教室
目が覚めるといつも通り制服を着て、ネクタイをテキトウに締めた。そして殆ど毎日変わりやしない母の朝食を食べて、学校へ向かった。いつも乗っている電車に乗って、春芳に会う。
ここまで、それほど変わらない日常。違うところといえば、ミサキと登校していないところぐらいである。
春芳が昨日のテレビの話をしてぼくがそれをなんとなく聞いていたらいつもの駅に着いた。ぼく等は黙って下車した。
行きかう人々はミサキの死なんて知らない。気にしているのはぼく等だけ、というのが何だか悲しく思えた。自分たちがとても損をしている人間にも思える。
学校でも蝉が騒々しい。春芳が「暑いなあ」と言ったので、
「そうだな」
と返答した。
教室に入ると流石に空気が違った。何より浮かなかった。どんよりとした空気でどこからともなくすすりなく声がする。余りにも葬儀の日と変わっていなくて、絶望したぼくは急に気分が悪くなって、膝の力ががくっと抜けた。背中に冷たくアルミ製の扉が触れる。丁度背もたれがあってほっとした。
「良太りょうた、大丈夫か? 別に無理しなくても」
春芳がぼくを心配してくれる。彼は優しい。しかしそんなにも甘えてばかりじゃ駄目だ。只でさえ『駄目人間』なんだからな。そういえば、彼女にもよく注意されたっけ。「学校には毎日来い」と。
「大丈夫だと思う」
「毎日来い」と言う割にはミサキは授業をさぼったり、欠席していたりしていた。
理由を訊くと、
「めんどくさい」
だそうだ。
そんなのぼくだってめんどくさい。ミサキに注意されなかったり、ミサキと付き合っていなかったら、不登校になっていたかもしれない。改めて感謝だ。
こんな事をふと思い出してこっそり涙腺が緩む。
彼らが落ち込むのも彼女たちが泣くのも分かる。それが重々分かるから、ぼくは泣かないし感情を露にしないのである。
蝉が窓の近くに止まったようだ。「ミーンミーンミンミンミン」と耳に届き、蝉だけが叫んでいる教室である。夏を感じさせるなあと思った。こんな日だって変わらず君が嫌いな夏は続いている。
春芳とドアの前で突っ立っていたぼくに隣にいる彼はは何も言わなかった。
チャイムが鳴り、悲しげな空気が動き僅かだが滞っていたものが動いたことによって、ぼくはその場から少しだけ動けるようになった。
春芳に優しく触れるか触れないかくらいの力でぽんと肩を押され、椅子に座った。
始業までの十分間は椅子に座って自主勉強。その時間ぼくはいつも睡眠時間とする。
教室を見渡せば想像はしていたがやはり、クラスメイトの何人かはは登校していない。そこにあたる人はどちらかと言えば女子が多いみたいで空席が目立った。
眠れないぼくは頬杖をついて考え事をしようと決めた。考え事の内容とは、やっぱり彼女のことだ。隣の席をちらっと見たがそこには誰も座っていない。当たり前ではある。なぜなら、先日死んだ彼女の机なのだから。あれこれとビジョンが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。それを繰り返しているうちに、あっというまに五分経った。
誰かが教室に入ってくる気配がした。教室を上靴で鳴らす軽い音と、鞄と服が擦れる僅かな空気の振動が感じられた。その足音がどんどんぼくの背中に近づいて来るのを聞いて、きっとその音の主は遅れてきたのだろうと思った。そいつは隣の机にどかっと鞄を置いて、又もやどかっと豪快に座った。
背中からの冷や汗が止まらない上に両足は小刻みに震え、唇も静止しやしない。現在、自分の意思で旨く動かせるのは眼球くらいだ。
隣の席はミサキのものである。しかしそこに誰が座るのだ。昨日座るべき主の葬式は終わった。
幸い都合良く動作する、眼めをぎょろぎょろとさせた。
左斜め前の席。全ての席の人は、ぼくの隣に誰かが座ったのに気がついていないようだ。眼球だけを頑張って左の席に向けようとするのだが、ぎりぎりのところで見えない。見えるのはそいつが机に突っ伏しているようだってことだけ。スカートを穿いているようなので女子と言うことだ。
あいつは死んだんだ。
教室の前方にあるアナログ時計はもう直ぐ午前八時四十分を指すということろだった。朝の自習時間の終わりを間も無く告げようというところだった。
自習時間が終われば、朝のHRホームルームだ。
ぼくは机の上に乗っている自分の両方の掌を見つめた。まだふるふると震えているて手が動いているのか、眼が動いているのかよく分からない。
試しに指を動かしてみたが、動かないことは無いが旨くすっと作動しない。これまたゆらりくらりと感覚が余り無くのらりくらりとする。
今度は呼吸がし辛い事に気がつく。肺の中に収まる酸素の量が極端に減ったように感じていつもは気にすることが無い肋骨の上げ下げが重々分かった。肺胞に送られる酸素が減っているのじゃないかと思うに、呼吸回数は少なくなっているような気がする。でも拍動回数は多くなる。尋常ではないと思った。
自習時間の終わりを告げるチャイム。音を合図に担任が入室して教卓に黒のバインダーを置いた音で、
「起立!」
という声が掛かった。
耳障りの悪い音、机椅子が床に擦れあって雑音を奏でた物が然程広くも無い一室に充満する。
ぼくは左が気になって今にも倒れ込みそうだった。両膝がまたがくがくとしてきた。
椅子を後ろにひいて立ち上がっても、怖くてミサキの席なんて見れない。
隣のそいつは、突っ伏したままで立ち上がろうとしない。学級委員の声なんて微塵も耳に入らないみたいに。
「礼!」
礼をきちんとしたかとか着席できたかとかそんなことは覚えていない。立つ事だけで精一杯な自分が少し情けなかった。涙が出たとかそんなんじゃないけど、しゅんとしてしまったのは確かな事実だった。
HRの後サボる為に保健室に行った。「頭が痛い」等と言っておけば休ませてくれるのだ。ぼくは保健の先生に嘘をついた。