四章『悪意ある検証』
「タマちゃん、しっかりしてよ、ねえタマちゃん!」
倒れ伏したハヤトの身体を引き起こそうとするナナミだったが返事はない。
「なんで隠してたの! ねえタマちゃん!」
玖堂タマモと名乗っていた大久保ハヤトの意識はこの場には存在していない。
彼女の自我と意思――魂とでも呼ぶしかない何かは、マグナキャリバーの暴走を恐れた伝承院によって、太平洋上のVA艦マリー・アントワネットの心臓部に呼びつけられているからだ。
「息……してないよ! 心臓も止まってる! 死んじゃってる!」
厳密にはその身体は仮死状態となっていて代謝その他の生命活動が極端に緩慢となっているだけだ。しかしナナミにはそんな冷静な判断ができない。
「し、心臓マッサージ……人工呼吸……やり方は……」
医療系の題材を扱うドラマに看護士見習い役で出演した知識を総動員したナナミはハヤトを冷たいアスファルト上に寝かせ、その脇でひざ立ちになる。
「痛いッ?」
ナナミがひざを着けたそこには、先刻バラバラに砕け散ったハヤトの刀の破片が転がっていた。出血はわずか、苦痛は一瞬で途絶えたが自分はまだ生きているのにタマモは心肺停止だという実感をナナミに抱かせる。
「タマちゃん、生き返って!」
両手で胸を圧迫する心臓マッサージ。
懸命にそれを繰り返すが心臓の鼓動は停止したまま。
「じ、人工呼吸っ!」
ドラマや映画向きのキスと同義のそれではなく、医療的な意味でのそれが可能となったのは看護士見習い役で出演した作品がリアル志向の内容だったお陰だった。
これが思春期を迎えてから誰かとした初めてのキスだとと言えなくもないことは後になってから意識した。
「あ……」
呼吸は再開した。
心臓の鼓動も戻ってきた。
血の気が薄れた白い頬に赤みが差して蘇生を示している。
「良かったあ……」
ナナミは、ようやくそこで安心して端役であっても看護士役として学んだ知識が活用できたことに感謝する。
だが――
「あたしが……なんで、ちっちゃい頃のあたしが?」
ナナミの目には5歳児の自分が横たわっているのがハヤトのそれと二重になって見えていた。しかもその身体は着衣ごとあちこちが虫食い状態になって、むごたらしい傷口と多量の出血を伴っている。ホラー映画さながらの無惨な死体となった、幼少期の自分がそこにいた。
『ナナミちゃん、しんじゃいやあああっ!』
そしてナナミ自身の口から5歳児の玖堂タマモの絶叫が出ていた。
周囲の風景も――ナナミはまだここがサンフランシスコだとは気付かずハワイのどこかと思い込んでいるが――実家がある東京都日野市の郊外に変化している。
『フハハハハっ!』
耳障りなその男の声には聞き覚えがあった。
タマモを待ち続けて裏切られ、武家屋敷の白壁に背を向けた直後、唐突に姿を見せた何者かの声だった。
『魔女め! バビロンの大淫婦! 忌まわしき|天空〈そら〉の女王よ! 貴様から奪ったぞ! 奪い取ってやったぞ! 何も知らない無垢な子供としての時間をなあッ! これこそ先の大戦で貴様に使い潰された〈野獣結社〉最後のひとりの復讐だッ!』
『――黙りなさい』
大笑いする男の声を打ち消したのは、ナナミを案じて泣きわめく5歳児のそれと同じでありながら冷徹な響きだった。
ナナミが大久保ハヤトとして出会ったタマモから受けた第一印象に近い、無慈悲な敵対者としての畏怖があった。
『おあいにく様。復讐は失敗よ。わたしはもう二度と大切なものは無くさないわ。だからあなたはここで殺すし、ナナミちゃんは絶対に死なせない』
5歳児の玖堂タマモの視点で過去を認識するナナミはタマモが死体となった自分の傍らから立ち上がり、灰色の外套をまとう長身の男を見据えたのを知った。
『戯れ言を。その子供は息絶えたし、前世の記憶に目覚めたとはいえ、その幼い身体では私を殺せるほどの擬力は発揮できまい』
男は灰色の外套を脱ぎ捨てた。
剃髪した白人の中年男だとそこでわかった。
その下にはカトリックの僧服があったが、首から下げているのは十字架ではなく先端が欠けている五芒星の装飾品だった。
『くくくっ、この旧神の印の前では、わずかばかりの擬力も振るえまい』
男が五芒星をつかんでタマモに突き出す。
その中央部分にある紋様か変化し単眼となって光る。
『そうね。これまでのような不本意な輪廻転生のままだったならそうなるはず……でも、今生のわたしは大好きな人たちの娘に産まれてきたから、そんなもの怖くない』
玖堂タマモの髪の色が黒から鮮やかな赤に変化していく。
『お父さんとお母さんから自分の心をもらったわ。伝承院様から自分の力に負けないようにする方法も教わったもの』
