火魔法使いとパン屋
連日の雨の影響で薪はすっかり湿りきっていた。火はつくのだが、窯の温度が上がらない。ロゼッタの口からはため息も出なくなっていた。
雨の予報だとわかっていたが、もしかしたらという希望を捨てきれなかった。けれど今日も、ロゼッタは店を開けられなかった。ただ、発酵を終えたパン生地は待ってくれず、破棄してしまうほかなかった。
店を閉めて三日目だったが、不完全なパンを出すほどロゼッタはプライドを捨てていない。大切な、自分だけのお店なのだ。
ロゼッタは首都で小さなパン屋を経営している。修行と貯金を兼ねて、かつては首都でも名の知れたパン屋で働いていた。ようやくオープンさせた自分の店は評判も良く、昼頃には売り切れてしまう日も珍しくなかった。
「───?」
試していた窯の火を消そうと立ち上がった瞬間、裏口をノックする音がした。
「はーい」
ロゼッタは裏口の扉へ歩み寄り、開いた。
「……最近、開いてないと思って。何かあったのかなと」
ロゼッタは一目で気が付いた。印象的で、自然と顔を覚えている男の客だった。彼はロゼッタを見下ろしながら、表情をうかがっている。
「こんにちは。すみません、今日もこの雨で閉めるしかなさそうです。薪が湿っていて、窯の温度が上がらなくて」
「……そうですか。首都を離れることになったので、最後にここのパンを食べたかったんだけど」
最後に、ここのパンの味を思い出してくれたのだ。
そのことが嬉しくて、ロゼッタは何とかしてパンを出したいと思った。けれど、火の温度が上がらなければ、それは不可能だ。
「火、弱い?」
遠目で窯を見つめた彼の呟きに、ロゼッタは頷くしかなかった。
「少し、見てもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
彼はの前までくると、しゃがみ込んだ。火を見つめる視線が、やけに真剣に見える。
薪の水分が火で蒸発し黒い煙が上がる。男はその悪臭に顔を歪めていた。
「……このまま焼いたら、どうなりますか?」
火を見つめたまま、彼はロゼッタに尋ねた。
「生焼けになるか、ふっくらとは焼き上がりませんし、煙の臭いがうつります。とてもお出しできるものにはならないと思います」
彼は、少しだけ迷ってから、窯に手を伸ばした。ロゼッタは、その手を追うことしかできなかった。
彼の指先が、窯に触れる。すると、炎の勢いが変わった。湿った薪の水分さえ蒸発させる勢いで、炎は轟々と燃え上がる。ロゼッタは驚きに目を見開いた。
「そんな……どうして……」
彼はゆっくりと人差し指を口元に立てた。
その仕草で、ロゼッタは悟った。魔法を使ったのだ、と。
魔法に関する法律は、ここ数年で目に見えて厳しくなった。
とくに火に関しては顕著で、つい最近首都での火魔法使用が全面的に禁止された。違反すれば、多額の罰金あるいは懲役となる。
ロゼッタが持つ魔法は水魔法だ。発電所付近での使用が禁止されている程度で、日常生活で使うことはほとんどない。久しく、ロゼッタ自身も魔法を使っていなかった。
「……すみません。どうしても、貴女のパンが食べたくて、秘密にしてもらえますか」
そう口にしたものの、パンを食べたいことが彼の理由のすべてではなかった。法律違反だと分かっていても、彼はロゼッタを助けようとしてくれた。もちろんパンも食べたかった。けれど、それだけではなかった。
「ありがとうございます。誰にも言いません」
「法律のせいで、首都では住めなくなって……引っ越すことにしました」
彼は、首都の鍛冶屋で働いていた。薪を節約できる火力と、安定した熱。そのおかげで、武器も鎧も、彼が関わったものは出来が良かった。
だが、その火が問題になったのだ。法律を理由に、別の街の店へ移ることが決まり、長く続いていた首都の工房も畳まれるらしい。
「……それは、悲しいです」
顔も、声も、いつも買うパンも、覚えている。それくらい彼はこの店に通っていた。
必ずパンの感想を伝えてくれる客だった。クロワッサンと、『本日のおすすめ』を一つずつ買う。それだけは、いつも変わらなかった。
