、紫里に向き直る。
「好聖館って、障害者もいるの?」
「うん。ウチは勉強しようという意欲があれば入れるから」
「そして成績優秀なら。だろ」
僕は少しだけ脾肉って嫌味っぽく笑う。
「紫里、手話できんの?」
氷が溶け出して薄くなったコーヒーに口を着ける。
「うん。少しね」
彼女は右手に拳を作って右頬に当てると、何処かのメイドの萌えポーズのようにその拳をクニクニ動かす。
「これ、仔猫」
両手のひらを開いて、胸の前で両指先を合わせて大きな屋根型を作る。
「これ、お家」
右手のひらを、胸の前で下から上にはらい上げる。
「これ、解らない。だよ。でね、『お家が解らない』で、迷子なの」
紫里は童謡などから手話を覚え始めたそうだ。
つまり、彼女が示したのは『迷子の仔猫』と言う事で、犬のお巡りさんの歌詞だろう。
「50音やアルファベッドを示す手話もあるけど、数が膨大で面倒だから普通はジェスチャーがメインで、補足に50音を入れるんだよ」
紫里は再び右手を上げて軽く拳を作ると、親指、小指、人差し指と中指。順に指を立てて、素早く『あ〜お』だけを示して見せた。
彼女の笑顔が、なんだか大人に見えた。
少し前、子供のように頬を膨らませてコーヒー苦い。ミカン嫌い。と言っていた彼女はそこにはいない。
さっきもそうだ。
手話を話す紫里が、一瞬遠くに見えた。
喧騒の中を、暇つぶしで漂う僕達高校生とは何かが違う気がした。
それは日本語を話す外国人のルーシーと笑顔を交わす様とも違っていた。
向こう側のフィールドに彼女はスッと入り込んだ。
尚美と紫里の二人は僕から、いや周囲から隔離された音の無い世界に入り込んで二人だけのコミュニケーションをはかる。
僕は何も解らないまま、ただ傍らで眺める事しかできない。
この時再び僕は思った。
紫里には謎めいた、底知れない奥深さがあると。
そして不安になる。
こうして表面的な付き合いだけで、彼女の奥深い本当の彼女を僕は知ることが出来ているのだろうか。
僕は周囲に見せているままが、ほぼそのままの僕だ。
普段見せない知識や格式や博学なんてほとんど無い。
紫里に感じる些細な謎や行動への疑問は、彼女の持つ奥深さに通じると思った。
奥深いからこそ、僕の常識とはちょっと異なる行動が時折見えるだけだ。
その裏側にはきっと、彼女の知識や思考に促される他の常識が在るのだと思った。
プリクラに対する彼女への疑問は、とっくに薄れていた。
お読み頂き有難う御座います。
まだ序盤ですが、次回から更新ペースが少しおちます。
次回は7/24深夜更新予定です。