第八話:王者の狩り
朝の音がする。
私が目を覚ますと、そこにあったのは見慣れない天井だった。そこにあるのは、金箔を貼った装飾や、何百ものクリスタルが煌めく豪奢なシャンデリアではない。ただ、長い年月を経て風化し、ところどころ角が丸くなった石の梁と、かつての生活の痕跡である煤けた跡が残る天井板があるだけだった。
けれど、その簡素で荒涼とした光景は、不思議なほど私の胸に安らぎをもたらした。
大きく息を吸い込む。鼻をくすぐるのは、昨日まで充満していた古い書物のようなカビ臭さではない。
雨上がりの森特有の、瑞々しい緑の湿り気を帯びた清涼な空気と、洗浄された石材が朝の陽気で乾燥していく時の、独特な乾いた匂いだ。
上体を起こし、固まった筋肉をほぐすように大きく伸びをする。背骨の一つ一つが位置を正すように、パキパキと小気味よい音を立てた。
体の節々に、昨日の労働の証拠とも言える鈍い痛みが残っている。雑巾を絞り、水を運び、石床を磨き上げた結果としての筋肉痛だ。だが、それは決して不快なものではなく、私が自分の手足を使って生きた証のような、心地よい疲労感として体に馴染んでいる。自分の肉体が、ただ着飾るための人形ではなく、生活を営むための機能を持った道具であることを再確認するような感覚だった。
ふと、腰のあたりに柔らかな温もりを感じて視線を落とした。
そこには、闇夜を丸めて置いてあるかのような黒い毛玉が、規則正しいリズムで上下していた。
ベルだ。
自らを暴食の王ベルモスと称するこの尊大な同居人は、今はただの無防備な猫にしか見えない。昨日はあれだけ人間を見下すような態度を取っておきながら、夜になると気温の低下に耐えられなかったのか、当然のような顔をして私のショールの中に潜り込んできたのだ。
艶やかな黒毛は朝の光を吸い込んで、滑らかな光沢を放っている。その寝顔は無垢で、かつて世界を震撼させた魔獣の片鱗など微塵も感じさせない。
私は彼を起こさないように、そっと指先を伸ばした。耳の裏、柔らかい毛の根元を軽く撫でる。
ピクリ、と三角の耳が反応した。次いで、不機嫌そうな金と赤の瞳が薄く開かれ、縦に割れた瞳孔が私を捉える。
「……騒々しいぞ、人間。王の安眠を妨げるな」
寝起き特有のしわがれた声、というよりは、喉を鳴らすような低い唸り声だ。
「もう朝ですよ、ベル。鳥たちが歌っています」
「鳥など知らん。我は夜行性ではないが、早起きが趣味というわけでもない。太陽が中天に昇るまでは、まどろみの中で思索に耽るのが王の務めだ」
「そうですか。では二度寝を推奨しますが……お腹が空きませんか?」
その言葉が引き金となったのか、あるいは彼の体内時計が正確すぎたのか、ベルの小さなお腹がキュルルと情けない音を立てた。
一瞬の沈黙が教会の中に落ちる。
彼はバツが悪そうに身を起こし、誤魔化すように大きな欠伸をした。ピンク色の舌が巻き上がり、鋭い牙が覗く。
「ふん、寝床が硬い。それに少し寒い。王の寝所としては不合格だが……まあよい。現状の設備ではこれが限界ということも理解してやらんでもない」
「寛大なご配慮、感謝いたします」
「うむ。して、朝食はまだか? 我の腹時計は極めて正確なのだ。空腹で目が覚めるなど、王にあるまじき事態だぞ」
やはり第一声はそれだった。
私は苦笑しつつ、枕元に置いてあった革鞄を引き寄せた。留め具を外し、中身を確認する。
分かっていたことだが、状況は好転していない。昨日と同じ、色気も素っ気もない携帯食料が鎮座しているだけだ。
「残念ながら、メニューは昨日と同じです。岩のように硬い干し肉と、石のように硬いパン。お好きな方をどうぞ」
私は布に包まれた保存食を取り出し、彼の前に提示した。
昨日、空腹のあまり勢いで食べた時は気にならなかったかもしれないが、改めて見るとそれは食材というよりは建材に近い硬度を持っている。長期保存には適しているが、美食を楽しむためのものではない。
「……何?」
ベルの動きが止まった。
彼は信じられないものを見るような目で、私の手元と顔を交互に見る。そのオッドアイが見開かれ、驚愕の色を浮かべていた。
「貴様、本気か? あの靴底のような肉を、また食えと言うのか? 我への冒涜も甚だしいぞ。昨日は非常時ゆえに許容したが、二日連続であのような無味乾燥なものを口にするなど、王の尊厳に関わる」
「ない袖は振れません。ここは王都のレストランではないのですから、焼きたてのクロワッサンも、柔らかい仔羊のローストも出てきません。ましてや、冷えた白ワインもありませんよ」
「ならば調達すればよいではないか! 外には食材が溢れている!」
彼は開け放たれた扉の外、朝霧に煙る広大な森を前足で指し示した。
確かにその通りだ。この『還らずの森』は、危険であると同時に生命の宝庫でもある。木の実、キノコ、そして多種多様な獣たち。
「おっしゃる通りです。ですが、私には狩りの技術がありません。貴族令嬢の教育課程に、野生動物の捕獲方法は含まれておりませんでしたので。刺繍やダンス、詩の朗読ならば披露できますが、それがウサギを捕まえる役に立つとは思えません」
