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政略結婚の顔合わせで「君を愛するつもりはない」と言われたので、議事録に残しておきました

作者: ま
掲載日:2026/11/01



「君を愛するつもりはない」



王宮の小客間に、低い声が落ちた。

向かいの長椅子に座っているのは北の辺境伯、ヴァルター・ノルトハイム閣下。

今日から私の婚約者になる人である。


私はクラーラ・アイヒ、二十歳。

王宮書記局の書記官で、議場の発言を一言も漏らさず書き取るのが仕事だ。

膝の上の手帳では、その癖でもうペンが走っている。



『三月二十八日 王宮小客間 顔合わせ 発言者:ノルトハイム辺境伯 「君を愛するつもりはない」』



書き終えて顔を上げると、閣下は眉間に深い皺を寄せて私の手元を見ていた。



「何を書いている?」


「閣下のご発言です。書記官の習い性でして、どうかお気になさらず」



隣の父がひゅっと喉を鳴らした。

閣下はそれきり窓の外に目を向け、顔合わせは十五分で終わった。




◇




アイヒ家は代々、王宮に書記官を出してきた家である。

祖父は私に、ペンの持ち方より先に一つの心得を教授した。


――記録は推測を書かない。言われたとおりに書く。


議場では偉い方ほど言い間違えるし、都合の悪い発言ほど後になって「そんなつもりではなかった」と言い出す。

そんな時に頼れるものは、書記官が正確に記録した一行だけだ。

だから書記官は言葉の裏を読んではいけない。

裏を読み始めた書記官の記録など、もう誰の役にも立たなくなってしまうからだ。


今回の縁談は、王命による。

北の守りを預かるノルトハイム家と、王宮の記録を預かるアイヒ家を結ぶ――陛下の書状にはそう記されていた。

伯爵家の次女に断る権利はない。



「お父様。私、書記官の仕事は続けたいの」


「……分かった。先方にお伝えしておこう」



私が言えたのはその一言だけで、父も困った顔でそう答えるのが精一杯だった。


婚約の書類に、奇妙な条項が一つ記載されていた。

〈婚姻の日より一年を経て、いずれか一方が望むときは、この婚姻を解消できる〉



「この条項、どちらのお家のご要望なの?」



書類を作成した書記局の同僚に尋ねると、彼女は気まずそうに目をそらした。



「……辺境伯様の側から、よ」



なるほど、と思った。

愛するつもりはない。一年たったら返品できるようにしておく。

実に明快な筋書きだ。


腹が立たなかったと言えば嘘になる。

しかし同時に、ほっとしたのも本当だ。

一年我慢すれば王都に戻って、議場の隅でペンを走らせる毎日にまた帰れるのだ。


書記局長は一年の休職を承認してくれた。



「北の冬は厳しいと聞く。体に気をつけなさい」



厳格で知られる局長が、そう言って新しい手帳を三冊、餞別に持たせてくれた。


四月二日、王都の小さな礼拝堂で式を挙げたが、誓いの言葉のあいだ、閣下は一度も私の顔を見なかった。

ところが指輪をはめる段になって、閣下の手がふと止まった。

視線の先は、私の右手の中指の硬いたこ。



「ペンだこか?」


「ええ、書記官ですから」


「そうか」



閣下は短く確認して、指輪を左手にはめた。

誓いの言葉より、そちらのほうがよほど長く私の手に目を留めていた気がする。


北への旅は想像していたより遥かに快適で、馬車には毛布が三枚と温石が積まれ、宿はどこも暖炉の大きな部屋が予約済みだった。

護衛の騎士に礼を言うと、彼は困ったように頭をかいた。



