三、不撓不屈、其の一
テストが終わった・・・
嘘です、明日もあります。
やだな・・・
俺は結局朝倉氏に拉致られてしまったが、前向きに捉えればあながち悪い訳ではない。
朝倉宗滴亡き後とはいえ、宗滴の薫陶を受けた武将もまだ多く残っているだろうし、宗滴本人が残した書物もあり一人前になるための勉強が出来るだろう。
それに今の当主朝倉義景も悪い人じゃなさそうだし、
俺を攫った元凶なのだがすごく俺を気遣ってくれるのだ。
京より変わった芸をする一団が来た時なんてわざわざ俺のために上演させたり、俺に不自由ないよう何かと世話になってくれたりとめちゃくちゃ慈悲深いのだ。
現代の評価ではダメ大名といわれているが、生まれる時代が悪かっただけなのだ。
親を亡くし、人質として哀れな境遇におかれている俺が
寂しくないように気遣える、慈愛の心に溢れる優しい人。
この時代じゃなく現代に生まれれば日本のカーネル・サンダースとでも
呼ばれただろう。
そして俺は朝倉中務大輔景恒様の屋敷に監視も兼ねて預けられている。
中務様は自らの領地を統治しなければならず、
俺の養育と教育は中務様の父、伊冊様(朝倉九郎左衛門尉景紀)にお世話になっている。
伊冊様は、世に名高き朝倉宗滴の甥で
九代朝倉氏当主朝倉貞景の四男として生まれ、朝倉宗滴の養子になって家を継いだ人だ。
今年で六十四歳にもなるのに今だに元気で、普段は縁側でお茶啜ってそうな
人の良い爺さんなのに俺に作法やら軍学やらを教える時は、
すごく厳しくなり俺に愛の教育的スパルタ指導をしてくれている。
そして中務様は、元々僧籍にあり松林院鷹瑳と名乗っていたのだが、永禄7年(1564年)に兄・朝倉景垙が朝倉景鏡との陣中での口論の末自決した後に、還俗して敦賀郡司を務めることになったのだ。
その性か武士っぽい荒々しい雰囲気はなくいつも穏やかで多少心配性である
とても優しい人だ。
・・・・・一回、俺が根を詰めすぎて風邪を引いた時はめちゃくちゃ怖かったが。
しかし史実では中務様は元亀元年(1570年)4月の織田信長の越前侵攻の際、越前金ヶ崎城に篭城するも4月26日に織田軍の猛攻を受け、兵力差もあったことから信長の降伏勧告を受け入れ開城したが、他の一門衆から「不甲斐無し」と非難され、永平寺に遁世し、失意の内に9月28日に死去してしまう。
俺が思うにあれは救援として後詰に誰も出さなかったこと自体が間違いであるし、それを理由に不甲斐無いという評価を付けるのは幾らなんでも酷すぎるだろう。
ちなみに俺の武の師匠は猛将真柄兄弟。
真柄兄弟を知っている人は多いだろう。
まず、兄の真柄十郎左衛門直隆は朝倉家中でも武勇に優れた人物で、黒鹿毛の馬に跨り、越前の刀匠千代鶴の作による五尺三寸(約175センチ)もの太刀「太郎太刀」を振り回して戦いでは常に暴れまくったという伝説を持つ武将で有名だ。
弟の真柄 直澄もまた兄と同じく五尺三寸(約175センチ)の巨大な太刀を振るう猛将といわれ、実戦で使用したかどうかは定かではないが、越前滞在時代の足利義昭に、九尺五寸(288cm)の斬馬刀披露した事もあるという。
普通歴史好きの人間だったら実際この二人がそんな化け物みたいな刀を振る姿を見たくなるだろう。
だから中務様に無理を言って実際に二人に頼んで見せたもらったが、
つい、お世辞で「二人のような武将になりたい」といったら
ホントに大太刀を振るえるように特訓を受けさせられる羽目になったのだ。
だが中途半端な知識しかないなら俺がやれることをやり無様に屍を晒すことがないようにしたい・・・
負けたら死ぬだけだ。
孫七郎は朝倉 景垙の子供ですが途中で行方不明になっています。
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