六章『六億二千万年前の遺産』8
純白の豪奢なドレスをまとう彼女は何かに呼ばれるように、その場所へ足を踏み入れていた。
統合歴ゼロ年――かつての西暦2000年に第三次世界大戦が終結して以来、天空の女王は、おのれの言動すべてを、生き残ったわずかな人類の統治と教化、そして彼女にとって唯一無二である主君の降臨に備えて費やしていた。
だがそれから40年後のこの瞬間、女王はわけのわからぬ衝動に身を委せて、統合政府庁舎施設の地下深くに存在する禁忌の場へ赴いた。
救世主計画を構成する者たちが施した封印も、古代トゥーレ文明の最盛期そのままの異能と人格、記憶を取り戻した彼女にとっては何の意味もない術式だった。
「ここ……は?」
氷原のごとき結晶の大地が果てしなく広がっている。
この場そのものが流氷のごとき巨大な霊結晶の原石なのだ。
「南緯77度、東経105度、ヴォストーク湖……そして界渡りを可能とする巨大な霊結晶の鉱脈……俺はミシェルからそう聞いてる」
それはふてぶてしさよりも、虚勢を張っているだけでしかない、弱々しい声だった。
「誰っ?」
「大久保ハヤト……だ」
黒い学生服の少年が、木刀を杖代わりにして、ヨロヨロと近付いてくる。
激しい戦闘を経ているのは身体のあちこちの傷と出血ですぐわかった。
そして、その名前には彼女も思い当たるところがあった。
「そう名乗っていた宮川ユウゴという老人は、最終戦争が始まる前に、わたし自身が手を下して葬り去ったわ。その血縁者もまとめて、すべてね。あなたは何者?」
未だ十代歳半ばの若い娘としての容姿そのままに天空の女王は少年に問う。
はっきり言って彼は無害な存在だった。
手にした木刀から多少の力は感じるものの、せいぜい護身用レベルでしかなく、比類無き力を誇る彼女を傷つけるには無理があった。だからこそ攻撃するでなく、興味本位で質問している。
「その血縁者が始末されなかった可能性から来た、そいつのひ孫ってことになるわけだが……理解できるか?」
「ええ、警告は受けていたもの。時に幻影、時に夢、そしてこうして今現在のような形で、忌まわしい別の可能性としての世界からの干渉があり得ると」
「そいつは奇遇だな。俺も似たような注意をやかましい社長秘書からさんざん言われてるんだ。ただでさえその顔と声で殺しにくいってのに気が重いよ」
「……あきれた人ね、あなた。そんな気休め程度のアルケミックチャージされた棒切れで、本当にわたしを殺せるつもりでいるの?」
「ああ、あんたと同じ顔と姿の先代から、そういう技も教わってる」
しかしハヤトは杖代わりにした木刀を両手で構えるのがやっとで、それ以上はまともに動けなくなっていた。
呼吸も荒い。
彼女が超常的な力を用いずとも、全力で殴りかかれば、そのまま倒れ伏して永遠に起き上がりそうにないような印象さえあった。
「わたしと同じ顔と姿……わたしの妹の誰か……あなたが属していた可能性には……エリザやミリアムが生きているの?」
「……サロメか? サロメなのか?」
ハヤトの目の色が変わった。
彼は自分自身の主観的な時間の推移の過去においてサロメを救っている。
そのサロメが、むごい実験で殺された妹たちの名を泣き叫ぶのを聞いている。
彼女たちはすべて天空の女王と呼ばれる存在を降臨させるための受け皿として利用されていたのだ。
ハヤトの姉が5歳児だった当時、ハーメルン症候群を利用されて、そうなりかけたのと同様に。
「え、ええ……そうよ。もう今では誰もわたしをそうは呼ばないけれど、わたしだけは忘れていないの。偉大なる焔の王をお慕いし、奉るわたしはわたしだけれど、黄玉鈴や他の女だったこともおぼえているのと同じで、居留地の隠れ里で生きたサロメのことも忘れてはいない。でも、なぜあなたはそれを知っているのかしら?」
「おまえの寝相といびきが最悪で、アデリーペンギンとお汁粉が大好きで、猫舌だってことも知ってる……だから……お願いだから……思い出してくれ」
「何を……あなた何を言っているの?」
「誰が……なんのために……エリザとミリアムをむごい目に遭わせて……その理由を、おまえから忘れさせている理由を……それを思い出して……くれ……頼む……」
そこまで言うと大久保ハヤトは前のめりに倒れてぴくりとも動かなくなった。
天空の女王は数秒後には彼が完全に絶命するのだと悟ったが、別の可能性の自分、そして意味ありげな言葉の続きを聞きたいという好奇心に負け、傍らにしゃがみ込んだ。
「うわあああああああああっ?」
ハヤトの後部座席でサロメが突然、大声でわめいていた。
彼女が何を幻視しているのかを、彼は知らない。
「どうしたサロメっ?」
「これ……このくろいがいっぱいになっちゃうと……サロメはハヤトにあえない……あってないことになっちゃう! なっちゃってるよう!」
「お手伝いしなくていいから、機体との接続を切れ! さっさと仕事を終わらせるから少しだけ我慢してろよ!」
素体となったマーズ・フォリナーの機体が疾走する。
足裏部分が接する部分は海水ではなく、半透明の薄い板状の何かだった。
25年後に玖堂タマモがサンフランシスコの巨大な鉄橋から駆け下りた時にも、同じ不可視の何かが発生して足場となっていた。
「あんな重たそうな機体が水の上をっ?」
