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断章『見えざる剣』2

「イサミー! すごいでしょ、上手でしょー!」


 第三次世界大戦の惨禍からも、新宿中央公園と十二社通りは焼け残って古い街並みと緑を多く残している。


「待ってーユイちゃーん」


 女児向けアニメのキャラクター装飾が目立つ子供用自転車を乗り回すユイから少し遅れて、イサミはその坂を走っていた。


 中央公園の周辺ということもあり、ちいさな子供を連れた母親や超高層ビル群(アーコロジー)から遅い昼食や息抜きに出てきた社会人の男女も緑を楽しんで散策している。


「あたしの勝ちー!」


 かつて存在した十二社を部分的に再現した大きな池の近くでユイは自転車から降りてイサミを待つ。


「ふう……はあ……ユイちゃん早いや……ぼく、かけっこには自信あったのになあ……」


 少し遅れて追い付いたイサミは、はあはあと息が荒い。

 

「イサミも乗ってみる?」


 勝者の余裕たっぷりにユイが自転車のスタンドを立てて乗るように勧めてくる。イサミには女児向け変身ヒロインものの絵と意匠が気になりぶんぶん首を横に振った。


「なんで? せっかく、あたしが貸してあげるって言ってるのに乗らないの?」

「女の子向けの自転車だし……はずかしいよ」

「あー、わかった! ほんとは補助輪ないと乗れないんだ!」

「ちがうよー!」

「じゃあ乗ってみせてよ。上手にできたら、あたしがごほうびに、1回だけ、なんでも言うこと聞いてあげるから」


 ちいさな男女のささやかな言い合いは、池の近くの親子連れや休憩時間中あるいはサボり中の社会人たちの関心を惹いたらしく、ふたりはこの場限定の注目の的となっていた。


「ほんとに? なんでも?」

「ええ、そうよ。1回だけ、なんでも聞いてあげる。ただし上手だったらね」


 考え込むイサミを見たユイは、まだ彼が本当は自転車には乗れないかあるいは乗ることはできても経験が浅く自信がないのだろうと推測した。


 がんばれ男の子ー、だの、成功させて、チューでもしてもらえー、などと、無責任な外野がヤジを跳ばしてくる。


池の反対側でスケートボードを使いアクロバティックな動きで観客を魅了している少年たちは、ひゅーひゅー、と口笛混じりに場を盛り上げる。


「そっちのタバコすってるおじさんたちは、だまってて! これはあたしとイサミの勝負なんだから!」


 照れ混じりのユイの怒号は、ただでさえ肩身が狭そうだった喫煙スペースの中年サラリーマンたちを、げんなりとさせた。


「ぼく、乗ってみるよユイちゃん」

「それでこそ、あたしのメガネにみこんだイサミよ」

「それ、正しくは、メガネにかなう、だけか、みこんだ、だけだよ」


 祖父や父の店に出入りする客たちの言葉から適当に引用して大人っぽく振る舞ったつもりのユイは、的確なイサミの指摘にばつが悪そうだった。

 そのイサミの知識も厳密には大人たちの会話の盗み聞きの成果ではあるが、彼は姉という完璧な解説役兼教師役と行動する機会が多いので、誤用は少ない。


「こ、こまかいこと気にしてたら大物になれないの! ほら、さっさと乗って!」

「いいけど、ほんとになんでも言うこと聞いてくれるんだよね?」

「イサミしつこい!」

「じゃあ、ぼくはぜったい上手に乗るから、チューなんかより、もっとすごいことになるけど、それ、よろしくね」

「え? チューより、すごいことって?」

「かりるねー」


 動揺したユイの手から女児向け自転車のハンドルを奪い取ると、イサミはまず、最初にふらふらと横揺れ状態でペダルを漕いでみる。


「チューより、すごいことっていったら……け、けっこん? いくらなんでも、そんなの早すぎるってばあ!」


 ユイの困惑と葛藤をよそに、イサミの自転車は徐々にそのスピードを加速させていき、スケートボードの練習場として指定されているスペースに入り込む。


「おじゃましまーす」


 本来そこはスケートボードやローラースケートを使う若者たちが増えたために、暗黙の了解で練習場となっているだけだが、もともと自転車で乗り込むことは禁止されている。


「へい、ちびっ子、こーゆーのできるか?」


 おもしろがった少年のひとりが、スケートボードで併走し、先端部分だけを浮かして自分のテクニックを披露する。


「こ、こんな感じ?」


 イサミのそれは併走した少年に向けてのものではないし、独り言ともニュアンスは別だった。彼はまるで自分が動かしている自転車に呼びかけていたようだった。だがそれに気付くものは誰もいない。


「マジか!」


 ウイリー走行を実現させたイサミに併走した少年も、さっきからの観客たちも、そしてユイも目を見開く。


「おもしれえ! どこまで付き合えるかやってみせろや!」


 興奮した少年が壁際で曲芸まがいの宙返りやアクロバティックな機動を見せつけるが、イサミはそのすべてにワンテンポだけ遅れて追従してみせる。

 最後には少年の意図を先読みして、ほぼ同時に華麗なアクションを終える、という進化を見せるに至った。


 即席の見せ物の終演に大人たちは拍手と歓声で迎え入れる。


「ちびっ子やるなあ……」

「ちびっ子じゃなくて、ぼくイサミ」

「わかったから物騒な顔でにらむなイサミ、お兄さんは感動して、ほめてやってんだから、もっと、うれしそう顔しろや。ほれ、ユイちゃんが待ってるぞ」

「わわわっ?」


 バスケットボール選手をイメージした服装の少年は、イサミの背中を強く叩いて歩いてくるユイの方に押しやる。


「……イサミ」


 ユイは仏頂面をしていた。


「上手だったよね? なんでも言うこと聞いてくれるんだよね?」

「え、ええ、そうよ。わかったわよ、たしかにあたし、さっきそう言ったから約束は守るわよ。その前に、おじいちゃんに電話させて」

「う、うん? いいけど……」


 当惑するイサミをよそにしてユイは子供用の携帯端末を取り出すと、祖父の店に電話をかける。


「も、もしもし、おじいちゃん? うん、あたし。イサミと中央公園の池のとこで遊んでたの。それでね、おじいちゃんに……おねがいあるの。ちがう、オモチャなんかじゃなくて……お父さんとお母さんに……話をする時……手伝ってほしいから……それで」

「?」

「あのね……あたし……イサミと……けっこん……することになったから。ううん、いやじゃない……から……」

「ユイちゃん……ぼく……ユイちゃんの分のチャーハン……半分もらっちゃおうとおもってた……だけ……なんだけど」

「え?」

 突然のユイの爆弾発言に当惑したイサミは、自分のチューよりすごいことの内容を明かしたが、それを聞いたユイは恥ずかしさと怒りとで顔を真っ赤にして怒鳴る。


「イサミのばかあーっ!」

「やめてやめてやめて! いたいよ、ユイちゃん!」


 再び、周囲の観客たちが今度はそのかわいらしく微笑ましいケンカに笑う。

 イサミもユイも、そしてこの場の一瞬の驚異と笑いを共有した人々も、噴水のある池とその広場から離れた場所に潜む恐怖の存在に気付かないままだった。

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