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五章『ソードマスター・シルエット』4

 西新宿の旧都庁近く、甲州街道沿いに建つ古びたラーメン屋の店先には、

午後のけだるげな日差しが優しく落ちていた。


「お姉ちゃん、ぼく、おなかすいたよー」


 新宿駅方面からの歩道を歩く2人連れのうち、6、7歳程度に見える半ズボンの男児がむくれていた。

 右手でつないでいる保護者の腕をぶんぶん振り回して不満を強調する。


「もうすぐだから我慢してね」


 そう応えたのは大久保ハヤトだった。

 身にまとうのはサンフランシスコに現れたと時と同じで古風なセーラー服。

 ただし、この時の彼女はその左肩に銀色のハードケースを掛けていない。

 時系列的には、ハヤトが入間ナナミと再開する半月ほど前の風景だ。


「きょうはおねえちゃんがえいが見せてくれてお昼もごちそうしてくれるはずだったのに、なんであんなことしなくちゃいけなかったの?」

「映画は見たはずよイサミ」


 むくれている男の子にハヤトはしれっと答えた。

 イサミという男児はハヤトの今生での血を分けた実弟だ。

 かつて自分が両親と伝承院から、少しずつ異能の力に習熟していくように

誘導されたのを真似て、ハヤトは弟を鍛えようとしているのだった。


「シルエットキャリバーのれんしゅうようのだったよ!」


 ハヤトの返事はイサミをなだめるどころか不満を増幅するだけだった。


「それに、ぼく、おなかへった……」


 きゅるきゅるとイサミのお腹の音が鳴っている。


「お昼はこれからよ」

「もう三時のおやつの時間だよー!」


 イサミが姉の強引な連れ回しに感情を爆発させる寸前となったところで、

歩道の先に古びた看板が見えた。


「もしかして……前に来たあのラーメン屋さんに行くの?」

「ええ、そうよ。今日はイサミがシミュレーターでたくさんがんばったから、

お姉ちゃんからのごほうび。いっぱい食べなさい」

「うん! ぼく、ごもくあんかけチャーハン食べるー♪」


 イサミは直前までの不機嫌さなど消し飛んでしまい、姉の手を引っ張るようにして走り始める。

 金竜軒と書かれた看板のその店は戦前に建てられた古い雑居ビルの一階だった。


「こんにちはー! ごもくあんかけチャーハンくださーい!」


 L字型のカウンターテーブルとキッチンだけで構成されている細長い店内に入り込むと同時にイサミが明るく元気に注文する。


「お邪魔するわねロン。わたしはごはん大盛り、ギョウザ5人前、レバニラ炒めと酢豚。あ、酢豚にはパイナップル入れてちょうだい」


 弟が笑顔になったのにつられてか、ハヤトも微笑していた。


「へいへい。いらっしゃいお嬢、イサミちゃん」


 キッチン内の簡易イスに腰掛けていた白い調理師服の老人が立ち上がる。

 とっくにランチタイムが終わって夕方までの短い休憩中だった。


「ねえねえ、おじいさん。きょうはユイちゃん、いないの?」


イサミは姉の隣の席に座って、足をぶらぶら動かしながら老店主を見る。


「もうじき帰ってくるとは思うが――お、ウワサをすればなんとやらか。お帰り」

「ただいまーおじいちゃん」


 ハヤトやイサミが入ってきた店の入り口のドアが開いて入ってきたのは、赤いランドセルを背負った女児だった。

 背格好からするとイサミと同年代だが、のんびり、おっとりという感じのイサミとは対照的に活発で気の強そうな雰囲気がある。


「ユイちゃん、ひさしぶりー」


イサミが席を飛び降りて入り口近くに駆けていく。


「ちょ、ちょっと? なんでイサミがいるのよ? また遊びに来ればって言ったけど、先に電話してよね!」


 ユイはあわただしく手櫛で髪をすくが、あまりそれに意味はない。


「こんにちは玉鈴ユイリン。また少し背が伸びたわね」

「こ、こんにちはイサミのお姉さん」


 ユイは自分の仕草を笑われたのだと誤解し、ばつが悪そうにお辞儀をした。


「そうだイサミ! あたし自転車に乗れるようになったの。見せてあげる!」

「すごーい! 見る見る!」

「おじいちゃん、あたしイサミと中央公園の方で遊んでくるから!」


 ユイはランドセルを背中から下ろしてカウンターテーブル上に置いてしまう。


「おねえちゃん、ぼくユイちゃんと遊んでくるねー!」


 二人はそれぞれの保護者に一方的に宣言すると、仲良く手をつないで金竜亭の店先から新宿中央公園の方に走り去っていった。


「イサミは少し前まで、お姉ちゃんと結婚するーって、ずっとそう言ってたのよ」


 ハヤトは少しだけ寂しげな笑みでコップの水を飲む。


「ははは、男のガキはそういうもんでしょうな。俺も70年前は……お嬢に同じ事を言ってた気がしますぜ」


 ハヤトが親しげに龍と呼ぶ老人は、彼女の前世のひとつで庇護し、裏社会での非合法活動要員として忠誠を誓った人物だった。


「いい老酒がありますよ、お嬢。りますかい?」


 手際よく料理の下準備をしながら龍は戸棚から酒瓶を取り出してカウンターに置く。だかハヤトは首を左右に振った。


「あなたや他の大勢と過ごしてきた記憶はあるわ……でも、この身体はまだほんの13歳で……わたしにはイサミのお姉ちゃんとして生きてきた記憶もある……酔っぱらって家に帰ったら父と母に叱られちゃう」


