第七話:『ベル』と干し肉の味
黒猫の柔らかい腹毛を拭きながら、私は彼を観察した。
封印されていたということは、長い間石像の中に閉じ込められていたということだ。
その魔獣の生態は不明だが、石像から出てきたばかりの彼は、ひどく痩せているようにも見えた。骨格が手に触れる感触が、どこか頼りない。
暴食の王、と名乗った割には、栄養失調気味の野良猫のような体躯だ。
「……何を見ている」
タオルから顔だけ出した彼が、ジロリと私を見た。
濡れた毛が乾き始め、少しずつ黒い毛並みが艶を取り戻している。
先ほどまでの貧相な姿から、本来の美しい黒猫の姿へと変貌しつつあった。
「いえ。随分と痩せていらっしゃるなと」
「ふん、余計なお世話だ。長きにわたる封印で、力が削がれているだけだ。本来の我は、山をも砕く巨躯と、天を覆う翼を持っているのだぞ」
彼は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
嘘をついているようには見えない。
あの石像の姿――翼を持ち、威圧感を放っていたあの造形――が本来の彼なのだろう。
だとしたら、今のこの姿は仮の姿、あるいは力が不完全な状態での圧縮形態ということか。
石像を破壊してしまった責任は私にある。
彼が元の姿に戻るための手助けをする義理は……あるような、ないような。
少なくとも、元の姿に戻ったらこの廃墟には住めないだろうから、今のサイズのままでいてくれた方が都合が良いのだが。
「終わりましたよ」
私は彼を解放した。
タオルを取り除くと、そこにはふわふわに仕上がった黒猫が座っていた。
空気を含んだ毛並みは、闇夜を切り取ったベルベットのように深く美しい。
濡れていた時とは別人のような気品が漂っている。
彼は身震いをして毛並みを整えると、再び尊大な態度で私を見上げた。
「うむ。礼を言うつもりはないが、苦しゅうない手際だった」
「それはどうも」
私は使用済みタオルを畳みながら、軽く肩を竦めた。
どうやら、この同居人はプライドの塊のようだ。
だが、タオルに包まれて無抵抗になっていた先ほどの姿を知っている私としては、彼の威厳など微塵も感じられない。
むしろ、手のかかる弟か、あるいは言葉を覚えたての子供を相手にしているような気分だ。
「それで、貴様。名はなんという」
彼が、改めて問いかけてきた。
私は少し迷った。
真名を教えることのリスク。魔術的な契約において、名前は重要な意味を持つ。
しかし、既にこれだけ接触してしまった以上、隠す意味も薄いだろう。
それに、これからここで共同生活を送るにあたって、互いを「貴様」「お前」と呼び合うのはどうかと思う。
「コレットです。コレット・ド・ヴァロワ……いえ、今はただのコレットです」
家名を名乗る必要はない。
私はもう、ヴァロワ家の人間ではないのだから。
追放された身。何者でもない、ただのコレット。
その響きは、思ったよりも悪くなかった。
「コレットか。ふん、間の抜けた響きだ」
憎まれ口を叩く彼に、私はすかさず反撃する。
「貴方のお名前は、長すぎますね。ベルモス、でしたか? 呼びにくいので、縮めましょう」
「は? 何を勝手なことを……」
「『ベル』。これでどうでしょう?」
「ベ、ベルだと!? そのような愛玩動物のような名で我を呼ぶつもりか! 我は暴食の王……」
「呼びやすいですし、可愛らしいです。決定ですね。よろしく、ベル」
私は有無を言わせぬ笑顔で言い切った。
交渉の基本は、相手に考える隙を与えず、既成事実化してしまうことだ。これは社交界での腹芸で培った技術の一つである。
「ふん、バカバカしい」
ベルは、ふいと視線を逸らすと、まだ濡れている床の一部を避けるようにして、私の鞄の上に飛び乗った。
「……腹が減った」
唐突な要求。
まるで、私が食事を用意するのが当然とでも言うような口ぶりだ。
「我は数百年、何も食っていないのだ。復活の祝いに、最高級の肉を用意せよ!」
要求レベルが高い。
ここは王都のレストランではない。森の廃墟だ。
冷蔵庫もなければ、専属シェフもいない。
あるのは、私が持参した保存食のみ。
「残念ながら、良い肉はありません。干し肉ならありますけど」
私は鞄のポケットから、カチカチに乾燥した干し肉を取り出した。
塩漬けにされ、長期保存用に加工されたそれは、肉というよりは木の皮に近い見た目をしている。