「いやぁ、全部閣下のご指示でして。奥方様には言うなと言われてるんですが」


「言うな、とおっしゃったの?」


「はい……あっ、今のも言っちゃまずかったか」



私は手帳を開きかけて、やめた。

本人の発言でないものは、記録しない決まりである。


式の六日後、私は北の城に到着した。




◇




ノルトハイム城は、灰色の石を積み上げた大きな箱のような、無骨な建物である。

四月だというのに中庭の隅にはまだ雪が残っていて、馬車を降りた途端、頬を刺すような風が吹きつけてくる。

私は思わず外套の襟をかき合わせた。


玄関では、使用人たちが二列に整列して出迎えてくれた。

その真ん中に、先に戻っていた旦那様が立っている。

式を挙げた日から、閣下は私の旦那様だ。


長身に黒い外套、灰色の目。

王都で見た時より、さらに大きく見えた。



「遠いところをよくお越しくださいました、奥様!」



白髪の家令が深々と頭を下げた。アルノーと名乗った。

その隣では、そばかすの侍女がきらきらした目でこちらを見ている。

リーザ、十七歳。今日から私付きだという。


旦那様は私の前まで来ると、かじかんだ私の手を見下ろして言った。



「寒いなら出ていけ」



使用人たちの列が凍りついた。

私は手帳を取り出して、書いた。



『四月八日 夕刻 玄関 発言者:旦那様 「寒いなら出ていけ」』


「……書くのか?」


「はい、記録いたします。発言ですから」


「そうか」



旦那様はくるりと背を向けて、城の奥に退出していった。

家令のアルノーが、額を押さえて天井を仰いでいた。


最初の夕食は長い食卓の端と端で取り、旦那様は黙々と肉を切り、私は黙々と蕪のスープを飲んだ。

沈黙に耐えかねて、私は領地のことを尋ねてみた。



「こちらの冬は、どれほど寒くなるのですか?」


「寒い」


「では、雪はどのくらい?」


「多い」



会話が二往復で終わった。

食卓の脇に控えたアルノーが、たまりかねたように口を挟んだ。



「冬は窓の上まで雪が積もります。ですので旦那様は、今年の薪を去年の倍お買い付けになりました。奥様がお寒くないように、と」


「アルノー」


「失礼いたしました」



老家令はすました顔で一歩下がった。


案内された寝室は北向きの簡素な部屋で、暖炉に火は入っていたものの、窓の隙間で風が鳴っていた。

私は外套を着込んで寝台にもぐり込み、手帳の最初の頁を眺めた。


一年。たった一年だ。

記録をつけておけば、解消の時に揉めることもない。

誰が何を言ったかさえ残っていれば、私の側に落ち度がなかったことも証明できる。


そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。




◇




翌朝、目を覚ますとリーザが私の荷物をまとめている。



「え、私、追い出されるの?」



寝ぼけ眼で尋ねると、リーザがきょとんとした顔で振り向いた。



「お部屋のお引っ越しですよぉ、奥様。旦那様のご指示で、今日から南の続き部屋をお使いくださいって」



南の続き部屋は城で一番日当たりのいい場所にあり、硝子張りの小さな温室とつながっていて、扉を開けると土と若葉の匂いがする。

窓辺には書き物に適した広い机が設置してあり、その上に、王都では書記局長しか使えない上等のインクが一箱、封も切らずに置かれていた。


私は手帳を開いて、昨夜の一行を見直した。



『寒いなら出ていけ』



寒い部屋から、出ていけ?

