マーガリンの成分表1
とある日、マーガリンはまたエラーを吐き出していた。彼女はとにかく矛盾に弱く、またそれを解く力が皆無に等しい。仕事仲間たちが彼女の身を案じる。
「どうしたの、リンちゃん。店長に何かされたの」
「俺が悪いの前提かよ」
「リンちゃんに悪戯するの店長ぐらいですから」
「違います、いちごちゃん。ちょっとお客様に言われたことが気になりまして」
「何、セクハラ!? セクハラする男なんて最低だから叩き出して良いんだからね! てか、見た目幼女のリンちゃんにセクハラ!? 通報よ、110!!!」
苦瀬が勝手に盛り上がる。話がこじれる前に天井は彼女に別の仕事を与える。
「苦瀬。しばらく皿洗いしてろ」
「えー、それは店長の仕事でしょ。同じ部署のケアは同じ部署の人が」
天井は軽いチョップを食らわせる。
「いいから、早く行け。店長命令だ」
「今のセクハラで訴えますからね」
「セクハラでも暴力でも真っ先に最高裁に訴えてもいいから早く行け。それに俺が捕まって困るのはお前だろう」
「確かにバイト先がなくなるのは私としても困りますからね、いいでしょう、やってきてあげます」
「なんでふんぞり返ってんだ……」
苦瀬がキッチンに入り、中から水の流れる音が聞こえる。
「さて、マーガリン。一体何があったんだ」
「お客様に言われたんです。そのお客様は常連さんで、ワタシのことも痛く気に入ってるようでして」
「ヘッドハンティングか?」
「いえ違います。そのお客様に頼み事、というか、ご希望をおっしゃってまして」
「ふむ。希望ってなんだったんだ」
「一ヶ月前に廃止したエビフライサンドイッチを復活して欲しいとおっしゃってました」
「あー……あれか……」
一ヶ月前まではエビフライサンドイッチはモーニング限定で出していた。しっぽを取り除いたエビフライを三分割し、千切りしたキャベツと甘口ソースとタルタルソースと一緒にこんがりとトーストしたパンで挟んだ一品だ。味の評判は良かったが、注文数が少なく、調理に時間がかかる上、原価率が高いためにあえなく廃止することになった。
「マスター、どうにか復活できませんか」
「まだレシピは残ってるから作れなくはないが、もう材料は仕入れてないし、それに一度決めたことを覆すのはちょっとな」
復活させることは簡単だ。それに店側として提供側としてそういう声が聞けたのはこの上ない幸福だ。しかし仮とはいえ、現状の実質最高責任者として、売上に繋がらない努力を認める訳にはいかない。
「……駄目だ。復活は出来ない」
「そんな……彼に必ず復活させるって約束してしまいました」
「できない約束をするもんじゃない」
「でもマスター言ってました。お客様第一だって」
痛いところを突かれ、天井は呻く。確かにそのスローガンは実現させるべき目標であり、理想でもあった。しかし同時に到底叶わない夢でもあると思う。
「いいか、マーガリン。現実は厳しい。現実は、本当は、お客様は店があってのお客様なんだ。店がなければお客様はサンドイッチどころかコーヒー一杯も飲めない。だから店のほうが偉いんだ」
「そんなマスター! 自分が言ったことを忘れてしまったんですか!」
なおも食い下がるマーガリンを天井は一蹴する。
「マーガリン、部下であるお前がワガママを言うんじゃない。俺は間違ったことを言っているか?」
「た、確かにそれはわかりますが……」
マーガリンだってこの店の現状を知らないわけではない。自分はこの店を守るために働いている。店長の考えがこの店の存続に繋がる最善策だと同意できたが、自分の中のどこにあるかわからないプログラムがそれを必死で否定もしていた。
「いいから仕事に戻れ。今日は早く上がっていいから」
はい、と返事をすれば認めてしまうことになる。しかしマーガリンははいとしか返事をする選択肢しか残っていなかった。
口を動かす、というよりもスピーカーに電流が走り、音声になる、その直前だった。
「こらー! リンちゃんをいじめるなー!」
苦瀬が濡れた布巾で天井の頭を後ろから叩く。布巾の水しぶきが天井の鼻の穴に入る。
「エビフライサンドイッチを作るのめんどくさいからって復活諦めてるんじゃないわよ!」
「こらぁ、苦瀬! 皿洗いしてたんじゃないのかよ!」
キッチンから水の音は未だに聞こえる。そういえばさっきから皿と皿が重なる音は聞こえていなかった。苦瀬はずっと皿洗いをせず、物陰に隠れて二人の会話を盗み聞きしていた。
「俺だって復活させたい! だけどな、無駄な努力をするわけにはいかないだろ!」
