六章『六億二千万年前の遺産』20
「状況は? 俺はどの程度の間、死んでた?」
軽い疲労こそ残ってはいるが、御霊鎮めを放った直後に比べれば、ハヤトの心身は、ほぼ回復済みという状態だった。
「しんでない! ハヤトはしんでなんかないの!」
立ち上がったハヤトの足下にサロメが抱き付いて、わあわあ泣きわめく。
周囲の風景は意識を喪失した場所とは異なっている。
マシュー・ペリーの戦闘指揮所だった場所でもなかったし、見慣れたマリー・アントワネットの格納庫でもない。
「わかった、わかった。生きてるよ俺は。だから泣くなサロメ。いい女はな、泣いた時の効果が最大限に活かせるタイミングでだけ泣くんだ。そうしないと悪い男にたぶらかされる」
ぐすぐす泣いているサロメをあやしながらハヤトは、周囲の空間を自分の記憶と照合する。
地面――床は玉砂利が敷き詰められている。
大型の屋内運動施設並みにだだっ広いが、壁も天井も樹木の表面めいた何かで、巨大なタマネギ状の密閉された空間を形成していた。
ハヤトとサロメは、その中心部分にいるのだった。
樹木の壁全体が、ぼんやりと光って照明の代わりになっている。
体感する限り気温は熱くもなく寒くもない。
「落ち着いたらサロメがおぼえてる限りのことを教えてくれ。俺が御霊鎮めを使って倒れた直後からのことを」
「うん……あのねハヤト」
サロメはKGMに呼びかけて、コクピット内にハヤト、ミランダ、ロデリックを収容し、人馬兵と化したマシュー・ペリーを離脱した。
マリー・アントワネットに合流しようとしたのだという。
だが、超光速航法に遷移しつつあったVA艦は格納庫を開放して、回収用のアンカーワイヤーを伸ばすのが精一杯だった。
サロメはKGMのサポートで、アンカーワイヤーをつかむことができたが、その直後に上空からの高エネルギー反応と閃光が襲いかかり、気が付いたら、この場にハヤトと二人だったという。
「そっか、そっか。大変だったなサロメ。でも、それだけやってくれたなら上出来だぞ。後でなんか、うまいやつ、おごってやるからな」
マーズ・フォリナーを持ち出す前後、バギルスタンでドニヤザードにそうしたようにハヤトはサロメの頭をなでてやる。
「うまいやつ?」
「甘いのでも、しょっぱいのでも、なんでもだ。そうだな、俺だったらお汁粉か、杏仁豆腐――」
食事の話題はいついかなる時にでも明るく前向きな気分にするという父親譲りの持論を披露しようとしたハヤトだったが、慣れ親しんだ甘味のひとつは、もう二度と口にできない事実を連想してしまい、言葉が続けられなくなった。
「ハヤト?」
「ごめんな。世界一うまい杏仁豆腐はもう無理だったよ。お汁粉なんかがいいぞ。バカ舌なうちの母親が唯一まともに作れる食い物だ」
「ハヤトのおかあさん?」
「ああ。授業参観に世界一来て欲しくない母親だ。なにせ下手すると小学校の新入生と勘違いされるからな。犯罪者呼ばわりされる時だけは親父のやつに同情――ってそんな話どうでもいい!」
「そんなことないよ。サロメはハヤトのおうちのひとのはなし、もっとききたい」「また今度な。とりあえずは現状把握と安全の確保が先だ。サロメも何か見えたり聞こえたりすることがあったら教えてくれ」
「うん。また、こんどね」
サロメはこくこくうなずくと、ハヤトの左側に立って周囲をきょろきょろうと見渡す。キツネ耳がぴくぴくと動いて、かわいらしい。
手をつないで、とは言われなかったが、サロメがそうしろと言いたげな仕草で右腕を伸ばしてきたので、ハヤトはそれをつかみ、姉がそうしてくれていたように優しく握った。
ハヤトも呼吸を整えながら気配を探る。
だが、敵意や危険を察知することはできなかった。
「誰もいないのかよ? まさか、また俺の意識の中とか、そんなふざけた話じゃないだろうな?」
アッシュールとの邂逅を思い出して、げんなりとするハヤト。
ここにいるサロメも、もしかしたら自分自身のイメージが造り出した存在なのだろうかとさえ考えてしまう。
「しっ! だまっててハヤト。なにかきこえてくるの……しずかに」
今度はハヤトがこくこくうなずいてサロメの指示に従う。
ネバダ州の実験施設から救出以降、何度か窮地を救われたこともあり、ハヤトはサロメの超感覚に信頼を置いている。
「そこにいるのは、だあれ? こっちはサロメとハヤトだよ? こわいことしないよ? おはなし、しよ?」
中空を見上げて呼びかけるサロメ。
やわらかい雰囲気の呼びかけではあるが、そこには明確な強い意志を伴う霊威がごく自然にさりげなく宿っている。
バギルスタンの巫女ドニヤザードが未知のVA源動基に呼びかけた場合とも似た対話の呼びかけだった。
ザ……ザザ……と、古いラジオのスピーカーから出る雑音のようなものがハヤトの耳にも届いた。
「むりしないで? ゆっくりでいいから、あなたのなまえをおしえてね?」
すると、二人の前にいくつもの蛍火めいた輝きが集まっていき、それは薄紫色の巨大な半透明の宝石となった。
完全な円球ではなく、あちこちには亀裂が生じていて、そこから鈍い光を放ち、苦しそうに明滅していた。
「いち……もんじ……きく……か?」
サロメが相手の名を口にしたその時点で、ハヤトはこの場がどこなのかを察することがようやくできた。
ハヤト自身の意識の内部ではない。
だが通常の場というわけでもないところだ。
「ここは……VA源動基の中だサロメ。マリー・アントワネットのな」
ハヤトがつぶやくとそれに応じるかのように巨大な宝石は激しく明滅する。
次の瞬間、カラン、と音を立てて床に何かが転がって宝石は消える。
それは古びた一振りの木刀で、刀身の部分には今にも朽ちてしまいそうなほどの亀裂が入っていた。