 かつてハヤトはその膨大な過去の記憶と異能に圧倒されて困惑すると共に萎縮して、自分の意志を失いかけた。

 今でこそ、折り合いを付けているが、無数の前世での自分の所行すべてが肯定できないだけに、憂鬱な気分を持て余してしまう事も多々ある。


「俺はうれしいですよ……お嬢は一度、赤ん坊になって、本当の家族を手に入れて……やっと幸せになってくれたんだなって……もっとも、その家が……あの憎たらしいサムライ野郎の家だったってのは、未だに複雑な気分ですけどな」

「曾祖父は父と母が中学に上がる少し前に亡くなったそうよ……間接的にでも、敵だったあの人の技を体得していくというのは……確かに複雑な気分ね」


 龍はハヤトの言葉を聞きながらリモコンを手にとってテレビの電源を点けた。


『はい。女優のお仕事は初めてなんですけど、きっといい映画になると思います。応援してくださいね』

 テレビに映ったのは午後のワイドショー。

 新作映画の紹介コーナーで出演者のひとり、入間ナナミがインタビューを受けていた。


「前売り券……買っておかなくちゃ」

「お嬢は映画、嫌いじゃなかったんですか?」


 炒め物を作りながら龍が意外そうな顔をしていた。

 かつて香港を拠点として活動していた70年前、黄玉鈴という名で過ごしていた当時の彼女は作り物の絵空事として映画やテレビを忌避していたからだ。


「今のわたしの……初めての友達なのよ。応援してあげたいの」

「へえ、そいつは妙な縁もあるもんですな。あの子の事務所の社長さん、たまに若い子たち連れて、ここで食事するんですぜ。なんなら、今度――」

「やめてっ!」


 ハヤトの鋭い声に龍は中華鍋を振るう手元が狂い、油が額に跳ねた。


「もう会えない。絶対に会ってはダメ……迷惑かけちゃうから……きっと」

「お嬢はお嬢の生まれ変わりでも……今は今で、また別の人生を送ってる……そういう事ですな。出過ぎた真似をしようとして、すいませんでした。へい、どうぞ」


 カウンターテーブル上にパイナップル入り酢豚の皿が置かれた。


「……いただくわ」


 ハヤトは酢豚の皿を下ろすと、両手を合わせ、いただきますと言ってから箸を手に取り、食事を始めた。


「おいしい……龍の料理はいちばんね。また食べられるなんて幸せよ」


 涙ぐんでいるハヤトに気付かないふりをして龍はギョウザを焼く支度に移った。


「赤坂で店をやってる娘婿の方が腕は上でさあ」

「そうではないの……なつかしい味は誰にも真似できないわ……あの頃も今も……わたしは……他人に迷惑ばかりかけて……情けない……」

「そんなしょげた顔、イサミちゃんに見せちゃダメですぜ」

「ええ、そうね……まさか龍にそんな事を言われるなんて……不思議」

「俺も不思議です……まさかお嬢にそんな説教めいたセリフを言えるようになって……こんなジジイになってて……お嬢はちびっこい小娘になってて……生きてて良かった」


 龍の述懐に恥ずかしそうにうつむきながらハヤトはパイナップル入り酢豚に舌鼓を打ち、もつれていた心を解きほぐそうとする。

 テレビでは入間ナナミが他の出演俳優たちと談笑していた。

 ハヤトは自分もあんな風にナナミと親しく言葉を交わしたいという気持ちを封じ込めながら、黙々と食事を続けた。

 年若い少女が完食するのは困難な注文量ではあったが、ハヤトはあわてることなく、ひとつひとつの料理を堪能しながら見事に平らげてしまう。


「いけない……おいしくてイサミの分まで食べてしまったわ。追加でもうひとつ同じものを」


 すべて食べ終えて、満足そうに眠たげな顔になったハヤトは、申し訳なさそうに五目あんかけチャーハンの器をカウンター上に龍に手渡す。


「孫と二人で帰ってきたら、作りたてをごちそうしますからご心配なく。しかし昔は種類ばっかり多くて量は少なめだったお嬢が、こんな大食らいになっちまうなんて……」

「おかげで、いくらアルバイトしてもお小遣いが足りなくて大変なのよ」


 どうしてこうも極端に大食らいなのかという話をハヤトが切り出そうとしたところで新たな来客が金竜軒のドアを開けて入ってきた。


「――すまない玖堂。直接、姉のきみに確かめておきたい事がある」


 そう言いながら金竜軒の入り口ドアを開け、ひとりの男が入ってきた。

 中肉中背で天然パーマの男は四十歳過ぎといった風に見える。

 アメリカ海洋連合の軍服姿で、随員らしき若い兵士二人も後ろに連れていた。


「キド大尉?」


 ハヤトは口元に残るごはん粒を舌でぺろりと片付けながら、その男を見た。

 玖堂タマモとしてシルエットキャリバー操縦の教授を受け、弟イサミにも同様の手ほどきを依頼しているベテラン軍人の登場は彼女にとって想定外のことだった。

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