マリー・アントワネット戦闘指揮所内でマーズ・フォリナーの動向を確認しながら、自身の作業を継続していたカトリーヌ・フォルタンは驚愕する。
当初は鈍重な歩みでしかなかったマーズ・フォリナーだったが、やがてそれは衝撃波を伴う超音速に遷移し、ゆがんだ黒い海に変じたマシュー・ペリーに接近しつつある。 それを迎撃するかのように黒い海面からはハヤトがラ・グランドテール
基地周辺で撃破した機体群と同一のシルエットキャリバーが無数に出現する。
「マグナキャリバーは使い手の能力を完全に再現できるのよ。一部のシルエットキャリバーの能力を、スケールダウンして使い手に与えるキャリバースキルとは正反対にね。それよりカトリーヌ、機密化プロセスは?」
サクリファイザをパージし、並みのシルエットキャリバーと同サイズとなったマーズ・フォリナーの戦闘力に不安はあった。
それでもミシェルは、ハヤトが属する時と場において、彼への依頼をしたのが自分であるのなら、少なくともネガティブな可能性だけが存在するわけではないのだと理性をなだめ、目の前の為すべきことに意識を集中させる。
「格納庫からの退避完了しました。損傷箇所の全隔壁閉鎖、気密化完了!」
ミシェルの声にカトリーヌは本来の作業に戻った。
ほとんど完了していたそれは確認するだけで終わる。
「座標設定も完了よ。デシャルム艦長、超光速航法いつでも開始できます」
「艦首の衝角も展開したまえミシェルくん」
「あれは予算執行を渋るお偉方を言いくるめるために付けた式典用装飾ですが?」
「アルケミックチャージしているのなら棒切れや鉄パイプも鋭利な刃物、神話や伝説に語られる武具ともなる、そういう話だったはずだ」
「了解。艦首衝角展開します。アルケミックチャージの焦点を艦首に収束」
ミシェルの思考がそのままマリー・アントワネットに伝達され、艦首部分にある鋭利な突起が大きく展開する。
海上戦が近代化する以前、軍艦や私掠船の武装としてはそう珍しくはなかったそれは確かに視覚的な意味で勇壮な印象を与えてくれる。
だが、いかにアルケミックチャージされているとはいえ、不気味な漆黒の流体と変じつつあるマシュー・ペリーを打ち破るにはあまりにも貧相な兵器だった。
「ねえ少佐、あれを放置して逃げるという選択もありなんじゃないですかね? どうせ俺たち世界の敵になったわけだし、傭兵あらため海賊にでも転職しましょうや?」
操舵手の男が超光速航法の設定を反映させながらミシェルに愚痴った。
「6億2千万年前の古代トゥーレ文明も、最初のひとつを放置して、結果そのツケを払う羽目になって滅亡したそうよピエール。海賊をやるにしても、海上交易をする企業や消費者がゼロでは開店休業もいいところだわ」
「うひゃあ……おっかねえ。んじゃ、俺たち世界の平和のために戦う正義のヒーローになっちまうんですか?」
「そういうのは日本製のアニメやマンガの話ね。わたしたちは害獣駆除をするだけよ。デシャルム艦長、命令を」
ミシェルからの指示を求める声に、デシャルムは一拍だけ間合いを置き、メインスクリーンに映る白銀の機体を見つめた。
「本艦はこれより超光速航法を利用して重力障壁を突破、敵艦を撃沈する!」
デシャルムの命令に戦闘指揮所内の空気が張り詰める。
古代トゥーレ文明の頃はいざ知らず、現代を生きる人類としてはこれが初の超光速航法というわけではない。一度だけ実例が存在する。しかしそれを成し遂げたロシア帝国はデータ開示を拒んでいた。
「ダブリューデバイス正常……艦を海面から浮上させます」
ミシェルに愚痴を言っていた操舵士がシミュレーションでは何度もこなした操作を再現する。
元来はフランスの外人部隊の傭兵である彼らだが、除隊後の再就職に有利だからとのミシェルの強引な説得で、使う予定がなさそうなライセンスとスキル取得に多くの時間を費やしていた。
「しかしミシェルくん。どうも慣れないものだな。この重力制御という感覚は」
退役前、VA源動基関連の技術研究には否定的だったデシャルムは、試しに乗ってみた垂直離着機のそれを思い起こす。
「初めて飛行機に乗った時と同じです。そのうち慣れます」
敵からの、そして自らが作った傷もそのままに灰色の戦闘艦がゆっくりと浮上して、ある高度でそれを維持したまま固定する。
「VA源動基、安定しています。重力制御レベル問題なし。フェッセンデン疑似粒子、事象遷移レベルで散布」
マリー・アントワネットの装甲表面が奇妙な刻印を浮かび上がらせ明滅する。
発光部分からはVA源動基の大出力によって可能となった宇宙創成の直後に近い状態の疑似素粒子たちが蛍火のように広がってゆく。
「ええ、大丈夫ですよキクカさん。ハヤトさんが来たのなら、彼の両親になる今はまだ子供のあの二人も……そして、わたしたちになる可能性があったわたしたちも、無事に生き延びる可能性があるということです。100パーセントと断言できないことだけが気がかりですが……そればかりは仕方ありません」
「変わった独り言だなミシェルくん?」
「失礼、この艦の守護天使が不安そうでしたので、励ましたところです」
「テレパシーというやつなのかな、私もその声を聞いたかもしれない。。語尾がやたらと特徴的な少女かね?」
「はい、わたしの大切な友人です」




