夢が覚めないうちに
マーガリンは竹箒で店の前をせっせと掃除をしていた。毎日の日課にしているので絶対に汚くなることはないが、それでも誰に言われたわけでもなく自己判断で真面目に行っている。
掃除が終わると端にコーヒーのシミの付いた黒いエプロンを叩いて、ホコリを払う。折角マスターが手作りしていただいたのだから大切にしなくてはいけない。物を大事にすること、これも自己判断で決めていた。
その後、駅の方角をぼうっと眺める。後ろに子供を乗せて電動自転車をせっせと漕ぐ母親に目を引かれる。そのせいで近づいていたお得意様への挨拶が少し遅れる。
「今日もご苦労なこったね」
「あ、おばさま。こんにちは」
先日の騒動以来、安酸の次にお得意様になっている老婆に挨拶を先を越される。
彼女との挨拶も日常になっている。多少無愛想なことがあるが、それでも一週間に一度は必ず顔を出す可愛いところもある。
その彼女の背中に誰かが隠れている。背丈は老婆の腰とほぼ同じ。
眉間にシワを寄せていることが多い老婆が今日は何故かご機嫌に微笑んでいる。
「今日は紹介したい子がいてね、孫なんじゃ」
「結婚されてたんですか」
「あんた、冗談言うようになったけどセンス考え直したほうが良いよ」
「恐縮です」
「まあ、いいさ。それでうちの孫はね、今年で小学一年生になったのよ。ほら、挨拶しなさい」
老婆が横にずれて前に出そうとするも孫は頑なに後ろから離れようとしない。
「仲が良いですね」
「そうだろう。今日もこの子の好物のために店に来てやったのさ」
「コーヒーが好物とは変わったご趣味ですね」
マーガリンは老婆の後ろに隠れる孫を見ようとこっそりと死角から移動する。孫の方は老婆と動きを合わせることに夢中でマーガリンの接近に気付かなかった。
マーガリンは挨拶をかけようとするも、
「こんにち……」
途中で息が止まる。呼吸は実装されていない機能だったが、彼女の言葉は途切れた。
孫と目が合う。彼とは初対面ではない。
「ゆうた……さま……」
雄太はマーガリンに飛びついて腕に絡みつく。
「そんじゃ、年寄りは熱いから中に入らせてもらうよ」
太陽は燦々と輝いているが気温は高くない。けれども老婆はそそくさと中に入ってしまった。
「……雄太様……」
「……」
「……本当にお好きなんですね……」
雄太の耳が赤くなる。
「……」
「……エビフライサンドイッチが」
雄太は無言で首を振る。
マーガリンと雄太はしばらく腕を絡ませたまま、店の前に居た。
このままだと天井は激怒するだろう。けれどそれでもいいと思えた。
仕事では味わえない、ヒューマノイドの身には行き過ぎた幸せにしばらく酔いしれていた。