私が淡々と事実を告げると、ベルは呆れ果てたように深く息を吐き出した。長い髭が震える。
「まったく……これだから人間は。爪も牙も持たず、魔法の使い方も不器用。よくその脆弱な体で地上を支配できたものだ。貴様らは、他者が整えた環境でしか生きられぬのか」
「知恵と道具がありますから。ですが、今の私にあるのはこの銀のナイフ一本です。これで森の獣を追いかけ回せと?」
私は腰に差していた護身用のナイフを軽く叩いた。
ベルは鼻で笑う。
「貴様の鈍足では、カメすら捕まえられんだろうな」
「失礼な。ダンスのステップなら自信があります。円舞曲のリズムに乗れば、あるいは」
「森の中でワルツを踊って、獲物が寄ってくるなら苦労はせん。むしろ捕食者を呼び寄せるのが関の山だ」
ベルはひとしきり私を馬鹿にした後、ふいと森の方へと向き直った。
その背中から、微かに鋭い気配が立ち上る。
つい先ほどまで丸くなっていた黒猫の愛らしさは消え、食物連鎖の頂点に立つ捕食者としてのオーラが漂い始めた。
「仕方がない。我の復活を祝う宴だ。特別に我が手本を見せてやろう。感謝して待っていろ」
彼は尊大に言い放つと、音もなく地面を蹴った。
足音がしない。草が揺れる音もしない。
黒い影が溶けるように、森の深い緑と同化して消えていく。その動きは物理的な移動というよりは、空間そのものかのような自然さだった。
頼りになる同居人を見送り、私は一人、教会の真ん中に取り残された。
静寂が戻ってくる。
だが、それは孤独による寂しさではなく、自分のペースで物事を進められる自由な時間の始まりだった。
私は調理の準備を整えることにした。
調理と言っても、彼が獲物を持ち帰らなければ始まらないのだが、受け入れ態勢を作っておくことは重要だ。それに、まともな食事をするならば、どうしても確認しておきたいことがあった。
教会の裏手にある水場へ移動する。
ここはかつて修道士たちが共同生活を送っていた場所なのだろう。石造りの広いシンクと、今は使われていないかまどが設置されている。
昨日、徹底的に洗浄魔法をかけたおかげで、石の表面は滑らかで、不潔な苔や汚れは一切ない。
私は、かまどの横にある石造りの棚に目を向けた。昨日の掃除の際に見つけてはいたが、手をつける余裕がなかった場所だ。
そこには、かつての住人たちが残していったであろう食器類が静かに眠っていた。
私は恐る恐る手を伸ばし、埃にまみれたそれらを取り出した。
出てきたのは、分厚い陶器の平皿が数枚、深さのあるスープボウル、そしてガラスではなく金属製のコップだった。どれも装飾は最小限で、実用性を重視した質実剛健な作りだ。王家の食卓に並ぶ繊細な磁器とは比べるべくもないが、この森でのサバイバル生活には、この頑丈さこそが相応しい。
長年の放置により、表面は埃と油膜のような汚れでベタついている。普通なら触るのも躊躇われる状態だが、私には関係ない。
食器をシンクに並べ、私は指先を向けた。
「清らかなる水よ、あるべき姿へ還せ」
詠唱と共に、水流が食器を包み込む。
私の水魔法は、対象の表面から汚れだけを物理的に剥離させる。ゴシゴシと擦る必要もない。水が汚れと皿の間に割り込み、不要なものを弾き飛ばしていくのだ。
一瞬にして、食器たちは新品同様の輝きを取り戻した。
陶器の温かみのある白さが蘇り、金属製のコップ――おそらく錫製だろう――は鈍い銀色の光を反射する。欠けや割れもない。
さらに棚の奥を探ると、木製のスプーンと、鉄製の小さな鍋も見つかった。
私はそれらも同様に洗浄し、水場の脇に並べた。
整然と並んだ食器たちを見ていると、胸の奥が温かくなるのを感じた。
これで、まともな食事ができる。
干し肉をかじるだけの味気ない補給ではなく、皿に盛り付け、スプーンで口に運ぶという「人間らしい食事」が可能になるのだ。それは文明的な生活を取り戻すための、小さくとも確実な一歩だった。
環境は整った。
私は最後に、鞄から銀のナイフを取り出し、その刃先を確認した。
王都の名工が打った銀食器の一種だが、実用性を重視して刃が付けられている。曇りのない銀色が、差し込む朝日で鋭く光った。
切れ味は鋭い。紙一枚でも抵抗なく切断できるだろう。
生きるとは、他の命をいただくこと。
屋敷の厨房で、料理長が肉を捌くのを見たことはあるが、自分の手でそれを行うのは初めてだ。
しかし、不思議と恐怖や嫌悪感はなかった。
むしろ、これから直面するであろう「生命の構造」に対する知的好奇心と、生きるために必要な工程を自ら踏むことへの責任感が、私の背筋を伸ばしていた。
冷たい水で顔を洗い、身なりを整える。
鏡はないが、手触りで髪の乱れがないことを確認し、シャツの袖を捲り上げる。
準備は万端だ。
それから十分もしないうちに、入り口の方で茂みがガサガサと揺れた。
予想よりも遥かに早い帰還だ。
まさか、何も見つからずに戻ってきたのだろうか?