……いや、まさか。

記録は推測を書かない。

私は首を振って、浮かんだ考えを頭の外に追い出した。


朝食の席で、私は旦那様に尋ねた。



「王宮書記局から一年の休職をいただいております。こちらでも書き物の仕事を続けて、よろしいでしょうか?」



旦那様はパンをちぎる手を止めずに答えた。



「好きにしろ」


『四月九日 朝食 発言者:旦那様 「好きにしろ」』



食堂を出たところで、アルノーに呼び止められた。

彼は周囲に誰もいないのを確認してから、声をひそめた。



「奥様。差し出がましいことを申し上げますが」


「はい」


「旦那様のお言葉は、だいたい逆さまにお聞きください」



逆さま。

私は手帳を胸に抱えて、老家令の顔をまじまじと見つめた。



「あの……それ、記録してもいいかしら」


「ど、どうかご勘弁を」



アルノーは本気で困った顔をした。




◇




逆さまに聞け、と言われても、書記官にそれはできない。

裏を読んだ瞬間に、記録は記録でなくなってしまう。


そこで別のやり方を考えた。

アルノーは毎晩、家令日誌というものをつけている。

城の薪の消費量、厨房の献立、来客、旦那様のご指示。

几帳面な老家令が一日も欠かさず記入している帳面だ。


私は彼に頼み込んで、その日誌を見せてもらうことにした。

私の手帳に、旦那様が言ったこと。

アルノーの日誌に、城で実際に起きたこと。

二つを並べれば推測を交えずに事実だけを比べられる、という理屈である。


最初の一か月で、手帳はこうなった。



『四月九日 朝食 「好きにしろ」』



家令日誌、同日。〈書庫の鍵を奥様にお渡しすること。旦那様ご指示〉



『四月十二日 夜 廊下 「夜は出歩くな」』



家令日誌、同日。〈奥様のお部屋から書庫までの燭台、夜通し灯すこと。旦那様ご指示〉



『四月二十日 中庭 「その外套は北では役に立たない」』



家令日誌、同日。〈南の町の毛皮商を呼ぶ。奥様の寸法を測らせること〉



『五月三日 私の部屋の前 「君の顔は見たくない」』



これは私が風邪をひいて、発熱しているのに無理に起きて書庫に行こうとした朝の発言だ。

家令日誌、同日。〈医師を呼ぶ。蜂蜜湯を三度。旦那様、昼に二度、奥様のお部屋の前までいらして、お戻りになる〉


並べた頁を眺めながら、私はペンの尻で額をこつこつと叩いた。


言葉と行動が、ことごとく反対を向いている。

しかし反対を向いているという事実と、そこにどんな気持ちがあるかは、まったく別の問題である。

辺境伯ともなれば、妻を粗末に扱ったと噂されるだけで体面に関わる。

一年で返す客人をただ丁重にもてなしている、というだけかもしれない。


迷った末に、本人に聞いてみることにした。

推測を書かないなら、確認すればいい。書記官の基本である。


その日の夕方、私は執務室の扉を叩いた。



「閣下、ひとつ確認させてください。閣下のお言葉は、逆さまなのですか?」



旦那様は書類から顔を上げ、たっぷり三呼吸ぶん固まった。



「違う」


『五月八日 執務室 「違う」』



家令日誌、同日。〈旦那様、夕刻より執務室で頭を抱えておられる。原因不明〉


その夜、厨房の前を通りかかると、使用人たちの楽しげな声が漏れてきた。

のぞくと、皆で旦那様の発言を逆さまに訳す遊びをしている。

審判役は、なぜかアルノーだ。



「では『夜は出歩くな』は?」


「はいっ! 『夜道が心配で眠れない』です!」


「リーザ、満点」



料理長が木の札を上げ、庭師が拍手した。

すっかり慣れた様子で、城の誰もが旦那様の通訳になっているらしい。



「次。今日の新作、『違う』」



厨房が静まり返った。



『違う』を逆さまにすると『そうだ』で、つまり旦那様の言葉は逆さま――ではないから『違う』で、それを逆さまにすると……。



料理長が頭を抱え、リーザが指を折って数え始め、アルノーは審判の札を下ろした。



「……本日は、ここまでといたしましょう」



私は聞かなかったことにして、そっと廊下を引き返した。

本人の発言ではないので、記録はしない。



「奥様、また難しい顔してますね」



温室の鉢に水をやりながら、リーザが笑った。



「旦那様、絶対に奥様のこと好きですって! 料理長も言ってました。奥様がいらしてから、旦那様の注文がやたら細かくなったって」


「それは推測でしょう」


「推測ですけど、みんなそう言ってますもん」


「みんなが言っていても、推測は推測よ」



