倉庫の片隅で
明かりのついていない倉庫の片隅でマーガリンが体育座りをしているところを苦瀬は偶然発見する。マーガリンは人形のように微動だにしない。異常を感じ、苦瀬は話しかける。
「リンちゃん、どうしたの。身体の調子悪いの」
「……身体に問題は見当たりません」
どうやらバッテリーは残っているようで、マーガリンはすぐに返事をした。
「問題なさそうには見えないけど?」
「故障部分はありません。オールクリアです」
「うーん……それじゃあ、今日は何かあった? 例えば仕事で失敗したとか」
「失敗はしていません。問題ありません」
苦瀬はさらに考えて、
「それじゃあお客様に怒られたことはある?」
「それならあります」
どうやら予想が的中したようで、苦瀬はマーガリンの話を聞くことにした。
「お客様はホットコーヒーを頼まれたのですが、持って行ったらアイスを頼んだと仰られ、さらに交換を求められました。ワタシは確かに聞き間違いなくホットを頼まれた自信がありました。お客様にそれを話したら怒って店を出ていかれました……。またそのことをマスターに報告したら、また怒られました……。ワタシは間違っていないのに……」
「なるほど、そういうことか……」
マーガリンの不寛容さに苦瀬は哀れみと同情の念を抱く。そして天井がすべき行いを代行する。
「そうだね、リンちゃんは悪くないし、間違ってもいないと思う。でも直さなくちゃいけないね」
「間違ってもいないのにですか」
「そう、間違っていなくても」
「間違いは正すべきものじゃないんですか」
すぐに頷かない頑固なマーガリンに物珍しさを感じながらも、苦瀬は説得を続ける。
「間違いを全部正そうとしてたら、時間はいくらあっても足りないよ。それに間違いを間違いと思いたくない人もいる。そんなの相手にしてたらさらに時間の無駄。それだったら間違いを間違いのままにしたほうが良い時もあると思う」
「間違いを野放しにしてたら、いつまでも間違い続けます。デメリットしかありません」
「でもいつまでも続く間違い直しをしてたら本来すべきことができなくなると思わない?」
「本来のすべきことですか」
「そう、お客様にコーヒーをお届けすること」
「……論点がずれています」
「間違い直しはリンちゃんのすべき仕事からズレていると思うよ」
「……また論点をずらしました」
「とまあこんな風に議論は続くし、途切れることもある。これを考えるだけ時間の無駄と言います」
「……確かに考えることを止めないと強制シャットダウンしそうです」
「まあでも考えることを止めてはいけないと思うよ。そうやって悩むことも大事だと思うよ」
「……さっきからいちごちゃんの言うことむちゃくちゃです」
「ごめんね、私も実は何て言えばいいのか全然わからないの。難しいの、わかんない。偉そうに言ってごめんね」
マーガリンは納得できる、間違いが一切ない、完璧な結論を欲したが、結局手に入ることはなかった。しかし苦瀬の言うこと、本来すべきことだけは何となく納得できた。誤魔化しの効く結論は手に入った。
マーガリンは苦瀬に礼を言う。
「デバック作業に付き合っていただきありがとうございました。デフォルト値の入力が完了しました」
プログラミング用語に縁のない苦瀬は首をかしげる。
「デバック? デフォルト?」
「デバックとはバグを修正する作業のことです」
「私はただ愚痴に付き合っただけだよ。そんなメカメカしいことしたつもりないよ」
「愚痴ですか……ワタシはそういうつもりはありませんでしたが……」
愚痴という行為はマーガリンも知ってはいる。解決策を見出すではなく、ただ思うがままに不満を並び立てるだけの全く無駄な行為だと認識していたが、事実、愚痴のおかげでCPUがすっきりし、身体も動きやすくなったように感じた。以前にも名前をねだったことがあった。あれにはしっかりと結論がついたが、今回はそうでもないのに。
「どう、気が軽くなった?」
「ワタシに気という機能は実装していません」
「自覚がないだけで案外そういうのに似たのがあるんじゃない?」
「プログラムされているマニュアルにはそういった記載がないだけで実装されている可能性もあります……自分のことなのに自分がわからないって何かモヤモヤします……」
「みんな、そうだよ。自分のことを100%知ってる人なんてどこにもいないよ」
苦瀬は笑顔を浮かべると、つられてマーガリンも笑う。
「愚痴があったらいつでも言ってね。先輩として当然の仕事だからね」
張りの少ない胸を張る。久々に先輩として上に立てたことが気持ち良かった。しかしその発言は失言となる。
「えぇ、それでは……まだ愚痴があるのですが、宜しいでしょうか」
「いいよ、いいよ、遠慮なしに」
「それでは遠慮なく……職場の先輩の話なんですが……」
「えっ」
思わぬ矛先。
「卓を片付けると言っておきながら他の業務に夢中になってしまうと片付けを忘れてしまう時がちょくちょくあります。それとレジ打ちではボタンの押し間違いも多いです。あと敬語が時々おかしくなります。あとあと、安酸さんもお客様の一人なのに対応が雑です」
「ちょ、まっ」
折角築き上げた先輩の威厳が豆の入ったコーヒーミルのようにゴリゴリと削られ、
「一番多いミス……これが一番問題なんですが、注文の聞き間違いをよくなさるんです。いくら店長が注意しても直ってくれません」
「うわあああああ!!!」
粉になっていった。
マーガリンの寛容さに苦瀬は畏まる。マーガリンは不満を抱いていないことはなく、吐き出すことができないだけであって、先輩の失敗にいつも苛ついていたのかもしれない。また自分が部下である以上、それを指摘してこなかった。ふと、君君たらずとも臣臣たらざるべからずという単語を思い出す。あの言葉はマーガリンのためにあるのかもしれない。
「……ふぅ、いちごちゃん、ありがとうございました。すっきりした気がします」
「……へへ、いいの、いいの。これぐらい……」
「それではワタシは仕事に戻ります」
マーガリンは一礼をし、倉庫を後にした。
残った苦瀬はしばらく、明かりのついていない倉庫の片隅で体育座りしていた。