私が顔を向けると、そこには物理法則を疑いたくなるような光景があった。
小さな黒い塊が、自分よりも二回りは大きな白い塊を引きずって歩いてくるところだったのだ。
ベルが口にくわえていたのは、中型犬ほどもある巨大なウサギだった。
耳は長く、力強い後ろ足は丸太のように太い。冬を越すために蓄えた脂肪で、その体躯は丸々としている。
「――獲ったぞ」
ベルは私の足元に獲物をドサリと放り出すと、誇らしげに胸を張った。
激しい狩りをしてきたはずなのに、息一つ切らしていない。毛並み一つ乱れていない。
「これは……随分と大きいですね」
私は目を丸くして、その獲物を見下ろした。
まだ温かい。
死後硬直も始まっていない、つい先ほどまで森を駆けていた命の塊だ。
首元に一箇所、鋭い牙で噛み砕かれた跡があるだけで、余計な外傷はほとんどない。
鮮やかな手際だ。
苦しませず、肉を傷つけず、一撃で仕留めている。
「森のウサギだ。この辺りの主食のようなものだな。動きは早いが、我の攻撃からは逃れられん。まあ、久しぶりの狩りにしては悪くないウォーミングアップだった」
ベルは事もなげに言うが、このサイズの獣を無傷で仕留めるのがどれほど困難か、私にも想像はつく。
やはり彼は、ただの猫ではない。
伝説の魔獣という肩書きは伊達ではないようだ。
「素晴らしい腕前です、ベル。これなら、数日は肉に困りませんね」
「ふん、当然だ。さあ、早く調理しろ。我は腹が減って倒れそうだ。このままでは餓死した王として歴史に名が残ってしまう」
「ええ、すぐに。……と言いたいところですが」
私は巨大なウサギと、自分の手元のナイフを見比べた。
知識はある。
書物で読んだ解剖図や、料理書の手順は頭に入っている。
血抜き、皮剥ぎ、内臓の処理。
だが、実際にこの温かい命の塊に刃を入れるとなると、指先が冷たくなるような緊張感が走る。
それは恐怖ではない。
命を物体へと変える行為への、根源的な畏怖だ。
「……ほう、手が止まっているな」
ベルが私の顔を覗き込む。
その瞳に嘲笑の色はない。ただ、私の覚悟を試すような、静かな光があるだけだ。
「貴族の娘には、荷が重いか? 血を見るのが怖いか?」
「いいえ」
私は即座に否定した。
血なら、夜会で見飽きている。
あそこは、見えない刃で互いを切り刻み、笑顔で精神的な血を流し合う場所だったから。
物理的な血など、それに比べれば清浄といえる。
「怖くはありません。ただ、失敗して肉を無駄にしないよう、手順を脳内で再確認していただけです」
「強がりを。まあいい、我慢して食ってやるから、好きにやれ」
ベルは少し離れた石の上に飛び乗り、特等席で観戦を決め込んだようだ。
私はウサギの後ろ足を掴み、水場のシンクへと持ち上げた。
ずしり、とした重み。
これが命の重さだ。
まずは血抜きだ。
私はフックの代わりに魔法を使うことにした。
意識を集中し、魔力を練り上げる。
「水よ、支えとなれ」
短く詠唱すると、シンクの上にゼリー状の水のクッションが形成された。
ウサギの体を水流で固定し、首元を下に向ける。
ナイフを握り直す。
狙うのは頸動脈。
私は躊躇いを切り捨てるように、刃を突き立てた。
熱い感触が手に伝わる。
ドロリとした赤黒い液体が溢れ出し、シンクへと流れ落ちる。
鉄の匂いが立ち込める。
私は眉一つ動かさず、その作業を見つめた。
残酷さを感じる余裕はない。
これは「食事」を作るための、必要な工程なのだ。
汚い、と思ってはいけない。この血が巡っていたからこそ、この獣は生きていたのだから。
「……悪くない手際だ」
背後からベルの声がした。
どうやら合格点をもらえたらしい。
