五、敢為邁往、其の一
地獄の合宿、夏の補習などで更新が出来ませんでした。
ホントにすいません。
留守居役として経験豊富だが高齢の山県盛信と叔父の武田 信方
以下数名を対逸見氏のために若狭に残し
八百の兵を連れ出陣した。
北近江へ難なく進出した信長は、6月21日、浅井長政の小谷城のすぐ南にある虎御前山に本陣を置き、小谷の城下町を焼くなどの挑発を行うが、浅井方は動かず6月22日、信長は、朝倉軍が小谷城の北、木之本に集結しつつあるとの情報を得、このままでは小谷城の支城である横山城の
大野木茂俊から背後をつかれる恐れがあることから、
横山城への攻撃を先に行うこととし、姉川を渡り龍ヶ鼻へ移動を開始。
そこを織田軍に徳川家康が五千の軍勢が、浅井軍に朝倉景健率いる八千と
俺が率いる若狭勢八百の計八千八百が援軍として到着。
浅井長政は強大な援軍を得て、横山城の救援を決意し
南西の大依山に進出、27日夜闇に紛れ浅井軍は野村まで進み、
朝倉軍、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の両軍は姉川を挟んで布陣した。
「伊柵様、ついに明日が決戦ですね。」
陣の外に立ち夜風に当たりつつ、対岸に布陣する徳川の篝火を眺めながら
隣の伊柵様に話しかけた。
「孫八郎、すまんな。元服もしておらぬのに初陣を迎えさせてしまって・・
この戦が終わったらお主が若狭に戻れるよう御屋形様に頼んでおく。」
今思えば、人質としての一乗谷での生活ではいろんな人の世話になった。
朝倉家当主左衛門督義景様、朝倉九郎左衛門尉伊冊入道景紀様、
朝倉中務大輔景恒様、真柄兄弟、
まだ何もしていない、俺だけが知ってる恐らく負けるという事実。
恩に報いず、野望のために恩人を殺す。
それしか今の俺には道がない。
翌朝、軍議で決められた通りに
朝倉軍先鋒として俺。
先鋒の第一陣に武藤上野介友益と粟屋越中守勝久を
第一陣の後詰に内藤筑前守勝行を
第二陣を先鋒本陣とし俺を中心として旗下数名の武将を残し
先鋒後詰には伊柵の爺さんが布陣。
朝倉軍第二陣には前波新八郎、
最後に本陣に総大将朝倉景健が布陣した。
日も昇り、戦は始まったが俺は浅井勢のように突進せず
じっくりと腰を据え陣から動かない。
浅井の怒涛の進撃は、家中の武将の個人的武勇の高さと士気の高さあってのものだ。
その点朝倉勢は手伝い戦で来たのだし、更にその手伝い戦の手伝いで来た俺たちは
あまり士気も高くない。
おまけに家中で俺に忠誠を誓っているのかどうなのかという武将が多く
無闇矢鱈と突撃を指示するのは控えたい。
だから先鋒の第一陣に信用の置けて且つ実戦経験のある武藤上野介友益と粟屋越中守勝久を、第二陣に親族衆内藤筑前守勝行を置くことで一撃で壊走することはないと思う。
しかし初陣の相手が若いとは言え、海道一の弓取りと戦うことになるとはな・・・
まず勝つことは無理・・・よくて引き分け、悪けりゃ壊走だな。
正直に言えば不安の種が多すぎる。
まずどのくらい戦えるのか分からない旗下の武将たちと
粒揃いの家康の武将たちとの戦力差。
何度も戦に出て采配を振るってきた家康と初陣の俺との差。
幾ら朝倉軍の戦慣れした武将たちがいたとしてもこの差を埋めるのは
至難だろう。
こっからはハッタリでも何でもしなければただ無残に負けるだけだ。
そして動かぬ俺に焦れたのか徳川第一陣が突撃してくる。
それを見てある逸話を思い出した。
関ヶ原では松尾山に陣取っていた小早川秀秋は家康の指示で発砲した旗本部隊に恐れをなして西軍を攻撃したという話だ。
この逸話を聞いた当時はただ秀秋を臆病者と思い見下したが、
今なら分かる。
秀吉を恐れさせ、信玄にも認められた三河衆の恐ろしさを。
秀秋を恐れさせた旗本衆三万の半分にも満たぬ兵だが
気迫が、空気を振るわせる武者の咆哮が俺の中の冷静な思考力を奪い去る。
兵では関ヶ原の時と大きな差があるが恐らく今が家康が最強の時期。
負け知らずの家康に、主君のために死すら辞さぬ三河兵。
俺が三河衆の気迫に呑まれてる間に第一陣は押されまくり、俺のいる本陣に危機に陥っていた。
一旦全身の力をぬき俺は大きく息を吐く、出した分しっかり深呼吸で吸い込み軍配を握りなおす。
そしてざわつく周囲の者たちに端的に指示をとばし戦況を変える策に討って出る。
「うろたえるな、陣を前に詰める。」
俺の指示に周囲が愕然とする、
そりゃそうだ、先鋒が崩れそうなら普通後退する。
だがここで退けばますます敵は勢いづき先鋒が殲滅される。
それに敵陣の三つ葉葵の旗の下で床几に腰掛けているであろう
男も言ったらしいからな。
「一手の大将たる者、味方の人たちの盆の窪ばかりを見て、合戦などに勝てるわけがない。」とな。