雨はやんでも心はやまず
苦瀬は窮地を脱した。土壇場の閃きで苦瀬の弱点である脇をくすぐり何とか掻い潜った。そして幼気な女子に罪悪感を感じながらも行方をくらましたマーガリンを探しにアーケード街を疾走していた。
スタートは遅れに遅れたが心配はない。
一見、万能に見えるマーガリンだが彼女にも弱点は有る。それは走れないことだった。彼女の関節は柔軟に出来ていない。そもそも走行を想定した設計をしていない。製作者はどんな意図で作ったのか、マーガリンのことを知るたびに謎が謎を呼ぶが今はそんなことは関係ない。どんな訳が分からず、プロフィールに闇が潜んでようと、彼女は部下であり、喫茶店で働く仲間だ。
そう遠くへは行っていないと思ったが、さらにその予想よりも早くマーガリンは見つかった。
彼女はポイ捨てされたであろう空き缶や踏まれて潰れた煙草が散らばったごみ捨て場に体育座りしていた。
「何やってんだ、マーガリン……」
「……ワタシは要らない子なので、ここでゴミ回収車が来るのを待っています」
燃えないゴミは一週間後だと毒のある言葉が浮かぶが、言わないでおいた。言えばここを離れて自らゴミ焼却場に出向きかねない。
「さっきはすまなかった。だからここにいないで、な?」
蒸し蒸しとした空気の中、彼女は汗一つかかず、不快感を見せずにその場に動かないでいた。
「そうか……なら……」
天井もマーガリンの隣に体育座りで座る。地面にガムのようなゴミを尻で下敷きにするが気にしない。
「マス……何やってるんですか」
「俺も、ここでゴミ収集車を待つ。俺はゴミクズだからな」
「……」
何も返せず、マーガリンは俯く。
霧状の雨が降り注ぐ。目には見えないけれどひたひたと衣服を侵食していく。
二人は無言だった。天井は癖でシャツとズボンのポケットを叩いて煙草を探すが、喫茶店で働くようになってから禁煙を始めたことを思い出す。唇をむごむごと甘噛みで揉む。口が寂しくなっていた。
マーガリンから帰るという言葉を聞けると思ったが考えが甘すぎた。やはり自分から話を切り出すべきだが、帰ってくるよう説得するという立場でもなく、どうしたらいいかわからなかった。
何となくセンチメンタルな気持ちになったので、何となく身の上話を始める。
「……昔な、俺は就活難民でな。百社受けて百社ダメだったことがあったんだ」
これで煙草があったらな、と思いながらも話を続ける。
「新卒というブランドを手放したくなくってな、母さんもそれは同じで、とりあえず何が何でもどこでもいいから就職はしろってなってたんだ。そこで、ネットでも噂の真っ黒の会社に就職試験を受けたんだ。そしたら今まで落ちてたのが嘘のように一発で合格。メールが届いて俺のことを賞賛の嵐。褒められたのが嬉しくて、噂はデタラメで、本当は良い会社なんじゃないかなと思って入社する春が来た。通勤中、親から就職祝いで買ってもらったスーツ着てルンルン気分だったのを覚えている」
マーガリンが興味を持ったらしく、俯くのをやめて、天井のほうを見る。目が合ったがすぐにまた俯いてしまった。
「……んまあ、蓋を開けてみたらやっぱ情報通りに真っ黒。求人票に書いてあったことは全部デタラメ。残業0なんて書いてあったけど実際は残業代が0だった。働く意義なんて高尚な悩みも持てず、ただ上から降り掛かってくる業務を怒鳴られながら殴られながらこなすのが精一杯だった。自尊心や意欲なんて仕事にはお荷物だ。辞めたいと思ったけど、母さんがそれを止めるんだ。最悪五年は働けって。二ヶ月で15キロ痩せた俺を見ても母さんはそう言って聞いてくれなかった。親父に相談しても何とかなるとしか言ってくれない。買ってもらったスーツがアイアンメイデンみたいに着ると苦痛と感じるし、うわー孤独だー寂しい死のうって思ってた、ある日、目の前に天使が現れたんだ」
「天使ですか、唐突ですね」
「天使といってなんだけど、ただの二つ下の後輩だよ。誰に対しても愛想が良くて、気立てが良くて、可愛くて。一週間で職場のギスギスした空気を清浄してくれた。聞くと田舎に病気の母がいて、毎月仕送りまでしているらしい。ほんと泣けるほど良い子だなぁと思った」
話が明るく変わり、ほっとするのもつかの間、
「だけど一ヶ月後に自殺しちまったんだ。母親の容体が悪化してすぐに亡くなった。そして遺品整理してたら大量の借金があると知って、耐えられず……とまあ、よくある話っちゃよくある話なんだ。でも身近で起こるとは夢にも思わなかった。……みんな、職場のアイドルが消えて、皆引きずるだろうなって思った。思うだろ? でも全然違った。みんな、いつもと変わらず仕事に熱心なんだ。なんだこいつら、産業ロボットか? って思った。けど振り返ってみると、俺も最初、彼女の訃報を聞いて追悼するよりも先に仕事の心配しちまったんだ。明日から彼女無しでどうしよう、やっていけるか不安だ……そんな事務的な自分が嫌で、もう取り返しがつかないところまで落ちぶれているけれど、もっと悪化しそうだからその会社辞めたんだ。辞めてからはしばらくはニート。就活をもう一度するのが辛かったから、親のコネを頼りに今の職場にたどり着いたのさ」
一呼吸で長い話を一気にまくし立てた。嫌いな食べ物をなるべく味わわないように噛まずに飲み込むかのように一瞬で通り過ぎた。
「出来るなら仕事なんてやりたくないよ。でも生きるためには避けられない、できるなら誰かに押し付けたいよな。物覚えが良くて、仕事が出来る奴だとなお良い」
「……マスターは職場にロボットがいたら嫌ですか」
「そうだな、ロボットは嫌だな。ヒューマノイドはいいけど」
「……」
「帰る気になったか」
「……ダメです、ワタシは役立たずのポンコツです。また迷惑を掛けます。マスターに広義の危害を与えます」
「まだいじけてるのかよ……」
天井は頭を掻きながら空を仰ぐ。灰色の雨雲が立ち退き始め、青と白のコントラストになっている。
「……そうだ、あれがあったか……」
天井はマーガリンの肩に手を乗せる。
「マーガリン」
「はい、なんでしょう」
「今お前の背中に言うことを聞かないと電気ショックが流れる装置がくっついている」
「またですか!?」
「おっと振り返るなよ。見たら回路全部が冷蔵庫に仕舞い忘れたバターみたいに溶けるぞ」
「どれだけの電力なんですか!?」
「ちなみに触れている俺にも電気は流れる」
「ドMですか!?」
どこでそんな言葉を覚えてたかはひとまず置いておいて、これで条件は揃った。
「一緒に喫茶店に戻るぞ、みんな待ってる」
「……でも、ワタシ……大事な布を汚しました……損害を……」
「ここで大事なマーガリンを汚したままにしているほうが痛手だよ。何度も言わせるな、帰るぞ」
「……はい」
二人は同時に立ち上がり、並んで歩く。歩幅を違えど、揃えて歩く。
いつしか雨は止み、虹が掛かる。
何もかもが異なる二人の間にも不可視で不可思議な橋が掛かっていた。