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断章『叛逆の業火』

 藤原ヒロミは1999年のその日、いつものように白い部屋の中で目覚めた。

 ベッドには5歳児である彼より、ほんの少し幼い子供がいて、まだ眠っている。

 何か楽しい夢でも見ているのか、カフラ・アカナは愛くるしい寝顔で、すうすう寝息を立てていた。


「カフラ、おきてよ。そろそろ、ごはんの人がくるよ。いじわるな人だったら、ひどいことされるんだからさ」

「う~ん……おにいひゃん……まだねむい……」

「ぼくはきみのおにいちゃんじゃないよ。ほら、おきなよ」


 ほっぺたを優しくぺちぺちと叩かれて、ようやくカフラが身体を起こす。

 浅黒い肌に銀色の髪、そして赤い眼。

 バギルスタン王族と同じ身体的特徴のかわいらしい子供だ。


「……なあんだヒロミか。おにいちゃんかとおもったのに」


 ぼくだって、きみがカフラじゃなくて死んだ妹だったらと思ったよ。

 心の中でそう毒づきながら、ヒロミは甲斐甲斐しくカフラの世話を焼いて、顔を現せ歯を磨かせ、着替えも手伝い、起床後の身支度をさせる。

 彼自身も病院の検査服めいた服になって、二人でベッドに腰掛けていた。


 あとは食事と水が運ばれてきて、それが終わると検査。

 それ以降は彼とカフラ、それから午後になると会える他の子供たちの管理者の気まぐれで自由時間を与えられるかもしれない。

 最初から買い手を想定している子供には、それに対応した言語や教養、それから場合によっては性的な嗜好や技術に見合う教育の時間が義務づけられているからだ。


 幸か不幸か、相部屋になっているヒロミとカフラには、まだ英語の教育と欧米圏の基礎教養が仕込まれているだけだった。

 比較的、二人には時間の余裕があり、管理上、同じ扱いを受けているカフラは、ヒロミを頼り、甘えるようになっていた。

 こんな暮らしがもう1ヶ月近く続いている。


 遠縁の親類と称したヤクザの男女やその手下のゴロツキどもからの虐待に比べたら、扱いはまだマシか、とカフラの頭をなでながらヒロミは思う。

 パチンコや競馬で負けた腹いせに怒鳴る、殴る蹴る、食事を与えない、タバコの火で髪を焼く、もう考えたくもない待遇だった。


 藤原ヒロミは家族を事故で失い、天涯孤独となった。

 幾ばくかの遺産目当てに遠縁の親類が彼を引き取ったはいいが、遺産の管財人である弁護士はその親類とグルになって金銭だけを奪い、病死扱いで売り飛ばした。その買い取り先が中国の沿岸部に強い影響力を持つ中華マフィア上海(シャンハイ)黒幇(ヘイバン)だった。


「ねえヒロミ」


 足をぶらぶら動かしているカフラは手持ちぶさたといった感じだった。

 ヒロミに頭をなでられて、うれしそうに目を細めてはいる。

 でも退屈ではあるようなのだ。

 まるで昔、近所にいた野良猫みたいだとヒロミは思う。


「なんだいカフラ」


 ヒロミは、自分がいつの間にカフラの使う異国の言葉を理解して返事をすることができるようになっているんだろうと考えていた。


 ひらがな、カタカナ、いくつかの簡単な漢字、それとアルファベットは読み書きできるようになっているが、カフラが使う古代アラム語など理解の外にあるはず。それなのにいつの間にか意思疎通できるようになっているし、それだけではなく、カフラまでもが、ヒロミと同じく英語での読み書きができるようになっていた。


