序章『たそがれどきの約束』
世界が空と同じで広く果てがないと思っていたその頃――ナナミには友達がいた。
そこは戦争の前からずっとある、テレビや映画で見た、時代劇のお城みたいな和風のお屋敷の前。
「ど、どろぼう……さん?」
大きな柿の木から落ちた、だいだい色の実を拾った直後のナナミは、彼女から最初にそう呼びかけられたと記憶している。
「あたしナナミ!」
このうちの子だ、なんとかごまかさなくちゃ。
そう思いとっさに名乗り柿どろぼうの疑いを、うやむやにしようと考えた。
「わ、わたし……」
神社の巫女さんをオモチャの人形サイズに落とし込んだような白と赤の和装の女の子は、少し言いよどんで名乗りをためらっていた。
「ともだちになろうよ! はいこれプレゼントね!」
「か、カキどろぼう……じゃないの?」
ひょい、と投げられた柿を受け取ってしまった女の子はどうしていいか迷っていた。
「あたし、いるまナナミっていうの。かきどろぼうじゃなくて、ひのようちえんさくらぐみ!」
ナナミはもう一度、今度は両親も祖父母も、幼稚園の先生も、間違いなくほめてくれるはずの正しい名乗りで意気揚々と胸を反らした。
「わ、わたし……た、タマ――」
圧倒されてその子も名乗り返したが、おどおどした態度にぴったりの語尾が消え入るようなささやきだった。
名字はおぼえていない。
ずっと後になってから祖父が武家屋敷めいたその家は伝承院がどうのこうのと言っていたから、伝承院だったのかもしれない。
そうだったとしても祖父はもう死んでしまったし、武家屋敷は取り壊されたのかなんなのか、無くなってしまったから確認は無理だ。
名前もタマキだったかタマヨだったか、はっきりしない。
それでもその瞬間から、ちっちゃくてかわいい人形みたいなタマちゃんはタマちゃんになって、ナナミのいちばんの友達になった。
「タマちゃんはようちえんにいかないの?」
「わたしもいきたいんだけど、おとうさんもおかあさんも、でんしょういんさまもね、もっとおとなになるまではだめなんだって」
「ふ~ん……よくわかんないけどタマちゃんちはたいへんなんだね」
幼稚園から帰るとナナミは武家屋敷の白い壁と門扉の前に急ぐ。
タマちゃんはいつもオモチャみたいな竹ぼうきで屋敷前をお掃除していた。
「ハーメルンしょうこうぐんっていう、こわいびょうきにならないように、わたしここでいいこにしてないとダメなんだって」
両親に週に一度しか会えない事情をタマちゃんはそう説明してくれた。
今ではナナミもウソだとわかる。
一度でも徴候が現れてしまえば、その子供はもう、普通のままではいられなくなるのだと。
「よーし、いいこのタマちゃんに、おやつ、ごちそうしちゃう♪」
戦災未亡人のおばちゃんがやっている定食屋兼駄菓子屋。
そこでスナック菓子やラムネを楽しむのがまず最初。
その後は稲刈り後の田んぼでバッタやコオロギをつかまえたり、宅地造成中の工事現場に秘密基地を作ったり、男の子たちのヒーローごっこに乱入しては逃げ回る。
そんな日々が当時のナナミとタマちゃんの遊びの定番だった。
「タマちゃ~ん♪」
その日の午後もナナミは武家屋敷の大きな壁の前に全速力で急いだ。
ところが仲良くなってからは口笛を吹いたり鼻歌でごきげんに待っているタマちゃんの表情が暗い。
「ナナミちゃんごめん。わたし……わたし……あそびにいけないの」
「え~? なんで~?」
遊べないと断られたのが初めてだったこともありナナミは露骨にすねた。
お父さんとお母さんが来てくれるという週に一度の日でさえも、タマちゃんは早めに帰るだけで、決してナナミの誘いを拒まなかったからだ。
「ほんとにごめんなさい……でも、きょうはだいじなおはなしがあるから、ナナミちゃんにごめんなさいしてきなさいって」
それが発症を宣告する残酷な伝達のためか、あるいは家族や肉親と残されたわずかな時間を過ごすためだったかナナミは知らない。
想像さえできていなかった。
「あたしそんなのしらない! せっかくタマちゃんのために、おとしだま、まえがりもしてミラクルへんしんセット、かってもらったのに!」
それはウソで、ナナミは年金が支給されたばかりの祖父にねだって、二人分の女の子向けオモチャを買ってもらっただけだ。
「え! おとしだまのまえがりなんて……できるんだ?」
「そうだよ。これであたしクリスマスもプレゼントないし、おしょうがつのおぞうにのおモチだって、へっちゃったのに、ひどいよ!」
居酒屋に寄った理由を捏造する父の才能が遺伝したようで、ナナミはここぞとばかりにタマちゃんを責めた。
「あそんでくれないなら、あたしタマちゃんとぜっこうしちゃう」
それは当時、幼稚園で流行り始めていた特別な言葉だった。
「ぜっこうって……どういういみ?」
「ともだちじゃなくなってね、もうあそばなくなって、あいさつもしないし、すれちがっても、しらんぷりするの。それがしぬまで、ずっとずっと、そういうことになるっていみだよ」
「いや! わたしそんなのいや!」
乱暴な男の子たちに、きれいな黒い髪をぐしゃぐしゃにされたときでも、なんとか泣くのをこらえていたタマちゃんは、たちまち大泣きしてナナミを後悔させていた。
「あそんでくれるなら、ぜっこうは、なし、なんだよ?」
素直に絶交なんてのはやっぱりなし、と言えば良かったのにタマちゃんのお姉さん気取りでいたナナミは遠回しな妥協案しか出せなかった。
「わたし、おはなししてくるから……すこしでいいからあそべるように……おはなしするから……ナナミちゃん、ここでまっててくれる?」
ぐずりながらタマちゃんは必死にそう伝えた。
ナナミはタマちゃんが来るまでは絶対に待ってるから、と偉そうに返事をして約束が結ばれた。
けれど――
日が暮れてもタマちゃんは武家屋敷の外には戻ってこなかった。
「タ~マ~ちゃ~ん~あ~そびましょ~!」
何度も何度も、おゆうぎの時間で歌うより大声で叫んだが返事はなかった。
「タマちゃんのウソつきっ! もうぜっこうなんだからあっ!」
そう怒鳴ってからナナミは武家屋敷の白壁に背を向けた。
直後、目の前に不気味な人影があることに面食らう。
「漏れ伝っていた擬力の出所は……やはりここか」
比喩ではなく影そのものだった何かがそうつぶやく。
「お、おばけ?」
幼稚園では、かけっこでもおゆうぎもいちばんだという自信を振り絞り、ナナミは問いかけた。
「化け物だとも……あの女と同様にな。ちょうどいい、やつの宿業を少しばかり上乗せしてやるとしよう」
影から何かが――はっきりとした大人の男らしき姿が抜け出てきたのとナナミが全身に鈍い痛みを感じたのは、ほぼ同時だった。
悲鳴すらも上げることができなかったナナミは、その日自分がどうやって帰宅したのか、それから半月の間、身体のあちこちに紫色の染みのような不気味な痕跡が残っていた理由を記憶していない。
「タマちゃんがわるいんだ……タマちゃんがウソつきだからわるいんだよ」
しばらくの間、ナナミは何か悪いこと、嫌なことがあると、そう言ってタマちゃんを諸悪の根源扱いで罵倒し続けたが、それはもう直接本人に会えなくなった悲しみの稚拙な表現でしかなかった。