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二、羊頭狗肉、其の二

違和感の正体が判明した。

ここは甲斐じゃない、いやそもそも俺が生まれたのは甲斐武田家じゃない。

若狭武田家だ。


若狭武田家というのは安芸武田氏4代武田信繁の長男である武田信栄が、6代将軍足利義教の命を受けて1440年(永享12年)に若狭守護職を任命され始まる。



応仁の乱では東軍に副大将として参加。

丹後国に侵攻するなど活躍し、室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流している。しかし周辺諸国からの圧力、有力国人の離反などが相次いで国内での勢力を弱め、8代武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行してしまい1566年(永禄9年)8月には義理の兄である義統を頼って入国した室町将軍家子息足利義昭を庇護するが、まったく力になれず朝倉家に移られてしまった。


そして2年後の1568年(永禄11年)8月に、越前朝倉氏の若狭進攻によって領国を失う。9代武田元明は、朝倉氏によって一乗谷城居住を強いられていたが、1573年(天正元年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると若狭に帰国した。


しかし信長より若狭を任されたのは丹羽長秀だったので元明は大飯郡南部の石山3000石のみの領有を許されただけで1582年(天正10年)の本能寺の変では旧領回復を狙って丹羽長秀の居城佐和山城を陥落させ明智光秀に加担したが、戦後自害を命じられ、若狭武田氏は滅亡。


恐らくというかほぼ100%、俺は武田元明だ。



死亡フラグ乱立なんてレベルじゃないぞ、これ。

というかこれは俗にいう外れ籤だ。

朝倉に拉致られる?朝倉宗滴亡きあとの朝倉は序々に衰微しつつあるのにそんなところへ拉致られたら

ほぼ・・・いや確実に、果てしなく無駄な時を費やすことになりかねんな。


えっ?じゃあ回避すればいいじゃないかって?

無理です。現在進行形で拉致られています。



まず父である、武田義統は朝倉と婚姻関係にあることを頼みに朝倉に何度も援軍を要請し

内乱を鎮圧してきた。

しかし、そんなことばかりしていれば自然と若狭は朝倉に強い影響を受けるようになる。

だが俺の守役である粟屋 勝久を始めとしてそれに不満をもつ者たちが俺を神輿に内乱を起こす。

武田氏の主力は粟屋 勝久が率いる粟屋党だ。

父上はそれに慌てまた朝倉に援軍要請を行い、また更に朝倉の影響が強まるという負のスパイラルが

発生した。

ところが永禄10年(1567年)父、武田義統が急死。俺が嫡男であるから家を継いだが、

数え年五歳の俺に家臣の豪族どもが唯々諾々と従うはずもなく

結果朝倉に介入され、まだ幼い俺を朝倉家本拠一乗谷にて養育の名目で拉致られた。


拉致される前に守役の粟屋 勝久にしかるべき時が来るまで無駄な犠牲を出さぬよう、

表面上だけでもいいので朝倉に従ってくれと頼んだから一応若狭は大丈夫だろう。


俺が朝倉義景に謁見するときに一乗谷での生活を有意義に過ごせるように必要以上に警戒心を抱かせず、

朝倉宗滴流の軍学を学び後六年間の猶予を活かしきれるかが勝負だ。

ちなみに、拉致するは英語でabduct。

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