「おはなし、して?」

「……ぼくは、カフラのおかあさんでも、おにいさんでもないんだよ」

「じゃあ、きのうのおはなしにでてきた、さんごくしのひとみたいに、ぎきょうだいのちぎりってやつ、してあげてもいいから。それならヒロミも、おにいちゃんになるよ?」

「ぼくは自分の妹のお兄ちゃんだけでいそがしいから、えんりょしておくよ」

「ヒロミのいもうとも……うられて、ここにいるの?」


 そう質問した時のカフラには、ヒロミを気遣うような雰囲気があった。


「死んだよ。こうつうじこで1年前に。おとうさんもおかあさんも。だから、しんぱいはいらないんだ」


 少なくとも里子に出される前の実家には兄や両親が健在だというカフラよりは、少しだけ気が楽だとヒロミは思った。

 

「……ごめんね」

「いいんだ。カフラはなんにもわるくないんだ」


 悪いのはひとりだけ生き残ったぼくで、だから罰を受けてこんなことになっているんだよ、と心の中で付け加えるヒロミ。


「むかしむかし、あるところに――」


 ヒロミは幸せだった頃、双子の妹といっしょに、両親にねだって聞いたお話を思い出しながらカフラの退屈を慰める。

 しあわせな王子様、としておぼえている、オスカー・ワイルドの〈幸福な王子〉を語った。

 黄金や宝石で装飾されている銅像の王子が親しくなったツバメに頼み込んで、貧しい人々に自分の身をまとうすべてを与え、そして最後はみすぼらしい像に成り果て打ち捨てられツバメと共に死んで天国に昇る――そういう話だ。


「むかし、おかあさんがしてくれたはなしとおんなじだったよ」

「カフラのおかあさんもこの話を知ってたんだね」

「ううん、そのおはなしはね、アッシュールっていうおおむかしのえらいおうさまのはなしでね――」

「しずかに! ごはんのひとが来る音だよ!」


 足音が近付いて、電子ロックが解かれ、ドアが開く。

 ワゴンに乗せられた食事と水を運んできたのは、やつれた顔の中国人だった。

 初老の男で、ヒロミとカフラにとっては、やさしいおじさんだった。

 他の男たちからはロンと呼ばれていて、それなりに格上らしい。


「ガキども、元気にしてたか?」

「うん。きょうは、おじさんでよかったよ」

「ごはん、ごはんはやく!」


 カフラは喜んでいるがヒロミはロンがひどく疲れているのに気付いた。


「ほれ、おかゆとピータン、それと鶏肉の揚げ物、それとデザートの杏仁豆腐だ。ちゃんと残さず喰えよ」

「うん! おじさんのごはん、だいすき♪」

「いただきます」


 しょせんこの人も人間を売り買いする悪い人たちの仲間なんだから心配事があってもなくても、ぼくには関係ないし……そう思ってヒロミは何も尋ねなかった。


 さんざん欺かれ、傷付けられ、苦しんできたヒロミは、自分と同じ境遇にある子供たち以外には気を許せなくなっている。


「ねえ、おじさん。なにかいやなことでもあったの?」


 ぺろりと朝食とデザートを平らげてからカフラがそう言った。

 ヒロミも最近になって気付いたが勘の良い子供だった。


「いつものおじさんのごはんよりも、おいしくなかったよ? アンニンドーフは、とってもおいしかったけど、なんで?」

「そいつは……いや、どうでもいいか。おじさんな、おまえらとはこれでお別れになるんだ……組織から足を洗う。杏仁豆腐は昨日の夕方に仕込んでおいたから……それで、制裁を受けた後の今朝に作った分は味が落ちたんだな」


 どうせこんな子供に何を言ってもわかるまいとロンは自分が組織から比較的穏便に離れること、日本に逃がしておいた妻を頼って上海からも離れるといった個人的な事情をべらべら話した。


「ユイリンのお嬢亡き後も……組織はお嬢に敬意を表してか、俺を飼い殺しにしてくれてたが……もともと俺はお嬢専属の料理番だったんだ。荒事に慣れてく自分かもう……めっきり嫌になった……すまん、おまえらにはもう何もしてやれん」