『バカなッ? 悪しき存在を封じる聖なる印が!』
旧神の印と男が呼ぶ五芒星が溶解し細かな立方状の格子に分解・消滅していく。『その悪しき存在を奴隷にしていた連中の走狗だったこと、前世のわたしの口車に乗せられたことを後悔して燃え尽きなさい』
五芒星の溶解と消滅はそれを突き出していた男の腕から全身に燃え広がっていき最後には一片の塵ひとつさえ残らなかった。
『……ナナミちゃん、ごめんね。もう遊べない……約束、もう無理になっちゃった……わたし、たくさんの別のわたしのこと思い出しちゃったから』
五歳児の玖堂タマモと同期した奇妙な回想はそこで唐突に打ち切られた。
「タマちゃん!」
視点は元に戻り、大久保ハヤトと名乗っていたタマモが、ナナミに見守られて、力なく横たわっている。
「今のって……あたしが死んでて……タマちゃんが……あれが覚醒ってことなのかな。でも、なんで、あたしがああいうのを見たの?」
独白するナナミに応えてくれる者は誰もいない。
だが、彼女とハヤトに脅威は近づいていた。
「えっ?」
気が付くとナナミとハヤトは暗緑色の装甲服に武装した十数名の兵士たちに包囲されていた。彼らのそれが、かつてのアメリカ合衆国戦略機甲軍の強化装甲歩兵の装備だということまでは知らない。
同様に暗緑色のシルエットキャリバーが4機、ちょうど2機ずつゴールデンゲートブリッジの左右から迫っている。武装した兵士たちの強化装甲服をそのまま20メートル級にスケールアップさせたような外観だった。腰まで海中に浸っているが防水処理や活動に問題はない仕様らしかった。
「敵性体および回収対象を発見。これより確保する」
強化装甲歩兵がライフルを構えながら距離を詰めてくる。
「手荒な真似はするな。入間ナナミは重要な役割を果たす存在だし、忌々しいその小娘も、あの大久保ハヤトだというのなら利用価値は大いにある」
装甲歩兵たちの後ろから悠然と歩いてきたのはナナミを修学旅行の宿泊先だったホテルから連れ出した鈴木という日系の男だった。
「す、鈴木さん?」
ハワイ日本領事館の職員だという触れ込みで引率の教師から紹介され、身分証は見せてもらっていたが、大久保ハヤトとの交流と彼女が玖堂タマモだと確信したとあって、逆にこの男たちがうさんくさく思えてしまう。
「やあ入間さん。災難だったね。きみは被害者だ。何も心配する必要はない。その大久保ハヤトというテロリストは危険な存在なんだ。彼らに任せて、きみはこちらに来るといい」
鈴木はホテルのロビーで引き合わされた時と同じ温厚そうな笑みを浮かべていたが、もうナナミには信用する理由がなかった。
「ひとつだけ質問していいですか?」
「いいとも。なんでも言ってくれたまえ。ああ、ご家族が急な事故というのはウソなんだ。どうしてもきみに同行してもらう必要があったのでね。まさか、大久保ハヤトなどという大物まで釣れるとは予想外だったが、案外、ウワサも当てにはならないものだ。私が聞いた話では生身でシルエットキャリバーの一個小隊と渡り合うたの、先の大戦でタイプSの〈収穫者〉を撃破したという話だが、せいぜい一機が限界だったわけだな」
死んだように倒れ伏しているハヤトを見下ろし、鈴木はつばを吐いて嘲笑する。あたしの友達になにするの、と怒鳴るのをこらえてナナミは問う。
「ここ、絶対にハワイじゃないですね。でも、あたしが泊まってたホテルは絶対ハワイにあったし、それは間違いない。ここ、どこなんですか?」
ナナミは未だにここがサンフランシスコだとは気付いていないし、ハヤトからも説明を受けていない。
「なんだなんだ、サンフランシスコもゴールデンゲートブリッジも見たことないのかいまどきの中学生は」
さすがにその地名でナナミはここが、世界地図で色分けされて進入禁止エリアとなった旧アメリカ合衆国の都市だと理解した。
「何かそういう擬力で車ごとハワイから?」
技術革新が進んでいるとはいえ、わずか数十分のドライブでこれだけの距離を移動するとなると、真っ先にハーメルン症候群の発症者とその擬力か何かという判断を下すナナミ。
「そんなところだと言っておこう。厳密には上官から借り受けているだけで、私自身のキャリバースキルではない」
「タマちゃん――大久保ハヤトさんのこと、どうするつもりなんですか?」
ハヤトをかばうように、ナナミは後ろ歩きで後退して兵士たちから遠ざかる。
敵性体という言葉がハヤトを指しているのは想像ができた。
ハヤトが述懐していた大戦前後のタイプBとされた古代種族の扱いと大差ないと考えてしまうのは自然だった。