リーザは唇を尖らせた。



「奥様って、たまに石みたいなこと言いますよねぇ」



言われてみれば、そうかもしれない。

私は咳払いをして、手帳を閉じた。




◇




ノルトハイム領では、毎月十日に領主会議が開かれる。

領内の村長や、小さな領地を預かる騎士たちが城の大広間に集まって、冬の備えや街道の補修を相談する場だ。


私は五月十日の会議を大広間の隅で傍聴し、十分もしないうちに、この領地の会議に何が足りないのかを理解した。


旦那様の言葉が、短すぎるのである。



「東の橋。直せ」


「薪。足りるのか」


「却下」



領主たちはうつむいて、額の汗を拭くばかり。

誰も「どの橋を、いつまでに、誰の費用で」と聞き返せない。

会議の後、廊下で年配の村長が若い騎士にこぼしているのが聞こえた。



「閣下が何をお望みなのか、さっぱり分からん。下手に動いて叱られるのも恐ろしいしなあ」



その夜、私はアルノーを通じて、次の会議で書記をさせてもらえないかと申し出た。

返事は翌朝、本人から来た。



「余計なことをするな」


『五月十一日 朝食 「余計なことをするな」』



書きつけてから、念のためアルノーの顔を見た。

老家令は目を閉じて、深々とうなずいた。

逆さま、ということらしい。

推測は書かない。だが、うなずきは事実として覚えておくことにした。


翌日、私の机が南の続き部屋から消えていて、慌てて探すと執務室に移されていた。

旦那様の大きな机の、すぐ隣に。



「会議の記録には、俺の指示が届く場所が要る」



私が口を開く前に、旦那様は書類から顔も上げずにそう言った。

それは私がこの城に来てから聞いた中で、最も長い発言である。

もちろん記録した。


六月十日の領主会議で、私は初めて書記の席に着いた。

旦那様が「東の橋。直せ」と言った瞬間、私は手を挙げた。



「確認いたします。東の橋とは、ハイデ村の手前の石橋のことでしょうか?」


「そうだ」


「期限は?」


「秋の長雨の前」


「費用は、城のご負担と各村の負担の、どちらで?」



旦那様は一瞬言葉に詰まり、それから言った。



「……城で持つ。村の金は、冬の薪に回せ」



大広間がどよめいた。

村長たちが一斉に顔を上げ、口々に何か言い始める。



「城で持つって……え、橋をか?」


「おい、聞いたか。村の金は薪に回せってよ」


「閣下、そういうことは最初から言ってくださいよぉ」



若い騎士の泣き言に、旦那様は「言った」とだけ返した。

言っていない。三語しか言っていない。

私はその一行を議事録に大きく書き留めた。


会議が終了すると、議事録の写しを作成して村ごとに配付した。

誰が、何を、いつまでに、誰の費用で行うのか。

村長たちが持ち帰れる形に、旦那様の三語の指示を整理しただけである。


七月の会議の後、例の年配の村長が、帽子を胸に抱えて私のところに来た。



「奥方様。わしは四十年この領地で村長をやっとりますが、閣下のお考えが分かったのは初めてですわ」


「閣下のお考えは、最初から閣下のお言葉の中にありました。私は書き取っただけです」


「いやいや。書き取るってのは、聞くってことでしょう。ちゃんと聞いてもらえたのも、初めてでしてな」



村長が帰ったあと、議事録の束を揃えていて、ある一行で手が止まった。

六月の会議で、旦那様が冬の薪について述べた言葉だ。



「北は寒い。人が死ぬ。薪を惜しむな」



どこかで聞いたことがある気がした。

同じ言い回しを、同じ低い声で。

ところが思い出そうとすると、記憶は霧のようにほどけてしまう。

私は首をかしげて、議事録を棚に戻した。




◇




夏が過ぎる頃、手帳は二冊目に突入した。



『七月二日 夕食 「王都の菓子は、ここでは手に入らない」』



家令日誌、同日。〈南の町の菓子屋へ早馬。王都風の焼き菓子を作れる職人を探すこと〉



『八月十五日 温室 「花など育てて何になる」』



家令日誌、翌日。〈庭師に、温室の鉢を三十増やすよう指示。花の種は奥様のお好みを伺うこと〉


鉢が届いた日、温室の入り口に旦那様が立っている。

大きな手に、種の小袋を山のように抱えている。



「余った」


「三十袋も、ですか?」


「余った」



押しつけるように小袋を渡して、旦那様は踵を返そうとした。

私は思わず呼び止めた。



「あの、閣下はどんなお花がお好きなんですか?」



旦那様は振り向いて、しばらく考えるような顔をした。