 少なくともこの男は彼なりに自分たちに良い待遇が与えられるように差配してくれてはいたのだとヒロミはやっと理解した。

 そして今後はもう、その温情に頼れることはないのだという事実にも思い至る。


「いままで、ありがとうございましたロンさん」

「なるべく、まともな客に引っかかるように祈る……すまない。元気でな」

「おじさん!」


 食器が置かれたワゴンを押して部屋から出て行くロンに、カフラが抱き付こうとしたがヒロミはそれを捕まえて押さえ付ける。


「カフラ、いい子にしてよ」

「おじさんにあえなくなるの……いやだよヒロミ!」

「ぼくたちは……いやだと言っても……どうしようもないんだ……おとなのひとに手間をかけさせると……ひどいことされるだけなんだよ……なんにもしないほうが……いいんだ」


 その夜からヒロミとカフラはそれぞれ個室に引き離された。

 どいうわけか、子供たち全員が顔を合わせる昼食時にも姿を見せることはなく、ヒロミは言い知れぬ不安に襲われた。

 比較的温厚そうな見張り役の人間に、カフラはどうなったのかと質問してみると上客に見初められて貴族の養子となるのにふさわしい教育を受けている、おそらく次のオークションで落札されることになるだろう、とのことだった。

 上客とやらが何者かは知らないが、少しでもまともな人格であることを祈って、ヒロミはカフラについて考えるをやめることにした。


 数日後、ヒロミ自身も出品されるオークションの夜が始まった。

 

「――それではキャサリンちゃん6歳は100万USドルで落札となります! おめでとうございます!」


 不可思議な理由で英語を読解するようになる前のヒロミに、言葉が通じないながらも面倒を見て単語を教えようとしてくれた女の子が扇情的で卑猥な下着姿のまま壇上に立っていた。

 必死な作り笑いが痛々しい。

 早々に上客に見初められていた彼女は、特殊な嗜好の客の注文で、考えたくもない残酷で淫猥な技術の習得を義務付けられていた。

 陽気で快活だった彼女は、最初の特別な教育が始まってから、虚ろな人形のように表情を凍てつかせていた。


 舞台裏に集められた子供たちはヒロミも含めて緊張していた。

 キャサリン同様の予約が入っていた者は、ぎこちない笑顔の練習をして、落札予定者や管理者である上海黒幇の男たちの紀元を損ねないように必死。

 特に予約が入っていない者たちは不安そうだった。

 運が良ければ見た目が美しい養子を求める富豪に買われてまともな扱いを受けられるようになるチャンスでもある。

 だが最悪の場合は非合法の売春組織に買い叩かれ、男は臓器移植用の部品として切り売り、女は子供を作る道具として利用されて死んでいく、そういう運命が待つと基礎教育で脅かされている。


