第六話:濡れた猫とタオルケット
視界を埋め尽くしていた純白の輝きが、波が引くように薄れていく。
後に残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂と、鼻をくすぐる粉っぽい匂いだった。
私は反射的に瞼を閉じていたが、光の強度が安全圏まで低下したことを肌で感じ取り、恐る恐る目を開いた。
そこにあるはずのものが、ない。
つい先ほどまで、私が精魂込めて磨き上げ、本来の美しい黒曜石の輝きを取り戻させたばかりのあの獣の石像は、跡形もなく消え失せていた。
代わりに床に散らばっているのは、細かな石のつぶてと、舞い上がる砂煙だ。
「……あぁ」
口から漏れたのは、恐怖による悲鳴ではなく、深い落胆の溜息だった。
汚れと格闘し、水魔法の加減を微調整しながら、指先がかじかむような思いをして整えた成果が、一瞬にして瓦礫の山と化してしまった。
これは、あまりにも破壊的だ。
虚脱感が肩にのしかかる。整然とした状態を好む私にとって、目の前の光景はカオスそのものだった。砕け散った石片は無秩序に床を汚し、せっかく掃き清めた空間に再び混沌をもたらしている。
しかし、嘆いてばかりもいられない。
事態は物理的な破壊だけに留まらなかったからだ。
漂う土埃の向こう側、かつて台座があったその中心に、何かがいた。
瓦礫の山の上に、ぽつんと黒い塊が鎮座している。
私は目を細め、その正体を見極めようと視線を凝らした。
石像の破片だろうか?
いや、違う。
その塊は、微かに上下動を繰り返している。呼吸だ。
生きている。
警戒心が、けだるい疲労を押しのけて鎌首をもたげる。
私は無意識のうちに半歩下がり、いつでも水魔法を展開できるよう、体内の魔力を確認する。
魔獣だろうか。
この『還らずの森』に生息する凶暴な捕食者が、石像の中に潜んでいたとでもいうのか。あるいは、石像そのものが何らかの生物の擬態だったのか。
埃が晴れていくにつれ、そのシルエットが明確になっていく。
小さい。
予想していたような巨大な怪物ではない。
私の足元にあるブーツの大きさともさほど変わらない、掌に乗ってしまいそうなサイズ感だ。
やがて、完全に視界が開けた。
そこにいたのは、一匹の黒猫だった。
いや、猫と呼ぶには少々目つきが鋭すぎるかもしれないが、四本の足、長い尻尾、三角形の耳を持つその形状は、誰がどう見ても猫科の小動物である。
ただし、その状態は決して「愛らしい」と呼べるものではなかった。
全身の毛は水を含んでぺったりと肌に張り付き、本来のボリュームを失って貧相に見える。
私の水魔法を浴びた直後なのだから当然だ。
水滴が毛先から滴り落ち、足元の瓦礫に小さな染みを作っている。
黒猫は不快そうに身を震わせ、小さなクシャミを一つ漏らした。
「……くしゅっ」
その拍子に、長い髭がピクリと震える。
なんとも間の抜けた光景だった。
直前までの、あの圧倒的な光の奔流や、空間を軋ませるような圧力は何だったのか。
私は拍子抜けし、張り詰めていた緊張が解けた。
濡れている。
寒そうだ。
建物自体は密閉性が高く、外の嵐を完全に遮断しているが、彼自身がずぶ濡れなのだ。
そして何より、床に散らばった石の粉が濡れた毛に付着して、泥汚れのようになっているのが見ていて忍びない。
このまま放置すれば、この子は風邪をひくだろう。
私が一歩踏み出そうとした、その時だった。
黒猫がゆっくりと顔を上げ、私を直視した。
その瞳の色に、私は息を呑む。
右目は、太陽を溶かし込んだような鮮烈な金色。
左目は、鮮血を固めたような深い赤色。
オッドアイ。
宝石のように美しいその瞳には、小動物特有の怯えや愛想などは微塵もなく、代わりにこの世のすべてを見下すような、傲慢な知性があった。
「……貴様か」
声が響いた。
それは猫の喉から発せられたものとは思えないほど、明瞭なものだった。
ゆっくりと落ち着いた声、男性の声。
私は驚きに目を見開いたが、すぐに冷静さを取り戻した。
喋る猫。
王都にいるときに、私はそんな猫を見たことはなかった。
しかし、実際に目の当たりにすると、案外すんなりと受け入れられるものだ。
ということは、この黒猫はただの猫なんじゃない――つまり、何かの魔獣だということを示している。
黒猫は、濡れた尻尾を不機嫌そうに揺らしながら、私を睨み据えた。
「我の眠りを妨げ、あまつさえ聖なる封印の上から水をぶちまけた無礼者は」
その口調は尊大で、まるで王座に座る君主が家臣を叱責するかのような響きがあった。
しかし、いかんせん姿が濡れ鼠ならぬ濡れ猫である。
威厳を示そうと胸を張っても、濡れた毛から水滴が垂れるだけで、滑稽さが際立つばかりだった。