「分からない。……君が植えたものを見る」



そう言って、今度こそ出ていってしまった。


記録しようとして手帳を開き、ペンが止まった。

これは逆さまだろうか。

逆さまにすると、何になるのだろう。

私は結局その一行を書き、その下に何も足せなかった。



『九月一日 執務室 「帰りたければ、帰れ」』



これは私が王都の秋祭りの話をうっかり口にした日の発言だ。

家令日誌、同日。〈王都行きの馬車を一台、いつでも出せるよう厩に用意しておくこと。旦那様ご指示〉


九月の末、ハイデ村の石橋は長雨の前に完成し、村からは子どもたちが書いた礼状が届いた。

旦那様は礼状を一読して、「当然だ」とだけ言った。

家令日誌、同日。〈旦那様、ハイデ村の礼状を三度読み返し、執務机の引き出しにしまわれる〉


手帳を閉じるたびに、胸のあたりがむずむずするようになった。

執務室の隣の机で、旦那様が書類をめくる音を聞いているのが、いつのまにか一日で一番好きな時間になっている。

毎朝「今日はどんな発言が聞けるだろう」と考えながらペン先を確かめている自分に気づいて、私はひどく慌てた。


これはまずい。

相手は一年で私を返品する予定の人。

期待した分だけ、春に馬車に乗る時が辛くなる。


それに、私は書記官だ。

解消の時に自分の潔白を証明するために、この手帳を始めた。

旦那様の声を聞くのが楽しみで手帳を開いているのなら、話が違ってしまう。



「奥様、顔が赤いですよ」


「暖炉の前だからよ」


「暖炉、今日は火を入れてませんけど?」



リーザがにやにやしながら言った。

私は返事の代わりに、手帳で顔を隠した。




◇




十月十五日、王宮書記局から手紙が届いた。

局長の几帳面な字で書かれている。



『休職の期限が近づいたので知らせる。春から議場の書記の席を一つ空けておく』


『あなたの速記を待っている者は多い。返事は冬至までに』



議場の席。

十八の歳から二年、私が座ってきた場所だ。

読み終えた時、自分の中に二つの気持ちが同時に湧いてくるのが分かった。


一つは安堵である。

帰る場所が、ちゃんと残っている。

もう一つは、自分でも驚くほど冷たい寂しさ。


私は手紙を持って執務室に行き、旦那様に報告した。

それが妻としての筋だと判断したからだ。


……いや、それだけではなかった。

私はたぶん、何かを言ってほしかったのだと思う。

旦那様は手紙を一度だけ読むと、私に返して言った。



「行けばいい。契約どおりだ」



ペンが手帳の上で止まった。

旦那様は書類に目を落とし、こちらを見ようとしない。

私は時間をかけてその一行を書き、頭を下げて執務室を出た。



『十月十五日 執務室 「行けばいい。契約どおりだ」』



廊下の窓から、灰色の空が見えた。

逆さまに聞け、とアルノーは言った。


しかし逆さまに聞いてほしいのなら、逆さまでない言葉を一度くらいくれてもいいではないか。

そう考えてから、私は自分が腹を立てていることに気づいた。

腹を立てる理由なんて、契約のどこにも書いていないのに。


その夜、家令日誌に記された一行。

〈旦那様、夕食を召し上がらず〉


翌朝、リーザは手紙の話を聞くなり、抱えていた洗濯物の籠を取り落とした。



「えっ、帰っちゃうんですか!? 春に? 嘘でしょう?」


「まだ決めていないわ。返事は冬至までだもの」


「旦那様は何て?」


「行けばいい、ですって」


「うわぁ……」



リーザは頭を抱えてしゃがみこんだ。



「それ、絶対に逆さまですってば。旦那様、今朝は剣の稽古で木の人形を三体も折ったって、騎士の皆さんが青い顔してましたもん」


「それも推測よね」


「推測ですけど!」



床に散らばった敷布を拾い集めながら、私はリーザの言葉を頭の中で何度も繰り返した。

人形が三体折れたことは、騎士たちが証言している。

しかし折った理由までは、誰も記録していない。


その日の午後、日誌を返しに行くと、アルノーは帳場で銀器を磨いていた。



「アルノー。旦那様は、昔からああいう話し方なの?」


「幼いころからでございます。言葉が足りないのに、気持ちだけは人の倍おありになる」



老家令は銀の匙を光にかざして、ふと手を止めた。



「そういえば、二年前の秋に一度だけ。王都の審議からお戻りになった晩、旦那様はひと晩じゅう、何かの書類の写しを読み返しておられました。あんなに嬉しそうなお顔は、後にも先にもあの晩きりでございます」


