思考を停止して
人型ロボットを拾ってから一週間が経った。人型ロボットは自分をヒューマノイドと称していたが、端末名もとい個人名はなかった。二人の協議の結果、マーガリンという名前を貰い、そして働くことになった。働かせてみるとやはりというべきか、さすがというべきか、仕事の覚えは早かった。
「おい、マーガリン。10番のエスプレッソできたぞ。持っていってくれ」
「はい、マスター」
「マーガリン、角砂糖の補充は終わってるか?」
「はい、すでに全ての席に補充は終わっています」
一度学んだことは絶対に忘れないのだから店長としては大助かりだったが、一人だけ不満を抱えている者がいた。
「おい、苦瀬。床の掃除は終わったか」
「……ちょっと良いでしょうか、店長」
「駄目だ」
一蹴するもなお食い下がる。
「なんで先輩であるはずの私が下っ端みたいな仕事をしなくちゃいけないのよ!」
「次はトイレだ、忘れんな」
「あ、マスター。それは二十分前にワタシがやりました」
「むきゃー!」
スカウトしたはずの苦瀬が新人に下克上されていた。
「苦瀬さん、落ち着いてください。身体が温まりすぎです。アイスコーヒーを飲んでください」
「あぁ、ありがとう」
ストローでちゅうちゅう吸うと、マーガリンが手のひらを見せる。
「500円になります」
「金取るんかい! あんた、商売上手ね!」
「ちょっと待て、マーガリン」
さすがにお金を取るのを見兼ねて天井が助けるかと思いきや、
「社員割引で480円だ」
「社員割引なのに全然安くならないわね!」
「まあコーヒー1杯くらいなら俺の奢りにしてやる。気にせずに飲め」
「……もー、こんなはずじゃなかったのに……」
ストローを甘噛みしながらコーヒーを飲む。火照った身体が冷めていく。
「落ち着きましたか、苦瀬さん」
「あぁ、おかげさまでありがとう、マーガリン」
「ところで苦瀬さん、一つお尋ねしたいことが有ります」
「何? 先輩に何でも聞いてね」
先輩という言葉にややアクセントを加える。
「どうして不満をぶつけるのですか、相手はマスターなのに」
「不満があればぶつけるのは当然でしょう?」
「不満があったらぶつけてもいいんですか?」
「ええ、そうよ?」
「そうですか、でしたらワタシにも不満があります」
天井と苦瀬は身構える。二人共、この後出てくる言葉が給料が欲しいと予想していた。マーガリンは機械とは思えないほど感情が豊かだ。性格は小学生の見た目のように年頃の少女だ。もしかしたら給料を求め始めるかもしれない。
しかし二人の予想は大ハズレになる。
「マーガリン、という名前は変えていただけないでしょうか」
「あー……そっちか。今更な不満ね。でも確かね、そこのとこどうなのよ、店長」
「……客に定着してしまってるし、受けが良いし……変えるのはな」
「そう、ですか……それなら諦めます」
しょんぼりとするマーガリンに苦瀬は助け船を出す。
「ダメよ、そこで諦めちゃ! 女の子なんだからそんな脂っこい名前は嫌でしょ!」
「お前だってマーガリンに賛成したくせに今更何を言うんだ」
「店長は黙ってて!」
天井はヤレヤレと肩を竦める。
「名前は変えられない……そうだ、あだ名をつけるなんてどう」
「あだ名……ですか」
「あだ名、わかる?」
「……検索完了しました。親しい間柄で呼び合う愛称ですね」
苦瀬は腕を組んで目をつむり、考え事に集中する。マーガリンも彼女を見様見真似する。
「そうね……マーガリンだから……短くして、リンちゃんなんてどう? 全然女の子っぽいでしょ」
「ブラボー!」
「お、おう、なぜフランス語……気に入ってくれた?」
「はい、それで! リンでお願いします!」
「リンちゃん」
「ふおおおお! ひゃあああああ!」
両手を上げてマーガリンは喜ぶ。苦瀬は素直に喜ぶマーガリンを見て、彼女に対し、嫉妬をしていた自分が恥ずかしくなる。
当初は表情に起伏がない子だと思っていたがそんなことは一切なく、表情豊かな性格をしている。
マーガリンは苦瀬の両手を掴み、縦にぶんぶんと振る。
「ありがとうございます、苦瀬さん! 初めて頼れる先輩だと思いました」
「うん、リンちゃん。悪気はないと思うけど一言余計よ」
「苦瀬さんにも愛称付けてもいいですか」
「え、私はいいよ」
遠慮するもマーガリンの暴走は止まらない。聞く耳持たず、苦瀬の真似をする。
「苦瀬さんを短くして、『く』なんてどうでしょう?」
「そ、それはちょっと……短すぎるかな……」
「それでは苦瀬さんを短くして、『くせ』なんでどうでしょう?」
「それは愛称じゃなくて呼び捨てだから」
「……苦瀬さん、もしかしてワガママですか」
「リンちゃんがマイペースなだけよ? 私のことは下の名前で呼んで。改めて自己紹介するけど私の名前は『苦瀬いちご』よ」
「……いちご、さん?」
「そうそう、それでお願いね」
もう一度ストローを咥え、コーヒーを飲み干す勢いで吸う。かき氷を一気に食べた時と同じ頭痛がやってくる。
「……いちごさん、一つ疑問があります」
「はい、何でしょう、リンちゃん」
「どうしてマスターといちごさんは親しい間柄なのに愛称で呼び合わないのですか」
頭痛がさらに痛くなる。どうにも返答に困る質問をされる。
「まあそれは……店長が悪いのよ」
「不満があるならぶつけてみたらどうでしょう」
「……人間には不満をぶつけていいときとぶつけてわるいときがあるのよ」
「……人間難しい」
きっとマーガリンにも血の通った頭脳があれば、苦瀬と同じように痛みがあるのだろう。マーガリンの頭脳は痛みを伴わずに何度もエラーを出した後、考えるのを止めた。