七章『北極ギツネはアデリーペンギンの夢をみる』9
「かえして! もとにもどして! いきかえらせてっ!」
感情のままにサロメは泣き叫ぶ。
それは常人であれば気絶するレベルの強烈な思念の奔流――精神感応波となって周辺の空間を埋め尽くす。
獣人種たちを拘束して苦しめていた機器や設備の残骸は、サロメの思念が暴走して渦巻く念動力によって宙に舞い上がり、でたらめに飛び交っていた。
神秘学あるいはオカルト事例を記録する者たちにとっては騒霊現象として知られるそれが、極端に拡大した規模で発生しているのだ。
「サロメっ!」
強風いや暴風としか言いようがない念動力の竜巻。
その中心にあって、サロメはハヤトが着せてくれた黒い学生服だけを羽織ったままで悲しみと怒りに慟哭している。
「泣きわめいても……って、ちびっ子に理屈なんか通じるはずねーよな」
ガラにもなく説得しようとしてしまった自分に驚きつつ、ハヤトは片ひざを床に着けてKGMを左肩に吊り下げた白銀のハードケースに納刀する。
不完全な前世の記憶と意志が助勢してくれて、御霊鎮めという奥義を発動させてはくれたが、まだ彼自身が自在に使いこなせる域には至っていない。
「くッ……う……はあ……くッ……」
急激に霊力を消耗してしまった反動でハヤトは余力を失ってしまった。
長距離マラソンの選手がゴールした直後のように呼吸が乱れていた。
今、自分が何を為さねばならないかは理解している。
かつて自分自身が今のサロメと同様の精神状態に追い詰められた時に、姉が何をしてくれたのかを彼は忘れてはいない。
「サロメ――」
だが、呼びかける声は弱々しい。
「こんなのウソ! もとにもどして! いきかえらせて!」
ひたすら目の前の現実を否定して、望むままの願いを強く訴えて叫ぶその声に、かき消されてしまう。
「お嬢さん、あなたの心の奥から湧き上がるその怒りを解放するのです……そうすればあなたトゥーレ最後の王アッシュールが全権を委任した……彼の寵愛を受けた天空の女王としての前世に目覚めて……すべてを可能とする異能を得られるはずです!」
宗教的高揚にも思える狂気の笑みを浮かべたルードヴィヒがサロメに告げる。
その身体は強烈な精神感応波に肉体の制御すら失いかけ床に倒れていた。
「素晴らしい……生身で……霊結晶という触媒も無しでフェッセンデン疑似粒子を生成するとは……これこそアルハザード様がお求めの……アッシュール王とそれに連なる者たちの力……」
サロメにとってルードヴィヒは大切な家族や友達、隠れ里の同胞を苦しめて死に追いやった忌まわしい存在でしかない。
それゆえ、彼女の願いのままに現実が改変されていくこの場にあってはゴミ屑のように引きちぎられて死に絶える運命が用意されていた。
「次なる輪廻転生での目覚めは……再興なったトゥーレの代でありますように」
だが全身を引き裂かれる苦痛の中にあって僧服の青年ルードヴィヒは法悦に至った聖者のごとき陶酔の表情を浮かべて死んでいった。
「もどってきて! かえってきて! みんな!」
サロメの心の奥に語りかける者たちがいた。
どの童女も、少女も、女たちも、満たされた想いと、喪失してしまい決して取り戻せない何かを求め、嘆き悲しんでいた。
サロメ……新しいわたし……あなたの願いをかなえてあげたい……かなえてあげる……強く想いなさい……願うのよ。
前世の自分たちの言葉に促されるままサロメは潜在する力を発現させていく。
彼女の周辺にはチカナの民が住まう隠れ里の自然風景そのままが出現していき、そこには顔なじみの獣人種たちの姿さえもある。
力自慢の熊耳の男たちが農機具を小屋から持ち出してきて、天気の話を始めていたし、ウサギ耳のやかましい村長夫人がタヌキ耳のエリザの母に夫の愚痴を言っているのまで聞こえてくる。
それはサロメが知っている、体験したことがある時と場の情景を物理的に再現しているものだった。卓越した霊能だという一言で語るには規模が大きすぎる力だった。これこそがトゥーレ最後の王アッシュールの愛し子にしてその力を託された天空の女王の力の一端なのだった。
「ミリアム……エリザも……いきかえって!」
目の前に広がる風景と人々の姿にサロメの表情は喜びに変わっていった。
奇蹟は起きたのだ。
「死んだ人間が生き返るわけねーよ。これは全部……おまえが造り出したおまえのためだけに存在する……できのいい箱庭と専任の舞台役者たちだ」
大きな切り株をイス代わりに座っている大久保ハヤト。
サロメが再現した世界にとってのイレギュラーな存在。
「そんなことないもん! サロメの中のユイリンやタマモノマエやみんなは、おねがいすればなんでもできるっていってる!」
「ああ、おまえが造ったこの閉じたちいさな箱庭の世界ではなんでもかなうんだ。自分のせいで死んだやつも生き返ったみてーに出てくるし愛想がいい。どんなに悪さしたりナマイキ言っても、絶対に怒らないし笑ってるんだ」
「え……?」
「けどな……最後の最後には……本当は全部……自分自身の想像した誰かの再現でしかないから……気付いちまうんだよサロメ。それで……おまえがおまえの中で、いちばん自分を叱る役回りにふさわしいって思ってるやつが出てきて、そいつが、説教してくれる」
「……だから、あたしが来たのよサロメ」
「きょくたんすぎるのはよくないですよサロメ」
「あ……ああ……ミリアム……エリザも……」
切り株に座る少年の隣にミリアムが、そしてエリザが立っていた。
そこからはハヤトが言った通りで、集めてきたキイチゴをつまみ食いしたり、水くみをサボった時と同じようにミリアムが落ち着いた口調でサロメをたしなめる。ときどき、エリザが賢しげに注釈を混ぜ込んでくるのも同じだった。
「本当はね……サロメもわかっているはずなのよ。だってここにいるあたしたちはサロメが想像した……知っているあたしたちなんだもの」
「ひとつ上のおねえさんなんだから、しっかりしてくださいよ」
「う、うん……」
いつしか周囲の風景も変化していた。
チカナの民の隠れ里ではなく、殺風景なあの実験施設内に戻っている。
「じゃあ……こんどこそ、おわかれだよ」
「りっぱなおとなに……なって」
「ミリアムっ……エリザぁ!」
仲良しの2人に抱き付こうとしたその瞬間サロメは、もうハヤト以外は誰も存在しない空虚な場所に立っている事実に気付いてしまった。
「こらえなくていい……俺も……一生分のが出たってくらいに大泣きした。だから泣きやむまでは、きっちり甘やかしてやる」
「うああああああああああっ!」
ハヤトはサロメを抱きかかえ上げると、泣きじゃくる彼女をそのままに瓦礫と残骸だけの小世界から退去していくのだった。