──この前のパンは俺好みでした
──これ絶対美味しいじゃないですか
──毎日食べたいなぁ
そんな彼の言葉を思い出して、ロゼッタの頬が熱くなる。
「住みづらくなってきて……でも、きっとロゼッタさんと、パンの味を思い出すと思います」
火に照らされた瞳が、真っ直ぐにロゼッタを見据えた。パンの味と、小さなお店の店主のことを思い出してくれるなんて、ロゼッタの心と顔が熱をもった。
「お名前を、聞いてもいいですか」
「ギフラです。ロゼッタさん」
ギフラは、ロゼッタのパンが好きだった。
そして、そのパンを差し出すときに見せる、彼女の微笑みと声も。
首都を離れたとしても、いつかまた会いに来るつもりでいた。まさか、こんな形で、ほんの少し距離を縮められるとは思っていなかった。
「……火の温度、上げますね。ロゼッタさんのパン、俺は本当に好きです」
パンとわざわざ言ったのは、ギフラなりの照れ隠しだった。
「ありがとうございます、ギフラさん」
雨が止まずに浮かない顔をしていたロゼッタはそこにもういなかった。いつもの店先で見せる笑みに、ギフラは強く心を打たれた。
「火の魔法ってこんなに綺麗なんですね」
「あまり見ないですか?」
「はい。周りにも風や水が多くて。私も水魔法ですけど、美しい魔法とは言えないですね」
手から水が噴き出すだけで、使い道も限りなく少ない。水魔法属性は最も人数が多く、見慣れていることもあった。
「肩身は狭いですけど、火魔法を使えることは誇りに思っています」
こんなに美しい魔法の使用が禁止になってしまうなんて。ロゼッタはそう言葉にしようと思ったが、しなかった。ギフラが一番感じていることだろうから。
そこから、しばらく二人は黙っていた。焼ける音。膨らむ匂い。湿った薪の嫌な匂いは、いつの間にか消えていた。
ロゼッタは、彼が窯を見つめる横顔を盗み見た。目の前のパンを心の底から楽しみにしているのが伝わってきた。暖かい何かが心に染み渡る。
窯の前に並んで座る二人の距離が、思っていたより近いことにロゼッタは気づく。肩が触れそうで、触れない。火の熱のせいだけではない気がして、ロゼッタはそっと視線を落とした。
ぱちり、と薪が弾ける音がして、ロゼッタは小さく肩を揺らした。この音を聞くたび、きちんと焼けていると実感する。
「……暑いですね」
そう言うと、ギフラは少し笑った。
「パン屋さんでそれ言う?慣れてると思ってました」
「私、暑さには弱くて」
ロゼッタの新たな一面を見られた気がして、ギフラは嬉しい反面悲しくなった。もっと早く、彼女との距離を縮めていれば良かった。首都から立ち去る日になってしまうなんて。
やはり、離れたくないという思いが、ふいに浮かんでしまった。
「もうすぐ焼けますよ」
ロゼッタのパンを見る瞳が好きだ。ギフラは気づいてしまった。ただ、気づいたところで今はまだこの時間を楽しみたかった。
その後、パンは綺麗に焼き上がった。
「いい匂いですね」
「焼けた瞬間の香りが、大好きなんです」
「俺も毎朝匂いを楽しみたいな……いや、深い意味はないんですけど」
思わず口から漏れ出てしまった恥ずかしい言葉に、ロゼッタは小さく笑った。
ギフラが窯から離れたあとも、ロゼッタはしばらく火を見つめていた。彼が見ていた場所を、なぞるように。
──次に来たときは、何のパンを選ぶだろう。早く来て欲しい。
そう考えてしまったことに、少し遅れて気づいた。その理由を、ロゼッタはまだ言葉にしなかった。
久しぶりに店を開けると、雨の中でも客は「待っていました」と言わんばかりに列を作った。その中に、彼はいない。焼きたてのパンを持った彼は、街から去っていった。
けれどロゼッタは、それから毎日、少し多めにクロワッサンを焼いた。
売れ残るかもしれない。それでも構わなかった。いつか、また来る気がしたからだ。
あの日のパンは、どうしようもなく、あたたかかった。
ご一読いただき、ありがとうございました。淡い恋心を書きたくなりました。