「血抜きが終われば、次は皮剥ぎだな。腹の皮を傷つけぬよう、慎重にな」
「ええ、分かっています」
血が抜けきるのを待ち、私は次の工程へと移った。
手足の先を切り落とし、内股に沿って皮に切れ目を入れる。
ナイフの切れ味は抜群だ。力を入れずとも、皮がスルスルと裂けていく。
皮と肉の間に指を滑り込ませ、結合組織を引き剥がしていく。
ぬるぬるとして掴みにくいが、私は布を使って指先の摩擦を確保し、一気に引き下げた。
メリメリと微かな音を立てて、まるで厚手の靴下を脱がせるように白い毛皮が剥がれ、赤い筋肉が露わになる。
この時点で、普通の令嬢なら卒倒しているかもしれない。
だが、私はむしろ冷静になっていく自分を感じていた。
現状、それは食べ物で感情を挟む余地はない。あるのは作業への没頭だけだ。
「次は腹だ。内臓を傷つけるなよ。中身が漏れ出れば、肉が台無しになる」
ベルの忠告に従い、私は慎重に腹膜に刃を入れた。
指で内臓を押さえながら、皮だけを切るように進める。
ふわり、と湯気が立ち上る。
内臓が露わになった。
消化管、肝臓、心臓。
まだ微かに温かいそれらを、私は手で掻き出した。
ぬるりとした感触が腕にまとわりつく。
生理的な不快感はある。だが、それを上回る達成感があった。
私は、自分の力で食料を確保しようとしている。
誰かが用意した皿の上の料理を食べるだけの客ではなく、生きるための当事者になったのだという実感。
取り出した内臓を分別する。
レバーや心臓は食べられるはずだ。腸は……処理が面倒だから今回は埋めよう。
最後に、残った肉塊を洗う。
ここからが私の本領発揮だ。
「清らかなる水よ、あるべき姿へ還せ」
私の指先から、勢いよく水が噴出した。
ただの洗浄ではない。
私の水魔法は、対象を「濡らす」のではなく、「分ける」ことに特化している。
肉の繊維に入り込んだ微細な毛や、余分な血の塊、そして目に見えない雑菌のような汚れ。
それらを水の粒子で絡め取り、本体である肉から物理的に引き剥がす。
高圧洗浄機のように、肉塊を洗い上げていく。
シンクに流れる水が赤から透明に変わるまで、徹底的に。
洗い終わった肉は、艶やかな赤色をしていた。
美しい。
先ほどまでの生々しい獣の死骸としての印象は消え、純粋な「食材」としての輝きを放っている。
臭みも完全に消えている。
私の魔法があれば、どんな獲物でも最高の状態で下処理ができるのだ。
「……ほう」
石の上から身を乗り出して作業を眺めていたベルが、感心したように声を漏らした。
彼はシンクの縁に前足をかけ、私の仕事ぶりを検分する。
「水魔法をそう使うか。攻撃には貧弱だが、掃除には便利だな。血の匂いが完全に消えている」
「生きていく上で、これほど有用な魔法はありませんよ。どんなに良い肉も、下処理が悪ければ台無しですから」
私はタオルで手を拭きながら、小さく胸を張った。
王宮の魔導師たちが見れば、高貴な魔力を下働きに使うなと激怒するかもしれない。
だが、知ったことではない。
彼らがドラゴンを吹き飛ばす火球を練っている間に、私は美味しい食事のための準備を整えることができる。
この清潔な肉こそが、今の私にとっての正義であり、勝利なのだ。
私は肉を適当な大きさに切り分け、先ほど洗ったばかりの大きな陶器の皿に並べた。
葉っぱの上ではなく、きちんとした食器の上に並べられた肉は、それだけで料理としての品格を揃えた気がした。
もも肉、背肉、そして内臓肉。
これだけの量があれば、干し肉にして保存することもできるだろう。
明るいキッチン。
整然と並んだ清潔な食器と新鮮な食材。
足元で喉を鳴らす猫。
さて、料理の時間だ。




