六章『六億二千万年前の遺産』18
御霊鎮めを放ち、倒れ伏した大久保ハヤト。
その意識は厳冬の荒海のような暗い水底へと落ちていく。
灰色の虚空としてイメージされる奈落へと、際限なくその意識は引き込まれていくばかり。
『あなたのような危険人物は存じ上げておりませんが』
1999年という時と場で初めて会ったミシェル・バーネットの警戒する表情と声が彼を責めるかのようにすれ違う。
ハヤトの過去の記憶が混濁する意識の中で再生されているのだ。
本格的にやばいらしい……これまでの人生で経験したことを死に際に走馬燈みてーに見るってやつじゃないのか、こいつは?
未だ正統な伝授を受けていない奥義を見様見真似で放ったハヤトは疲弊の極みにあるはずだが、どこか透徹とした感覚で自分自身を客観視する部分が精神の内部に存在することが不思議でもあった。
『仮にあなたが次なるこの剣の主だとしても、VA源動基を巡って一触即発の状態にある今、現存する唯一のマグナキャリバーを預けることなどできません』
シエラザード・テクフールという古代からの秘儀を託された娘が手厳しく彼の願いを拒絶する。
だがハヤトは目的遂行のために自分の意志を強引に押し通した。
『それが動く時には、すっごく良くないことが起きるって……アルトゥールおじいちゃんが言ってたよ』
悲しげに目を伏せたドニヤザード・テクフールの意気消沈した姿。
『ころさないで! こわさないで!』
ネバダ州の秘密実験施設で拘束具から解放したばかりの彼女も泣きながらそう叫んでいた。
「よせよサロメ……俺は……助けに来た白馬に乗った王子様とか騎士とかのつもりで――」
サロメはこの時はまだ、俺が何者かもわかってない。
だから怖がってるのは当然だ、おかしくない。
都合の良い言い訳で平常心を取り戻そうと無駄に考えるハヤト。
『いい加減にしてください! もうこれ以上、あなたには付き合いきれません! 何人巻き添えにすれば気が済むんですか! あなたなんかに出会わなければ良かった! 仲良くならなければ良かった!』
横っ面を平手打ちされたその痛みの記憶は肉体的なダメージは皆無でもハヤトの心に深く思い傷跡を残していた。
探索都市ゾシークに招かれ、現地の中学校の入学式当日に出会った少女、一文字ヒナギクからの叱責混じりの泣き顔。
だよ……な。
俺が状況を引っかき回してるからこそ……ろくでもねー状況がもっと輪を掛けてろくでもなくなってんのかも……しれねーぜ。
ゾシークでの破天荒な生活の中でも一文字ヒナギクとの衝突は日常茶飯事でありいていの場合、彼女からの叱責はハヤトを激励する結果となることが多かった。
しかしこの記憶に関してはそうではなかったし、ハヤト自身を打ちのめす決定的なとどめとなった。
ごめん……俺……しくじった。
まだ、ここで、やっておかねーと、まずいことあるってのに。
『疲れているのよ。目を閉じて眠ってしまいなさい。お姉ちゃんが全部、なんとかしておいてあげるわ』
ハヤトの記憶にある姉――中学生になってしばらく経った頃の玖堂タマモの優しい声が、つらい記憶を上書きするようにして再生され、彼の心をそっと優しく包んでくれた。
「おねえ……ちゃん……」
黒い学生服の少年として構成されていたハヤト自身のイメージは、まだ甘えたい盛りだった6歳前後の男児の姿に変化してしまう。
『かわいそうなイサミ。みんなのために、たくさんがんばったのに、誰もあなたのことを認めてくれないのね。でも、お姉ちゃんはわかっているのよ。イサミは立派なことをしたのよ。失敗したけれど、他の人は最初からあきらめて何もしようとはしなかったんだもの。誰もあなたを非難する資格なんてないのよ』
「……うん」