「無駄な努力? そもそも努力してないくせに無駄って言ってるんじゃないわよ!」
二度、痛いところを突かれて、天井は呻く。
苦瀬は勢いをつけながら、申し立てる。
「ちょっとは工夫をしたらどうなのよ! 期間限定で復活とか! やってみなきゃわからないでしょう!」
「失敗したらどうする! 俺を首にするか!」
「どうもしないわよ! ただ一緒に残念がるくらいよ!」
「はあ!? 一緒に残念がる!? はああ!!?」
天井は訳がわからなくなる。苦瀬の現実味の感じられない発言に、少しだけ泣きたくなり、急に頭が冷めた。椅子に座り、乱暴に足を組む。そして眉間を揉みながら、苦瀬を睨む。侮蔑してるようにも取れるその瞳は大の大人も怯えさせるほど凶悪だったが、苦瀬は一切怯まなかった。その省みない態度に自分以上の頑固者だとわかると、諦めたようにため息を漏らす。
「……じゃあ俺はどうしろってんだ。復活させて、この店を潰せば良いのか」
「そうは言ってないでしょう。さっきも言ったけど、期間限定で復活もダメなんですか? 調理が面倒なら私とリンちゃんが一人でも出来るように覚えますから」
「包丁もまともに握ったことのない奴にできるのか?」
「やってみないとわからない」
苦瀬は自信がないのに自慢げに腕を組む。呆れを通り越し、尊敬の念すら湧いてくる。
「…………わかった、来月だけ土日限定で復活させよう」
「え、え、いいのですか」
誰よりも復活を願っていたはずなのに、叶うことになると少し悪い気がするマーガリン。
「いいの、いいの。店長が決めたことだから」
苦瀬の無責任な物言いに、天井はさらに凶悪に睨みつける。
「苦〜〜〜〜瀬〜〜〜〜〜〜〜???」
「いえ、私達三人が決めたことです! みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために!」
すぐさま言い直す苦瀬のお調子者具合にまたため息を漏らす。尊敬を通り越して、呆れ果てる。
古時計が鳴る。閉店時間になった。天井は立ち上がり、二人に指示をする。
「今日は早く上がれよ」
「何言ってるんですか。この後、ちゃんと掃除と皿洗いもするんですけど」
「明日から特別シフトだ。二人には約束通り調理を学んでもらうぞ。期間限定とはいえ、お客様に粗末な物を提供するわけには行かないからな。休日は開店時間の一時間前に来てもらう」
「はい! 頑張ります!」
マーガリンはやる気満々だったが、
「……あ、あれ、店長、ちょっと張り切り過ぎじゃないですか」
苦瀬だけは唯一怯んでいた。午前七時に開店するのでその一時間前になると六時出社になり、さらにその一時間前には起きて支度をしないと間に合わない。朝が苦手な彼女にとって五時起きは非常に辛い。
「無理しなくても良いんだぞ? 無茶は禁物だからな」
天井はいかにもな挑発をする。そのいかにもな挑発に乗ってしまう、何故か、マーガリンが。
「何を言ってるんですか、マスター! いちごちゃんは早起きくらい、余裕です!」
「ちょっとリンちゃん、待って」
「何ですか、いちごちゃん! 今ワタシはいちごちゃんのために言ってるんですよ! さきほどいちごちゃんはワタシを助けてくれました! 今度はワタシが助ける番です!」
そんな熱心に無垢に純粋に自分の味方をしてくれるヒューマノイドの友達に、いらないことするなとは言えず、苦瀬は静かに見守ることにしようとしたが、
「マスター! 開店一時間前では不十分です! 二時間前にしてください!」
「ちょっとおおおマーガリンちゃあああああああん!!!?」
無茶で出鱈目な突飛な要求に寡黙でいられなくなる。
「なぜだ、マーガリン……お前は何故そこまで出来る……」
天井は笑うの必死で堪えながら、展開を見守る。
「お客様のためです。お客様第一だからです」
マーガリンは拳を固く握りしめる。苦瀬はその拳を手に取って、撫でる。
「り……リンちゃん……さすがに四時起きはちょっと難しいかも……」
少しでも不利な状況を改善させようと必死になる苦瀬。彼女の手を取り、両手で握りしめて、マーガリンは言う。
「やってみないとわかりません」
先ほどの決めセリフを真似されて、揚げ足を取られ、苦瀬は諦めた。
「……わかったよ、リンちゃん。一緒に頑張ろうね……」
「はい、ありがとうございます! ワタシにも涙機能があれば、いちごちゃんのように泣くほど喜んでいます!」
こうして強化週間が始まる。この間、朝の弱い苦瀬は一度も遅刻せずに出社した。