#2
まず目に入ったのは、梁が剥き出しになった見慣れない天井。首だけ動かして周りを見る。木の板を繋いだだけの粗末な壁に窓があった。
起き上がろうとして思わず呻き声を上げる。脇腹の痛みを堪えてなんとか上体を起こし、少し遠い窓から外を覗いた。木造の家の間で子供達が遊び、畑では大人達が農作業にいそしんでいる。平和な風景にしばらく見惚れた。
ぎぃっとドアが軋み、入って来たのは水の入った桶と布を持った少女。目が合う。少女は乱暴に持っていた物を置いてばたばたとどこかへ走り去った。
その姿に、今更ながら目を押さえ俯く。
「おはようさん」
嗄れ声に顔を上げた。開けっぱなしのドアから老婆が杖を突いて入って来る。
「ずいぶん回復した様で何よりだ」
「ここは……」
目を隠したまま訊ねた。
老婆はベッドの隣にあった椅子に腰掛ける。
「この村はエルザスの国のルルド。お前さんの暴れた戦線からは遠い、辺鄙な村さね」
驚いて老婆を見た。
「ラウル・ランス。この国じゃあ、こんな田舎でもなきゃ誰でも知ってる名だよ。サンフィゼールの騎士団副長は、団長よりも恐ろしいってね」
着てたものを見れば分かるさ、と老婆は笑った。
「全快するまではこの村でゆっくり休みんさい。その間に今後の身の振り方をよく考えておく事だ。この村に残るも良し、国に帰るも良し。お前さん位強ければどこか他の国に仕えるって選択肢もあるね。サンフィゼールにいたときも、引き抜きの話はあったんじゃないのかい?」
ラウルは視線を落とした。
「……どれも、出来ない」
「その目のせいで?」
見せてみんさいと老婆はラウルの手をよける。緑色の鱗が目を囲むようにびっしりと生え、それより明るい色の虹彩の中に細く長い瞳があった。
「……姫はこれに恐怖し、その従者達は剣を持って俺を逐った」
言いながら、包帯の巻かれた脇腹に触れる。
「それが何だって言うんだい」
老婆は眉を上げて言った。
「その程度で嫌がる器の小さい姫さんなんて気にしなさんな。サンフィゼールじゃどうか知らないけどね、こっちじゃ竜呪に掛かった人間なんて珍しくもないんだ」
それから、悪戯っぽく笑って付け足す。
「それに、お前さん良い男してるじゃないかい。姫さんに尽くした分ほかの女に貢がせたらどうだい? なんならあたしが……」
「え……いや、遠慮する」
ラウルは老婆に握られっぱなしだった手を引っ込めた。本気で引いたのを見て、老婆はひょっひょっと笑う。
「冗談さね。生憎あたしにゃそんな体力は無いよ。惜しいねぇ……あと百若けりゃ放っとかないのに」
「はは……」
返す言葉が見付からず、ラウルは愛想笑いを浮かべた。
「婆っちゃん……相手、困ってんぞ」
見かねたように腕を組んで入って来たのは、灰色掛かった金髪を短く刈った、背は低めだがしっかりした体格の若い男。
「おお、ジャンか。ラウル、お前さんを見付けてここまで運んで来たんだよ」
それを聞いてラウルはきちんと背筋を伸ばし、
「痛っ」
脇腹を押さえ、壁にもたれた。
「無理すんなよ」
ジャンはラウルの身体を支えて寝かせる。
「済まない……」
「いいって。あんた怪我人じゃねえか」
それからジャンは思い出した様に老婆を振り返った。
「婆っちゃん。会合やるから来いって」
「ああ。そろそろだと思ってたよ」
老婆はよっこらせと立ち上がる。
「そうだ。ジャン、ラウルは多分竜呪を知らないだろうから教えておあげ。お前さん、今暇だろう?」
「え? 知らねえの?」
「……この目の事か?」
「ほらね」
老婆はジャンを見上げ、行ってくるよと杖を突いて部屋を出て行った。
「……竜呪を知らねえって事は、人竜も竜人も知らねえよな」
ラウルは頷く。
「竜呪ってのはな、簡単に言うと人間が竜になっちまう呪いだ。それに掛かると体の端から呪いに侵食されてって、最期には完全に竜と化す。竜呪に掛かった人間を竜人、」
「竜化したら人竜って訳か」
「そう」
ジャンは老婆の座っていた椅子に腰掛けた。
「人竜までいっちまうと、散々暴れまわった後に突然死ぬ。血が緑になったら危険信号だ」
「緑……。ああ、そう言えば奴の血は緑色だったな」
「奴って?」
「あなたに助けられる前に俺が斬った者だ」
「人間と同じ位の大きさの竜?」
「ああ」
「……そいつの血が目に入ったのか?」
「確か、そうだ」
あちゃー、とジャンは額を押さえる。
「それで呪われちまったんだよあんたは」
「呪いを解く方法はあるのか?」
「……」
「無いのか」
ラウルは視線をジャンから天井に移した。
「……そうか」
そう言って目を閉じる。
「あの、さ、その……あんま落ち込むなよ?」
ラウルはジャンを見た。
「落ち込む?」
「あ、いや、そうじゃないなら良いんだが……」
「むしろ嬉しい、と言うことにしておいてくれ」
「……は?」
意味が分からずにジャンは聞き返す。
「死ぬ事が?」
「目的を得た事がだ」
ラウルはジャンに体を向けた。
「俺が解呪法を見付ける。死ぬまでに、必ず」
「でも、」
「分かっている」
反論しかけたジャンは、ラウルの表情を見て口を閉じる。
「それが難しい事も時間が無い事も、分かっている」
だが、とラウルは続けた。
「頼むから、奪わないでくれ」
「──分かった」
ジャンは小さく頷き、それから身を乗り出す。
「手伝ってやるよ。俺に出来ることなら何でも言ってくれ。何をしたら良い?」
言われてラウルはためらった。それを見たジャンは苦笑する。
「迷惑だったら遠慮なく言ってくれよ?」
「あ、いやそういう訳じゃ……」
グウーー……
「……ない、から、何か食べ物をくれないか?」
赤面したラウルに笑いながらジャンは立ち上がった。
「美味くて消化に良さそうな物持ってきてやるよ。たくさんな、たくさん」
最後は意地悪そうに言い、戸口に向かう。扉を開きながら振り返った。
「そういやあんた聞いた事ある名前だと思ったら、街で噂になってるサンフィゼールの悪鬼と同じ名前じゃねえか。あんたも災難だなあ」
ぱたんと戸が閉まる。
「悪鬼、か」
ジャンが出ていった後、ラウルは呟いた。
この国で剣を振るっていた自分はそう呼ばれて当然だ。
なのに自分はこの国の民に救われて。
ラウルはじっと宙を見つめた。