「アメリカって消えたはずじゃ……」
「ひとつと言ったがそれで三つ目だ。まあいい、合衆国はこうして存在する。単に身を隠し、愚か者を一掃する力を蓄えていただけだ。今日が七月四日だという意味を理解できるか?」
それがかつてアメリカがイギリスから独立した日だというのはナナミも世界史で学んでいた。
「あたしに何をさせるつもりなんですか?」
ナナミの四つ目の質問に対して鈴木は言葉ではなく、取り出した拳銃を突きつけることで応じた。
「我々がメサイア・プランから提供を受けた資料には、大久保ハヤトを自称する、天空の女王の転生体は、多種多様な擬力およびキャリバースキルを保有しているとある。入間ナナミ、きみは歴史上確認された初の完全な死亡後に蘇生した存在だ。そしてその理由は、女王から恒久的に自動化された体組織復元の擬力を貸し与えられていると推測できる。私が上官からキャリバースキルを借り受けているのと同じように」
鈴木は一切の躊躇無く安全装置を解除し、ナナミの心臓に向けて発砲した。
映画撮影時に心臓に受けたものよりも強い衝撃と苦痛がナナミを襲い、制服に穴が開き彼女をアスファルトに吹き飛ばされた。
「きみが出演したあの映画の助監督に、頭のイカレたやつがいたんだよ。そいつは監督に赤っ恥をかかせて、業界から追放させようとして、空砲ではなく実弾を込めた拳銃を小道具として渡した。本当なら死亡事故になるはずだった」
そこから、ナナミの異常な再生能力がアメリカ海洋連合国政府、そして日本政府の知るところとなり、海洋連合国内に潜伏する旧合衆国再興派を介して、鈴木たち合衆国側の勢力の知るところとなった――銃弾が貫通して出血し、その上で単細胞生物の増殖めいた異常な速度での肉体復元を果たしながら、ナナミは鈴木の説明を聞かされていた。
「あたし……タマちゃんに生き返らせて……もらって……たんだ……」
理由はわからないが、ついさっき、白昼夢のように見た幼い頃の玖堂タマモからの視点での自分が死体だったのも納得できてしまった。
「きみのその能力、我々のシルエットキャリバーの能力向上のために役立たせてもらう。10年前、わずか5歳児の身体で女王はマグナキャリバーの復元に成功したというから実例はある。なにしろ反抗の狼煙は太平洋上で上がったばかり、いずれ太平洋の島々は我々の版図として再占領するのだから。日本も含めて」
鈴木はナナミの能力を試すかのように続けて拳銃を撃った。
「うあっ……ああああああっ!」
確かに傷は回復する。
致命傷を受け手も数秒の意識喪失だけで済む。
だが痛みはあるし、疲労感、そして何よりも延々と続く拷問めいた悪意がナナミを苦しめる。
「ハハハハっ! 情報通りだ! おまえら喜べ、この擬力の複製と移植が完成すればアメリカ戦略機甲軍は無敵だ!」
装弾されていたすべてをナナミに命中させてから、鈴木は指揮下にある兵士たちに下卑た大笑いを見せた。
「俺のは弾切れだ。おまえらのフルオートで細切れになっても復元するか検証してみろ。報告書を書くのはこっちなんだ」
兵士たちの顔は強化装甲服のヘルメットに隠れて見えない。
わずかな躊躇こそあったが、彼らは全員、上官の命令に従ってライフルの焦点をナナミに合わせた。
「大久保ハヤトには当てるなよ。そっちの再生能力は人間とタイプBのミックスよりも劣るって話だ。メサイア・プランのお歴々が生かしたままで引き渡せとうるさいしな」
だが、次の瞬間、数秒間であれば重火器の直撃を受けても衝撃を中和するはずの強化装甲服の兵士たちの身体はライフルごと文字通りの輪切りにされて、むごたらしい肉片をゴールデンゲートブリッジの上にさらしていた。
「大久保ハヤトっ? 擬力の使いすぎで意識不明のはずッ!」
あわただしく拳銃の弾倉を予備のものに交換しながら鈴木は、あおむけに横たわるままだった大久保ハヤトが、力学的な支えではなく、不可視の力か何かで宙に浮き上がるように立ったのを直視した。
「タマちゃん……?」
口から血の泡を吐きながらナナミがハヤトを視線で追い、みっともなく、路面を転がる。
「入間ナナミも戦略機甲軍とやらのご自慢も、私にはどうでもいいので放置してはいたが、神州を再び汚されると聞いては捨ておけん」
声は大久保ハヤトこと玖堂タマモのそれではあったが、どこか中性的なそれは、老成しているように思えた。
「タマちゃん……じゃ……ない?」
「KGMとでも呼べ。最近はその呼びかけに慣れてしまった」
大久保ハヤトの身体に宿ったそれは、地面に転がっていた白銀のハードケースを拾い上げてから、ナナミにそう告げた。