「聞こえているのか、人間。我は問うているのだ」
そんな勝手なことを物申す黒猫は、私の沈黙を恐怖による硬直だと解釈したらしい。
金と赤の瞳を細め、さらに言葉を重ねる。
「恐怖に声も出ないか。無理もない。我こそは、かつて世界を震え上がらせ、暴虐の限りを尽くした……」
「あら、風邪をひいてしまうわ」
私は彼の自己紹介を遮り、率直な感想を口にした。
彼の正体が何であれ――魔獣であれ、精霊であれ、あるいは呪われた王子様であれ――濡れたまま放置していいことは何もない。
体温の低下は、万病の元となる。
私は鞄の傍らに置いてあった、変えの服を取り出した際に使った布を手に取った。
吸水性の良い厚手のタオル地だ。
多少ごわついているが、濡れた体を拭くには十分だろう。
タオルを広げ、両手で構えながら、私は黒猫に向かって歩み寄った。
「な、なんだ貴様。その布切れを持ってきて、何をするつもりだ」
黒猫が不審げに身を引く。
私は努めて穏やかな、しかし拒否権を与えない事務的な口調で告げた。
「じっとしていてください。すぐに乾かしますから」
「乾かす? 何を言っている。我の話を聞け。我は……」
「はいはい、お話はあとで伺います。まずは水気を取らないと」
私は彼の言葉を聞き流し、距離を詰める。
相手が魔獣であるという恐怖感は、不思議と希薄だった。
おそらく、その黒猫という姿があまりにも小さく、無防備に見えたからだろう。あるいは、貴族社会という古狸や毒蛇が跋扈する伏魔殿で揉まれたせいで、「この程度なら対処可能」と判断したのかもしれない。
彼の放つ気配は鋭いが、殺意とは違う。
どちらかと言えば、寝起きを邪魔された不機嫌さと、状況が把握できていない戸惑いの方が強く感じられた。
「寄るな! 気安く触るでない! 我は暴食の王ベルモス……!」
彼は濡れた毛を逆立て、威嚇の声を上げた。
ベルモス。
聞き覚えのない名前だ。
公爵令嬢として習った建国の英雄譚にも、神話の悪役にも、そんな名前は載っていなかった気がする。
もしかすると、私の知識が及ばないほど古い時代の存在か、あるいは単なる地方の自称・王様なのだろうか。
どちらにせよ、今の私にとって彼の肩書きなどどうでもよかった。
重要なのは、彼が水を滴らせ、床を濡らしているという事実だけだ。
「むぐっ」
私は彼の抗議を物理的に遮断した。
頭からバサリとタオルを被せ、視界を奪う。
猫という生き物は、視界を塞がれると一時的に動きが止まる習性があると聞いたことがあるが、どうやらこの自称・王様にもそれは適用されるらしい。
一瞬の硬直を見逃さず、私はタオルごしに彼の体を捕獲した。
両手で包み込むようにして持ち上げる。
軽い。
見た目通りの重量だ。中身が詰まっていないのではないかと疑うほど、その体は華奢だった。
しかし、タオルの下からは確かな体温と、驚くほど速い鼓動が伝わってくる。
「き、貴様ぁぁぁ!無礼者!離せ!我を誰だと思っている!」
タオルの中で彼が暴れる。
小さな手足が私の腕を突っ張り、爪を立てようとする気配がする。
だが、厚手のタオルが盾となり、私の皮膚には届かない。
私は構わず、わしゃわしゃと体を拭き始めた。
まずは背中。そして脇腹。
力を入れすぎないよう、しかし水分を確実に吸い取るように、指先を使って揉み込む。
「やめろ! くすぐったい! そこは……!」
「暴れると余計に時間がかかりますよ。風邪をひいて寝込まれては、看病する私が迷惑なんです」
「看病など頼んでおらん! 我は不死身の……ひゃうっ」
首筋のあたりを拭いた瞬間、彼から奇妙な声が漏れた。
急所だったらしい。
私は手ごたえを感じ、そこを重点的に攻めることにした。
耳の後ろから首にかけてのライン。ここは多くの動物にとって、自分では撫でにくい場所であり、他者に触れられると心地よさを感じるポイントだ。
タオル越しに、指の腹で円を描くようにマッサージする。
ゴリゴリと凝り固まった筋肉をほぐすようなイメージで。
「ちょ、待て、そこは……貴様、何をする……」
彼の抵抗が、目に見えて弱まっていく。
突っ張っていた手足から力が抜け、私の手に体重を預けるようになってきた。
「……ふん、まあよい。その手つき、悪くはない」
彼は負け惜しみのように呟いた。
私は内心で勝利のガッツポーズを取りつつ、作業を続行した。
背中の次は尻尾だ。
濡れて細い紐のようになってしまった尻尾を、タオルで挟んで根元から先端へと滑らせる。
水分がタオルに移り、黒い毛がふわりと広がり始める。
お腹周りも忘れてはいけない。
仰向けにさせようとすると、一瞬だけ抵抗を見せたが、「ここが濡れていると一番冷えるんですよ」と説得すると、観念したように大人しくなった。




