断章『見えざる剣』9
「ねえイサミ、早くにげないと!」
黒いアメーバ状の巨大な化物が無秩序な隆起と変形を繰り返しながら中央公園に迫っている。
それを目にした瞬間から、噴水前にいた群衆はパニックに陥り逃げ惑っていた。
2025年のこの時点においては、ラネブ・テクフールの認識と同じく、一般大衆からこの怪異の存在は忘れられて久しい。
だが、かつては――西暦2000年前後を生きた人々にとっては身近な脅威であった。
「未来のぼくが……昔のぼくと戦ってて……でも今のぼくは……誰?」
「イサミはイサミでしょ! ほら、こっち来るの!」
あきらかに常軌を逸しているイサミの腕を強引に引っ張ってユイリンは逃げ出した。
おじいちゃん子の彼女は、祖父が語った、かつて人類を襲った災厄について覚えていたし、大惨事大戦終結後に急速に発展した〈年代記収穫者〉対策の成果についても把握していた。
大規模な地震や火事その他の天災と等しい危険に認定された〈年代記収穫者〉からの避難場所として設備が整っている中央公園のどこに何があるかもだ。
「自転車、ちゃんとべんしょうしてよね!」
ちらっと、お気に入りの自転車に目を向けてから走り出すユイリンと、夢の中にいるイサミ。
黒い触手が大きく湾曲して伸びてきて、ふたりに激突するかに見えた――その瞬間。
「ユイちゃんをいじめるなーっ!」
意識を取り戻したイサミが目を見開き、黒い怪異をにらみつけた。
わずかな一瞬だったが、その視線と幼い体から発した何かに化物は躊躇したかのように動きを停めた。
「抑制装置発動させます!」
ミシュレットが叫ぶと同時に公園の敷地内にラネブが入り込んでくる。
同時に、すでに敷地内にいたミシュレットが強制的に遠隔操作で抑制装置を発動させた。
不可視の障壁が公園全体を包み込み、イサミとユイリンに空中から迫った触腕も含めたアメーバ状の化物は電撃を浴びたかのように痙攣して弾き飛ばされる。
「……間一髪だったなミシュレット」
「旧式の抑制装置ですが、かなり強い出力のようですね。惜しむらくは長く続いた平和で予算を削られたのか、まともな管理と運営をされていないようです」
「ミシュレットご自慢の電子戦で矯正侵入して勝手に使わせてもらわなかったら危ないところだったか」
ラネブは拳銃を腰に戻すと、深呼吸をした。
障壁の外では黒い怪物がのたうち回っていて、まだ侵入しようと、あがいている。
「はい。ということですので、ちびっ子たち、あなたたちも私に感謝するように」
ぺたんと尻餅をついているユイリンとイサミに、ミシュレットが腕を伸ばす。
「へ、兵隊さん?」
「この人たちの、アメリカかいよーれんごーの服だよ、ユイちゃん」
「し、知ってるわよ。テレビで記念式典やってたの、見たことあるし」
イサミが、ミシュレットに引き起こされながらユイリンに手を伸ばす。
「おまえら、運が良かったな。このボクとミシュレットが偶然、ここに居合わせなかったら、戦争中に家電扱いしてた連中みたいになってた」
ラネブは偉そうに言うが、ミシュレットはそこでため息をつく。
「ラネブ様、ここはバギルスタンとは違って、アストライアの加護も遠いんですよ。あれは間近いなく、あなた個人を狙った刺客の攻撃としか思えません。むしろこの子たちは巻き込まれて迷惑している方なのではないかと……」
「それはそうかもだけど……でも、そもそもを言えば、あの忌々しい〈レッドファイター〉が、ボクとの再戦を拒んだからだ。日本の国防軍所属パイロットのはずだから、こっちまで来れば嫌でも戦わせてくれると思ったのに……キド大尉って人、本当に融通が利かないんだから」
ラネブの愚痴めいた返答を耳にして、イサミの耳がぴくっと反応した。
なぜなら〈レッドファイター〉は彼が市ヶ谷でシルエットキャリバー戦のシミュレーション戦闘をする際のログイン時に使用するコードネームだったからだ。
「おや……あなた、どこかで会ったことありませんか?」
視線をそらしたイサミに、ミシュレットがしゃがみこんで、その顔をじいっと見つめる。
「ないよ」
「おかしいですね……1999年前後に遭遇した誰かと近しいような……フィジカルとアストラルの両パターンが検出されそうな気が……本国であれば、すぐ確認できるのに」
「おねえさん、イサミからはなれて! そういうのは日本だと、なれなれしいどろぼうネコっていう失礼なことなんだからね!」
ユイリンはイサミの腕を引いて、奇妙な2人の異国人から距離を取ろうとする。
「いたいよユイちゃん。もっと、ゆっくりあるこうよ?」
「さっきは、かっこよかったのに、きれいな女の子の前だからって、でれーっとして、だらしない!」
ミシュレットは自分が知っている誰かとイサミとの関連性に気を取られていて、それを見送ってしまう。
現時点で許される情報解析能力と記憶の参照は人間並みに制限されているがゆえにだった。
「ちっちゃいのに、ませてるんだねえ」
「はて……いったい誰と似たパターンなのやら……」
ラネブもミシュレットもこの時点では、自分たちは窮地を逃れて安全圏に避難できたと信じ切っていた。
そうではなかったと思い知るのは抑制装置の負荷が急上昇する数秒後だった。