『お姉ちゃんは……お姉ちゃんだけは何があってもイサミの味方よ。たとえ相手が誰だって、あなたを傷付けたり苦しめたりするなら許さない』
慈母のごとき微笑みで古風なセーラー服をまとう少女が男児を抱きしめる。
幼い頃の幸福な時間を取り戻したハヤトは安らかな心持ちで自我を――
『意識を手放すな』
自我や記憶さえ、あいまいとなりつつあった彼に何者かの意識が干渉してくる。それは親しみと葛藤が入り混じった、ある記憶を呼び覚ます。
『あんたに指図されるいわれはねェんだ親父ッ!』
姉である玖堂タマモのイメージは消え失せていた。
彼自身の姿も黒い学生服の少年に戻っている。
ハヤトの意識に触れた思念が幻影とした見せたその姿は、バギルスタンでドニヤザードとミシュレットの前に出現した少年王と同じ投影体だった。
日本人である彼と姉の父とはまるで別人の姿だ。
「……ここは、あの世か? 俺はしくじったわけかよ」
「ある意味では」
独り言めいたハヤトの語りにアッシュールか答えた。
まるで父親がそうするような絶妙な間合いでの受け答えに、ハヤトは眉をしかめた。そういうところが、かわいげがなくて嫌いな理由でもあった。
「俺は大久保ハヤトだ。なあ地獄の先輩のあんた、閻魔大王とか鬼が出てくる前に名前とか教えてくれよ。なんか強そうだし、つるんで地獄の鬼退治と洒落込もう。て、さっさと生き返ろうぜ?」
「冥府の掟は単純な暴力などでは覆らぬよ。もっとも、ここは冥府などではないがな。余の名はアッシュールという。トゥーレ最後の王であり、影濃きケムの地にてネフレン・カーとして輪廻転生した者でもある」
ドニヤザードとの邂逅は物憂い倦怠にあったアッシュールの意識に変化を生じさせているようだった。
「……俺が聞いた話じゃ、どっちも悪さしまくって庶民に大迷惑かけた大昔の王様の名前だな」
「特定の階層や立場にある者たちにとっては、権益基盤を破壊する悪しき王として忌み嫌われた。残念ながら悪口の方が後世には残りやすいものだ」
「そもそも、あんたらが《年代記収穫者》をいろんな時と場に放流してくれたから大迷惑してるって話なんだがな」
「簒奪者として最後に登極した余にではなく、それ以前の王たちに苦情を申すがよかろう。トゥーレの都と、12都市、10と3の王たちに」
「前任者に丸投げかよ! じゃあ古代エジプトでいけにえとか拷問とか――」
「ドニヤザードとミシュレットから聞いた。なんでも、おもしろおかしく余の事績を娯楽に仕立てた物語があるそうだな。しかし往々にし物語というものは歴史的事実を歪曲させるものだ。在位中、正義と法の下に刑の執行は許可したが、それに関しては、余はなんら恥じるところはない」
「むかつくッ……なんであんた、うちの親父みてーに、しれっと切り返しやがるんだよッ!」
「初めからそう申せば良かろう。余も、そなたのような自己を韜晦し、偽ろうとする手合いは好かぬ。心の奥の最後の頼みの綱は一文字ヒナギクとやら、それと、おねえちゃん、か」
「どうやら気が合いそうだな大魔王アッシュール! 俺もあんたや親父みてーな、悟ったふりの生臭坊主っぽい感じが、一番むかつくんだよッ!」
ハヤトの右拳はアッシュールの顔面を捕らえたかに思えたが、わずか数ミリ単位の挙措だけで少年王はそれをかわし、瞬時にその腕を捕らえて間接を極めながら、豪快に投げ飛ばした。
「ッッ~!」
悲鳴にならないだけマシだったがハヤトは先刻までとは別の理由で意識を失いそうになっていた。
「ふむ、どうやら、いにしえの時代に余を葬り去った奥義の数々は、キューバ危機とやらの際の大久保ハヤトを最後に、失われて久しいようだ」
アッシュールは残念そうにそう言ったが、ハヤトにとってそれは、彼の師でもある存在を軽視しているとしか受け取れない屈辱的な言葉だった。