 ぼくは……どうなったっていいや。

 殺されるなら、なるべくはやく、楽だといいってくらいだ。

 カフラと引き離されて、その処遇が穏当であるらしいと知ってからのヒロミは、無気力になる一方だった。

 ひとりだけ交通事故で生き残った自分への罰が早く終わり、死んで両親や妹に、天国で再会できたらいい……そう考えるのが楽しみだった。


「あ……おにい……ちゃん?」


 ひさびさに聞いたカフラの声にヒロミは振り向いた。

 そこには、全裸を鉄鎖で拘束されたカフラがいた。

 黒服にサングラスという無個性な男たちが左右を固めている。

 カフラのきれいな髪はバサバサに切られていて、かわいらしかった顔はまるで怪物のように変形していた。

 おそらく左目は潰されて何も見えない。

 腕も、肘のところが反対側に湾曲して変形し、骨が露出していた。

 それなのに着衣だけは古代エジプトの王族のそれを模した豪奢なものだ。


「カフラっ!」


 ヒロミは駆け寄ろうとしたが見張り役の男に足を引っかけられて転ぶ。


「なんでっ! なんでだよッ!」

「ああ、予約客がな、美と醜悪なものが同居する存在とかいうイカレタ趣味のために注文したんだよ。どうせ変態で有名なIT長者だ。長生きはできないだろ」


 カフラを拘引していく男が、必死な剣幕のヒロミを嘲笑うようにそう教えてからステージに去っていく。


「たすけて! たすけてヒロミ! たすけておにいちゃんっ!」

「カフラっ!」


 起き上がって追いすがろうとするヒロミは見張り役の男にねじ伏せられた。

 大人の男に五歳児が抵抗することなどできない。


「あまり手間をかけさせるなよフジワラ。おまえだって黒髪のきれいどころで上客が期待できるんだ。かの伝説的なレディ・ユイリンが殺される直前まで、おまえみたいな容姿のガキを探してたって話だ。そういう趣味の有閑マダムが高く買ってくれるぞ」

「はなせーッ!」


 だがもう遅い。

 カフラと拘引する男たちはステージに出て、見え見えの競売は悪趣味な予約客が落札して退席し、次はヒロミの番となる。


「お待たせしました紳士淑女の皆様! 東洋の黒真珠、商品ナンバー15、フジワラヒロミくんです! さあ、ヒロミくん、ごあいさつを」


 司会役のオーストラリア人の太った男がマイクを差し向けてくる。

 ヒロミの耳には届いていない。

 代わりに、彼にだけ聞こえる嘆きが脳裏に反響する。


「王よ……我らが救い主よ……ほむらの王よ……いまいちど奇蹟を!」

「獣のしるしを与えられし無辜(むこ)の民に救いを!」

「たす……けて……アッシュール……さま」

「カレンっ!」


 ヒロミには獣としての身体的特徴を与えられた無数の男女たちの群衆が自分を別な名で呼び、救いを求める光景が見えた。

 その中にはキツネ耳で黒髪の幼い女の子の姿もあった。


「どうしたのかなヒロミくん? 緊張しているのかな? でも、ここにいるのは大切なお客様たちだから、ちゃんとお辞儀をして、ごあいさつしようね?」

「……何か言ってもいいんだよね」

「なあんだ口が利けるじゃないか。はい、どうぞ」


 ヒロミの中には数え切れない複数の人格があった。

 暴君として神仙たちに討ち滅ぼされる殷王朝の最後の王。

 古代エジプトの狂王ネフレン・カー。

 そしてトゥーレ最後の王アッシュール。


「おまえたちを……滅ぼしてやる」


 それはヒロミの母国語である日本語として発せられたが、ステージ以外は薄暗がりのオークション会場内の全員に理解される言葉として伝わった。

 一瞬の静寂があって、どよめきが笑いとなって広がる。

 面白い冗談、余興のたぐいだと誰もが思ったか。

 見た目が上等なだけの東洋人の5歳児に何ができるかという話だ。

 ハーメルン症候群の存在は知られつつあったが、まだそれは遠いどこかのお伽噺のようなものでしかない時期でもあった。

 

「ひッ?」


 最初に、司会役の太った男の身体が火に包まれた。

 マイクが融解してマグマとなりステージの床にこぼれた。

 オークション会場は騒然として大パニックに陥る。

 だが、誰も逃げられない。

 すべての人間は例外なく自分自身の内側から生じる炎に包まれ、熱エネルギーに転化させられて、生きながら焼け死んでいく自分を認識していくだけ。


「……苦しむがいい……虐げられし者たちの怒りと悲しみの万分の1にも足らぬだろうがなッ!」


 会場だったその施設も構成する素材自体がエネルギーとしての炎に転化させられていき、業火となって周囲を青い炎に包んでいく。


 それはまさに、ジュゼッペ・バルサモが失敗作であった主君の心臓を破壊して破棄し、マリー・アントワネットが13番めのVA源動基が発した高エネルギー反応に直撃を受けたのとまったく同一の瞬間だった。

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