「何の書類?」


「さあ。家令ふぜいには、見せていただけませんでした」




◇




冬至まで二か月あったが、私は返事を書かずに、代わりに引き継ぎの書類を作り始めた。


春に城を出るなら、領主会議の議事録をどう続けるのか、誰かに引き継がなければならない。

一年分の議事録を整理して、会議の進行の手順を明記する。

ついでに私の手帳も清書しておくことにした。

解消の時に、私の側の記録として提出するためだ。


最初は、確かにそのつもりでいた。


十一月に入ると、旦那様は朝早く巡察に出て夜遅く戻るようになり、執務室にいる時間は目に見えて短くなった。


家令日誌には、こんな一行が増えていた。

〈王都行きの馬車、車輪を新調。旦那様ご指示〉

私は日誌を閉じ、手帳には何も書かなかった。

発言の無い日に、記録する事柄は無い。


十二月に入った夜、旦那様のいない執務室で、私は二冊の手帳と家令日誌の写しを自分の机いっぱいに広げた。

日付の順に、旦那様の発言とその日に城で起きたことを一枚の紙に並べて清書していく。



『三月二十八日 「君を愛するつもりはない」』――一年で解消できる条項。辺境伯の側から。


『四月八日 「寒いなら出ていけ」』――翌朝、南の続き部屋へ。上等のインク一箱。


『四月九日 「好きにしろ」』――書庫の鍵を奥様に。


『四月十二日 「夜は出歩くな」』――書庫までの燭台を夜通し。


『五月三日 「君の顔は見たくない」』――医師。蜂蜜湯を三度。昼に二度、部屋の前まで。


『五月十一日 「余計なことをするな」』――翌日、私の机を執務室の隣へ。


『七月二日 「王都の菓子は、ここでは手に入らない」』――焼き菓子の職人を探す早馬。


『八月十五日 「花など育てて何になる」』――温室の鉢を三十。種は奥様のお好みで。


『九月一日 「帰りたければ、帰れ」』――王都行きの馬車を、いつでも。



清書し終えた紙を灯りの下で端から端まで通読した。

そして、ペンを置いた。


これは議事録ではない。

どう読んでも、恋文の束だ。


寒い部屋にいてほしくない。

好きなことを続けてほしい。

夜道で転んでほしくない。

無理をして起きてこないでほしい。


近くで仕事をしてほしい。

懐かしいものを食べさせたい。

花の好きな人の、好きな花を咲かせたい。

帰りたいなら、いつでも帰れるようにしておく。


最後の一行に来て、息が詰まった。

旦那様は私を手放すつもりで馬車を用意していたのではない。

私が帰りたいと思った時、いつでも帰れるように用意していたのだ。

引き留めることだけは、一度もしないで。



『十月十五日 「行けばいい。契約どおりだ」』



家令日誌、同日。〈旦那様、夕食を召し上がらず〉


清書の紙に、ぽたりと水が落ちた。

インクがにじむ前に、慌てて袖で目元を拭った。

嬉しいのか悔しいのか、自分でもよく分からない。

こんなに長くこの人の言葉を聞いていながら、一度もちゃんと聞いていなかった気がした。


しかし、と書記官の私が言う。

これは推測だ。

並べた事実から、私が勝手に読み取った意味にすぎない。

祖父の教えに従うなら、本人がそう言っていない以上、記録にはできない。


それなら、本人に言ってもらうしかない。


私は新しい紙を一枚取り出し、上の欄に記入した。


〈審議の申し入れ。議題:旦那様のご発言の真意について。日時:十二月二十日、冬至の前日。場所:執務室〉




◇




十二月二十日の午後、私は申し入れの紙を持って執務室の扉を叩いた。

旦那様は紙を受け取って議題の一行を読み、目に見えて硬直した。

扉の外では、アルノーとリーザが息を殺している気配がする。

二人とも傍聴を決め込んだらしい。



「審議? 何だ、それは」


「書記官の家の娘の、話し合いのやり方です。発言を一件ずつ読み上げますので、訂正があればおっしゃってください。なければ、記録のとおりに確定いたします」



私は清書の紙を広げて、旦那様の机の隣の自分の席に着席した。

半年あまり、毎日座ってきた席だ。



「一件目。四月八日、玄関。『寒いなら出ていけ』。翌朝、私の部屋は南の続き部屋に移されました。訂正はございますか?」



旦那様の喉が、ごくりと動いた。



「……ある」


「どうぞ」


「北の部屋は寒い。南に移れ、と言いたかった。インクは、書記局長が使っているのと同じものを取り寄せた」



私はペンを走らせた。



『訂正:北の部屋は寒い。南に移れ』


