七章『北極ギツネはアデリーペンギンの夢をみる』18
『ユウちゃん、それでね、それでね、おねえちゃん、おゆうぎかいで、モモタロウやったんだよ』
わずかに赤みがかった髪をポニーテールに結っている、幼稚園児の制服を着た女の子が画面の中で、はしゃいでいる。
その姿と面差しには、ミランダ・バーネットとミシェル・バーネットがケルゲレン海域での霊的電子戦闘の渦中に乱入した白と赤の高次元波動変換想衣をまとう大久保ハヤトを彷彿させるものがある。
隔離された和室のこたつテーブルで宮川ユウは携帯テレビの10インチ画面に映る姉からのビデオレターを再生していた。
接続されているのは1999年当時一般的だったVHSビデオテープを再生するビデオデッキ。
『おじいちゃんとお母さんからおそわってる、ちゃんとした動きでやると、あぶないからって、わざとでたらめに紙のカタナをふりまわしたんだよ』
「……そうだよね。お姉ちゃん、強いから」
ミシェル・バーネット来訪時には見せることのなかった、やわらかな笑みが老成した男児の顔に浮かぶ。
『こんどはいつあえるのかな? はやく病気がなおって、また、みんなであそんだりたべたりできるといいのに』
「ごめん……もう……会えないんだ」
作務衣姿の男児は力なくうなだれてしまう。
彼は自分の運命を正確に知っている。
洞察したのではなく、自分がもう間もなく死亡してしまったという事実を、今から約25年後に産まれた別人の記憶を得てしまったことで認識しているのだ。
未来――今現在から到達する可能性がある25年後のひとつの世界で生まれた宮川イサミという人生を、ユウはハーメルン症候群を発症したことで、前世として、思い出してしまっているからだ。
自分の伯父である宮川ユウは母である宮川ユミネが5歳当時に先天的な心臓疾患で発作を起こして死亡している、と。
父と母と姉の三人で、命日に墓参りをしたからその日にちも聞いている。
そういう記憶がユウには備わってしまっているのだ。
『じゃあ、最後はいつもみたいに、ペンギンの歌だよー』
双子の姉、宮川ユミネがペンギンの歌を楽しげに口ずさむ。
祖父である宮川ユウゴが、双子の母タマミの育児のためにかつて買い求めた古いレコードを、2年前に2人で見つけて以来、お気に入りにして歌っていた。
一時期は歯磨き粉のCMの曲にも使われたり深夜の天気予報にも使われたことがあるが、白と黒の二色からなるアデリーペンギンをユーモラスに表現した素朴な歌を三歳児のふたりは素直に受け止めて、好むようになった。
まだユウが、ただの大人しい男児だった頃のことだ。
『もしかして、ユウちゃんはもうペンギンの歌は、あきちゃった? それならお姉ちゃん、こんどはあたらしいのをおぼえて、それ歌うようにするからね。じゃあ、またね、ユウちゃん。ばいばい』
ユミネが手を振って笑うところでビデオテープは再生を終えた。
10インチテレビ画面はアナログテレビ特有の砂嵐のような画面と雑音だけを撒き散らすだけになる。
「飽きてなんかない……ずっと……その歌で……ペンギンの歌でいい……」
あらがえない目前の死を前にして数時間。
宮川ユウは何度も何度も半身たる姉にして前世での母の無邪気なビデオレターを延々と再生し続ける。
「……死にたくない。外に出たい……こんなさびしいところは……ひとりぼっちは……もう、たくさんだ……」
けれどビデオテープの再生が終わり、砂嵐の画面と雑音が始まると再び恐怖が舞い戻り彼は恐怖におびえて巻き戻し時間が早く終わってくれることだけをひたすら念じる。
『……そうすればいいのよ』
再生ボタンを押したはずなのにテレビ画面には見知らぬ女の姿が映っていた。
『宮川イサミという存在が消えてしまえば、あなたはそれが影響する因果からは解放されることになる』
「あなたは誰だ」
明白な他者を認識したことでユウは冷静さを取り戻して問う。
物理的・霊的な隔離措置を施しているためなのか、女の姿は不安定だった。
『わたしの成れの果てだと自称するあの女が言うところの超越者。その一部を構成する存在よ』
「宮川イサミとして生きた記憶を持つぼくが、そんな手合いに耳を貸すとでも思っているのか?」
『ええ、思うわ。だってあなたとわたしは、とても似ているもの。だからこうして呼びかけ続けてきた。あなただけが、わたしとあなたの運命を変える可能性を持っているんですもの。多元宇宙――無数の時空連続体に決定的な影響を与えるこの流れの中で切り札と言っていいのはあなただけ』
「何が似ている?」
『とてもいとしい……大切な人たちがいる。それを守りたい。たとえ箱庭のような世界であっても、そこで求め続けた幸福を享受できる……それを知って、わたしは天敵とさえ思っていた、統合化された世界とその執行者たる役割を受け入れることができたの。あなたにも、それは可能だと思うわ』
「仮に……仮の話だ。ぼくがあなたと同じようにそれを受け入れたとしたら……ぼくは……そして姉や両親、祖父たちはどうなる?」
『平和な日常と人生を与えられるわ。ごく普通に平凡な時間を過ごして……でも、ときどき大変なことがあって……それでもなんとか乗り越えて……好きな人と結ばれて……子供が生まれて……歳を取って……その死を惜しまれて……眠るように消えていくだけよ』
「世界中の大多数の人間が望んでもなかなか得られない幸福だ……魅力的な提案だね……超越者さん」
『賢しげな言葉で自分の欲望を抑え込もうとするのは良くないわよ宮川ユウさん。こうしてわたしの思念波が届いたということは、あなたは本心では未来から来たという前世の自分を否定して、この人生をまっとうしたいと願っているはず』
「それは……確かにそうかもしれないが……」
ユウがテレビ画面に映る相手にどう応じようかと困惑していると、その間に明確な変化が生じた。
こたつテーブルの対面にはそれまでテレビ画面の中にぼやけて映っていた女の姿があったのだ。
「どう取り繕っても、本心ではあなたはわたしの提案を検討して、受け入れてもいいとさえ考えているわ。こうして実体化できたのがその証明になるわね」
「空間転移か?」
「いいえ、個別的な実体化よ。わたしたちは不合理極まりない無限の可能性と平行世界――多次元宇宙というものを統合化するための局所的な機能なのだから」
「神……なのか?」
「そう呼ぶ者もいるわ。でも、ある意味では究極的な自由主義と民主主義のいいとこ取りの遂行機関とも言えるわね。務めを果たしたら、さっきあなたに言った通りに……望みのままの箱庭をひとつと、そこで幸せに生きて死んでいける権利を約束されているのだから」
「ところで、あなたはぼくが知っているある人物に良く似ている霊的波動の持ち主のようだが……名を……聞いてもいいか」
「ミシェル・ジュール・シャノワーヌよ」
統合ユーロにおける巨大軍需企業であるシャノワーヌ社のオーナー一族の中でもその存在を謎めいて語られる存在だという事実をユウは知っていた。
彼は知らないが、その容姿は2025年にVA艦マリー・アントワネット艦長を務めるミランダ・バーネットと酷似した容姿をした白人の成人女性である。
そして、その霊的波動の基調はミシェル・バーネットのそれとも酷似していた。




