【10】河口へ
街の中央を流れる本流の河川は、大きく曲がりくねって河口へ流れ込む。
河口から1キロほど上流には二つの橋がかかり、上流側のより大きな橋の袂には、夏になると毎年打ち上げ花火の発射台が造られる。
二つの橋の中間に位置する場所には貸ボート屋が在って、日差しが暖かくなると休日には意外に混み合う。
もちろん、冬は閑古鳥が鳴いているけれど。
水辺に行きたいと言ったのは、紫里の方だった。
僕はボートなど小さい頃に一度漕いだだけだが、彼女に引っ張られて川辺に来てしまった。
「大丈夫でしょ?」
「いや、どうかな……」
「大丈夫、ボートがひっくり返ってもあたし、泳ぎ得意だから」
紫里はそう言って笑うけれど、僕はあまり泳ぎが得意ではない。
カナヅチと言うほどではないが、服を着たまま河で泳げる自信まではない。
川辺に突き出た桟橋と、そこに横付けされた黄色いボートが漣に揺らいでいた。
足を踏み出すと体が揺れる。
紫里は高揚した笑いを惜しげもなく発する。
スーツを着たおじさんと、奥さんにしては若く娘にしては不自然な二人組みがボートで出てゆくところだった。
真っ黒に日焼けしたおじさんが、愛想よく空きボートに促す。
「白渡橋の向こうには、行かんでくれよ。あの先は河口に向う流れが急で、手漕ぎでは戻って来れんから」
僕らは深いシワの刻まれた真っ黒な笑顔に見送られて、桟橋を離れた。
見様見真似でゆっくりとオールをこいでみる。
ボートが水面を滑り出す。
「スゴイ、スゴイよ。ちゃんと動いてるじゃん」
紫里は水面に手を伸ばすと、指先を川面に向ってパタパタと動かす。
僕はなんだか重く感じるオールで手がイッパイな感じがし
「そうか?」
と辺りを見渡す。
日曜と言う事もあり、そこいらじゅうに楽しげなカップルの姿が浮かんでいる。
中には二人並んでオールを一本づつ仲良く担当しているカップルもいるが、紫里はとりあえずオールを持つ気はないらしい。
褐色に濁った運河の水も、太陽の陽を浴びた中で漂うと、何だか清々しく思えるから不思議だ。
ここそこで魚が跳ねる。
「見て見て、さかな!」
紫里はチャポンと水面に波紋が出来るたびに、高揚した声を上げた。
まあ……たまにはいいか。
僕は彼女の高揚感に合わせる素振りで、笑顔を向けながら重いオールを漕ぐ。
内心はオールを漕ぐだけでいっぱいいっぱいなんだけど……
ぐるりと大きく弧を描いて方向転換すると、オールがやたら重かった理由が判明した。
流れに逆らって進んでいたのだ。
河の緩い流れに沿って進むオールはやけに軽くて、ひと漕ぎでずいぶんと進む気がする。
「なんか、早くなったね」
「流れに沿ってるからだよ」
「ああ、そっか。こっちの方が楽でしょ」
紫里はボートの縁から顔を突き出して、ボートが切る僅かな波を見つめた。
「でも、戻る時が大変そうだけど」
「あたしも手伝おうか?」
紫里は冗談半分で笑うと、ストローのトートバッグから、いつの間に買ったのかペットボトルのジュースを取り出す。
「少し休もうよ」
二つのボトルを掲げて「どっち飲む?」
ラズベリーの果実入りミネラルウォーターと、ウーロン茶。
「紫里は?」
「じゃあ、あたしウーロンで」
彼女は手を伸ばしてラズベリードリンクを僕に渡す。
オールを止めると、ボートはゆっくりと惰性で漂う。
僕がラズベリードリンクを飲んだ時、紫里は携帯カメラのシャッターを切った。
日差しが途切れて川面に漣が立つと、素肌に冷んやりとした風を感じる。
僕は膝を着いて、紫里に迫ると手首を取った。
彼女は片手に携帯電話を持ったまま、沈黙して僕を見つめていた。
鼓膜の奥で漣の音がサラサラと聞こえる。
僕が紫里の手首を引き寄せると、彼女は力なく前に倒れるように膝を着く。
と、同時に俯いた。
「ご、ごめんなさい。まだ……もう少し待って」
その言葉の意味を僕は問わなかった。
僕は漣の音に誘われて、彼女の唇を狙っていた。
「そ、そうだね。まだ、だよな」
照れ隠しに、妙に声が大きくなる。
「ごめん……」
彼女は俯いたまま小さな声で言うと、上目遣いに僕を見上げる。
「ほ、ほら。ここ、周りから丸見えじゃん」
「そ、そうだよな」
本当は、大きな橋げたの影に入って、周囲からは死角になっていた。
だから僕は、彼女に迫ったのだ。
それでも僕は、彼女が否定してくる気はしていた。
今までも身体が触れる度にチャンスは覗っていたのだけど、どうも踏ん切りがつかなかった。
直ぐに身体が触れ合う気安さとは裏腹に、微妙な拒みの空気が彼女の何処かから漂っているのだ。
それでも通り過ぎる漣の音が、いま、何となく僕の衝動を沸きたてた。
再びギラつく日差しが僕達を照らす。
目を細めて空を見上げたとき、僕はボート屋のおじさんの言葉を思い出す。
この橋を越えると戻れない……。
「ヤバイ、紫里。こっち来い」
「えっ、だって……」
「バカ、違うよ。漕ぐの手伝え。ここから先は流れが速くなるから戻れなくなるぞ」
紫里もボート屋のおじさんの言葉を思い出したらしく
「あっ!」
と声を上げて僕の隣に腰掛ける。
「でもあたし、ボートなんて漕いだ事ないよ」
僕は身振り手振りで漕ぎ方を教えるが、紫里はなかなか上手く水をかけないようだった。
それでも僕達は必死でオールを漕ぐ。
その時潜り抜けた橋は、既に30メートルほど後方に在った。
紫里の漕ぐ力が小さいから、方向転換はすぐに出来た。
しかし、橋は少しずつ確実に遠ざかっている。
僕達は河の流れに負け、後ろ向きに河口に向って進んでいた。
船首に背中を向けているので、霞む流れの先が大きく開けているのが見える。
河口だ。
別に滝が待ち構えているわけじゃないから、そのまま流されても海へ出るだけなのに、僕らは完全に焦りに飲み込まれていた。
それも、さっきの気まずい空気をかき消すにはちょうどいいのだけれど。
僕達の船は結局、救助に来たモーターボートに引かれて、河をゆっくりと上って貸しボート屋の船着場へ無事戻る事ができた。
穂のかに甘酸っぱいような不思議なスリルに満ちたひと時を、僕達は素肌の腕が触れ合う中で堪能した気がする。
それが楽しいのか苦痛なのか、僕は困惑するのだ。
【6月1日pm23: 56】
……………………
人の思考と言うのは判らない物だ。
ただ、それが自分の予想していた悪い方向へ動いていると感じるとき、行動は消極的になる。
この日々は続くのだろうか……。
明日は筋肉痛か。