「二件目。四月九日、『好きにしろ』」


「書き物を続けてほしかった。書庫の本も、好きなだけ使えと」


『訂正:書き物を続けてほしい』



三件目の燭台の件は、旦那様が「暗いと転ぶ」と短く訂正した。



「四件目。五月三日、『君の顔は見たくない』」



旦那様は片手で顔を覆った。



「熱のある顔で起きてくるな……見ていられなかった」


「昼に二度、部屋の前までいらしてお戻りになったのは?」


「起こしたくなかった」



扉の外で、リーザが「きゃあっ」と叫びかけて、アルノーに口をふさがれる気配がした。



「五件目。五月十一日、『余計なことをするな』。翌日、私の机が執務室に移されました」


「君が会議の書記を申し出たと聞いて、嬉しかった。だが議事録の清書や写しは何日もかかる。冷える書庫で書かせるのは嫌だった。それなら、ここで書けばいいと」


「それで、執務室に?」


「暖炉がある。それに、隣にいれば声が聞こえる」


『訂正:議事録の清書は、暖かい執務室で。隣で』



六件目の菓子の件で、旦那様は「王都の菓子の話をする時、君は楽しそうだった」とだけ訂正して、耳を赤くした。



「七件目。八月十五日、『花など育てて何になる』」


「花の名前を知らない。君に聞かれて、答えられなかったら格好が悪いと思った」


「三十袋の種は、余り物だとおっしゃいましたよね?」


「花屋にあるものを全部買った。余ってなどいない」



扉の外から、リーザの押し殺した笑い声が漏れてきた。



「八件目。九月一日、『帰りたければ、帰れ』」


「帰りたい時に、ここに閉じ込められていると思ってほしくなかった。馬車は……毎朝、まだ使われていないか確かめに行っていた」


「毎朝、ですか?」


「毎朝だ」



こうして八件、すべてに訂正が入った。

旦那様の言葉は相変わらず簡潔すぎたが、訂正された一行は、もう逆さまではなかった。

私はそれを全部記録した。

書き取りながら、手が震えないようにするのが難しかった。


私は紙をめくった。



「九件目。十月十五日、『行けばいい。契約どおりだ』。その夜、旦那様は夕食を召し上がっていません」



旦那様は長いあいだ、机の木目を見つめていた。



「……訂正は、ない」


「ないのですか?」


「君は書記官を続けたいと言った。議場に戻れるなら、戻るべきだ。俺が引き留める筋はない」



私はペンを置いた。



「では、最後の一件です」



清書の紙の、一番上の一行を指でなぞる。



「三月二十八日、王宮小客間。『君を愛するつもりはない』。訂正はございますか?」



執務室の暖炉で、薪がはぜた。

旦那様は口を開いては閉じ、やがていつもよりずっと低い声で話し始めた。



「二年前の秋、王宮で辺境の予算の審議があった」



私は顔を上げた。

二年前の秋。書記局に入って、最初の大きな議場だった。



「俺は口が下手だ。あの日も、貴族どもの前でまともに話せなかった。北は寒い。人が死ぬ。去年の冬、三十一人死んだ。薪の値段が三倍になった。――言えたのは、それだけだ。議場は笑った。田舎者が数字を並べている、と」



北は寒い。人が死ぬ。

六月の領主会議で聞いた言い回しが、霧の向こうで急に輪郭を持った。


議場の隅の、書記官の席。

十八の私は、ペンを握る手が汗で滑りそうになりながら、それでも一言も落とすまいと必死に書いていた。

三十一人。三倍。

誰も聞いていない数字を、私だけが書き取っていた。



「審議の後で、財務院の役人が議事録を読み直した。数字が全部残っていた。北の予算は通った。あの冬は、誰も死ななかった」



旦那様は、ようやく私の顔を見た。



「議事録の末尾に、書記官の名前があった。クラーラ・アイヒ」



アルノーの言っていた、二年前の秋の晩。

ひと晩じゅう読み返していた書類の写し。

息が止まった。



「あの議場で、俺の言葉をそのまま聞いたのは君だけだった」



旦那様は、大きな手を机の上で握りしめた。



「だから陛下に願い出た。アイヒ家の娘を、と。王命という形にしてくださったのは陛下だ。だが顔合わせの前に、君の父上から聞いた。娘は書記官の仕事を続けたいと言っている、と」



ああ、と思った。

父は、ちゃんと伝えてくれていたのだ。私の一言を。



「君は望んで来るのではない。それなら、俺の気持ちを押しつけるべきではない。愛してくれと言うつもりはない。仕事は続けていい。一年たって帰りたければ、帰れるようにしておく。――そう言うつもりだった」