ベルはそれを一瞥し、露骨に顔をしかめた。
「なんだそれは。靴底か?」
「栄養価は高いですよ。噛めば味も出ます」
「断る。我は美食家なのだ。そのような下等な餌は、貴様のような人間が食えばよい」
なんと失礼な。
私は少しムッとしたが、冷静に考えれば、彼が空腹であることは事実だろう。
封印から解けたばかりでエネルギーが枯渇しているはずだ。
わがままを言っている場合ではないはずだが、プライドがそれを許さないのだろうか。
面倒な性格だ。
「じゃあ、私が食べますね」
私は干し肉を小さくちぎり、口に放り込んだ。
塩辛い味が広がる。
確かに美味とは言い難いが、生きるための糧だと思えば、十分にありがたい。
よく噛んで飲み込む。
ベルが、その様子を横目で見ている。
喉が鳴る音が聞こえた。
唾を飲み込んでいる。
金と赤の瞳が、私の手元の干し肉に釘付けになっている。
(……素直じゃないわね)
私は可笑しさを噛み殺し、もうひときれ、干し肉をちぎった。
「ベル。本当にいらないんですか? これしかないんですけど」
鼻先に突き出してやる。
彼はプイと顔を背けたが、鼻はヒクヒクと動いていた。
肉の匂いには抗えないようだ。
数秒の沈黙と葛藤の末、彼は渋々といった様子で口を開いた。
「……毒見は済んだようだな。ならば、特別に食してやらんこともない」
あくまで上から目線。
私は苦笑しつつ、干し肉を彼の口元へ運んだ。
彼はそれをパクりと咥え、奥歯で懸命に噛み始めた。
硬い干し肉に苦戦しているようだが、決して吐き出そうとはしない。
しばらくクチャクチャと咀嚼した後、ゴクリと飲み込む。
「……不味い。塩気が強すぎるし、肉の旨味が死んでいる」
文句を言いながらも、彼の視線は次の欠片を求めていた。
私は無言で、残りの干し肉を差し出した。
彼はそれをひったくるように咥え、今度は前足で押さえながら夢中で食べ始めた。
野生の本能が理性を上回った瞬間だ。
ガツガツと食べるその姿は、暴食の王というよりは、ただの腹ペコな猫そのものだった。
彼が食事に集中している間に、私は周囲の状況を再確認した。
外の雨音はまだ続いている。
日は傾き始め、廃墟の中は急速に暗くなりつつあった。
今日はもう、移動も探索も無理だ。
ここで夜を明かすことになる。
瓦礫の山となった祭壇付近は寝床には適さない。入り口近くの、比較的床が綺麗なスペースを確保する必要がある。
掃除用具はないが、私には魔法がある。
それに、一人ではない。
この生意気で手のかかる黒猫が、相棒として役に立つかどうかは未知数だが、少なくとも孤独ではないというのは、精神的な支えになるかもしれない。
食べ終えたベルが、満足げに顔を洗っている。
その動作は優雅で、先ほどまでの必死さを微塵も感じさせない。
彼は私の方を向き、尊大に告げた。
「ふん、我の寛大な精神で、貴様を特別に認めてやる」
「それは光栄ですこと」
私は棒読みで返した。
ベルは私の膝の上に飛び乗り、そこで丸くなった。
自然な動作すぎて、止める間もなかった。
私の体温を暖房器具代わりにするつもりらしい。
重さはほとんど感じない。むしろ、彼の温かさがじんわりと伝わってきて、心地よかった。
「コレットよ。貴様を我が下僕第一号に任命する。光栄に思うがよい」
「はいはい」
「はい、は一回だ!まったく、人間は礼儀がなっておらんな!」
そんな言いたい放題を言いながらも、彼は大きな欠伸をし、そのまま目を閉じた。
そのまま、数分もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始める。
切り替えの早さに呆れつつも、私は彼の頭をそっと撫でた。
柔らかな毛並みの感触が指に絡む。
ゴロゴロと、喉を鳴らす音が微かに響いた。
外の世界では、私は罪人として追われ、あるいは死んだと思われているかもしれない。
王都の華やかな夜会も、冷たい牢獄のような自室も、もう遠い過去の出来事のようだ。
ここにあるのは、雨音と、静寂と、膝の上の小さな温もりだけだった。
私は壁にもたれかかり、目を閉じた。
泥と埃にまみれた一日だったが、不思議と心は満たされていた。
明日は晴れるだろうか。
どちらにしても、私がやるべきことは山積みだからだ。
闇が深まる中、私はベルの温もりを感じながら、深い眠りへと落ちていった。