旦那様は苦い顔で額を押さえた。



「口から出たのは、あの一言だった」



君を愛するつもりはない。

君に愛を求めるつもりはない。

言葉が一つ抜け落ちただけで、意味がまるで逆になってしまう。

書記官が最も警戒しなければならない種類の言い間違いである。



「解消の条項も、閣下が?」


「そうだ。君が帰れるように」



私は清書の紙を見下ろした。

今度はにじまないように、先に目元を拭った。



「訂正、記録いたします」



私はペンを取って、一番上の一行の横に追記した。



『訂正:愛してくれと求めるつもりはない。仕事は続けていい。一年で帰れるようにしておく』



それからペンを置いて、旦那様に向き直った。



「では、私からも発言してよろしいでしょうか?」


「ああ」


「私は、議場には戻りません」



旦那様が目を見開いた。



「書記官の仕事は続けます。ノルトハイム領の書記官として。領主会議の議事録は、私が書きます。村長たちも、そのほうが助かると言ってくれました」



声が震えそうになる。どうにかこらえて、続けた。



「ただし、条件が一つあります」


「何だ?」


「これからは、思ったとおりにおっしゃってください。逆さまではなく。全部、記録しますから」



旦那様は長いこと私を見ていたが、やがてぎこちなく椅子から立ち上がって、私の前に移動した。

大きな手が、私の指からペンをそっと抜き取って机に置いた。



「クラーラ」



初めて、名前で呼ばれた。



「愛している。……顔合わせの前から、ずっと」



扉の外で、今度はアルノーまで何か声を上げた。

私は返事をする前に、震える手でペンを取り直した。

書記官だから。

この一行だけは、絶対に書き落とすわけにはいかない。



『十二月二十日 執務室 発言者:ヴァルター・ノルトハイム 「愛している。顔合わせの前から、ずっと」』



書き終えてから、その下にもう一行足した。



『訂正:なし』


「それも書くのか?」


「はい。発言は、すべて記録いたしますので」



旦那様は、王都で初めて会った日と同じように眉間に皺を寄せた。

ただし今度は、耳まで赤い。



「なら、俺も一つ記録してほしい」


「どうぞ」


「君の返事を」



私はペンを置いて、旦那様の外套の胸元をつかんだ。

背伸びをして、その赤い耳に返事をささやく。

旦那様の手が、私の背中にそっと回された。


返事の中身は、手帳に書いていない。

書記官にだって、記録しない発言くらいある。

扉の外でリーザが「ああもう、聞こえないーっ!」と嘆いた。




◇




翌日、私は王宮書記局に手紙を書いた。

議場の席は、ほかの方にお譲りください。

私は北で、とても話の短い領主様の議事録を書いております。

局長から届いた返事は、たった一行。



『そうだろうと思っていた。あなたの速記を、北の方々によろしく』



それから季節が一つ巡って、四月二日が来た。

婚姻の日から、ちょうど一年。

解消の条項が効力を持つ日である。


その朝、執務室の机に婚約の書類の写しが置かれていた。

旦那様が、解消の条項に一本の線を引いて抹消した。

私はその横に「削除」と書き、二人で署名した。

アルノーが立会人として名前を書き入れ、なぜか鼻をすすっていた。


旦那様の言葉は今も短い。

領主会議では相変わらず「西の堰。直せ」と言うし、私も相変わらず手を挙げて「どの堰ですか?」と聞き返す。

ただ、私に向けた言葉だけは、もう逆さまではない。


むしろ、逆さまでなさすぎて困惑することもある。

三月の領主会議では、議題に入る前に旦那様がおもむろに立ち上がった。



「一つ報告がある」



大広間が静まり返った。



「今朝の妻は、可愛かった。以上だ」



村長たちが一斉に私の方を見た。

私は顔から火が出そうになりながら、震えるペンでその一行を記録した。

議事録は村ごとに配付される決まりなので、この発言は翌週、領内の全ての村に届いた。

ハイデ村の子どもたちからは「おめでとうございます」という礼状がまた届き、旦那様はそれを四度読み返していた。



『四月二日 朝食 発言者:旦那様 「今年も、来年も、ここにいてほしい」』



その日の家令日誌に、アルノーの丁寧な字でこう記されていた。


〈本日をもって、旦那様の通訳の役目を辞す。誠に喜ばしい〉



↓番外編「記録しない発言」(ヴァルター視点。顔合わせの前の晩から、妻の返事まで)

https://note.com/wise_turtle184/n/ne641adabe1fa?app_launch=false

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