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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第一章:断罪の夜と森の廃教会

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第五話:静寂の礼拝堂と水魔法

 濡れた髪をタオルで包み込み、指先で頭皮を揉むようにして水気を吸い取っていく。

 ごわごわとした安物のタオルの感触が、今は何よりも頼もしく感じられた。

 髪の先から滴り落ちる冷たい雫が、首筋を伝って背中へと滑り落ちるたびに、ぞくりとした悪寒が走る。

 無理もない。嵐の中を歩き通し、体温は奪われ、疲労は足の裏から頭のてっぺんまで鉛のように溜まっている。

 けれど、不思議と不快ではなかった。

 この寒さも、体の重さも、すべて私が自分の足で歩き、選び取った結果としてそこにあるからだ。誰かに強要された窮屈なコルセットの締め付けや、社交辞令で凝り固まった表情筋の痛みとはすべてが違う。


 私は大きく息を吐き出した。白い呼気が、薄暗い廃墟の空気に溶けていく。

 まずは、この冷え切った皮膚を覆う、濡れた布切れを取り払わなくてはならない。

 私は周囲を見渡した。

 分厚い石壁に守られたこの空間は、外界の嵐とは完全に切り離されている。雨音は遠く、まるで別世界の出来事のようだ。

 誰の視線もない。

 私は躊躇うことなく、シャツのボタンに手をかけた。


 泥と雨水を吸って重くなった布地が、肌から剥がれていく。

 湿った空気が直接肌に触れると、鳥肌が立った。

 けれど、それ以上に感じたのは、物理的な軽さだった。

 脱ぎ捨てた服を、近くの手頃な岩の上に置く。

 べちゃり、と重たい音がした。

 それはまるで、私がこれまで引きずっていた「公爵令嬢」という重荷そのもののようにも思えた。

 下着だけになり、鞄から乾いたシャツを取り出す。

 麻のざらりとした手触り。

 袖を通すと、乾いた布特有の温かさが体を包み込んだ。

 ボタンを一つずつ留めていく、続いて、替えのズボン。

 革のベルトを腰に巻き、きゅっと締め上げる。

 最後に、新しい靴下を履き、ブーツの紐を結び直した。


 立ち上がり、軽く足踏みをする。

 よし。

 体温が逃げていく感覚が止まり、徐々に自分の熱が戻ってくるのが分かる。

 私は脱いだ服を拾い上げ、できるだけ水気を絞った。

 ジャー、と水が床に落ちる。

 これを乾かすには時間がかかりそうだが、贅沢は言っていられない。

 壁から突き出た、かつて燭台か何かを支えていたであろう錆びた金具に、濡れた服を引っ掛けた。

 建物の密閉性が高いおかげで、湿度はそれほど高くない。数日もすれば乾くだろう。


 身なりが整うと、心にも余裕が生まれてくる。

 私は改めて、この宿を検分することにした。

 靴音が、がらんとした空間に反響する。

 石造りの床は、厚い埃に覆われてはいるが、損傷は見当たらない。堅牢な造りだ。

 天井を見上げると、木組みの梁がしっかりと屋根を支えている。雨漏りの気配は一切ない。

 外では雷鳴が轟いているが、この空間だけは完全に守られていた。

 壁の隅に溜まった埃の量から察するに、数十年、あるいはそれ以上の歳月が経過しているはずだが、倒壊の危険は微塵も感じられない。

 かつてこの場所を造った職人たちの、確かな技術と誠実な仕事ぶりが窺える。


 素晴らしい。


 私は礼拝堂の脇にある小部屋へと足を向けた。

 扉を押し開けると、そこは元司祭の居室と思われる空間だった。

 ベッドが壁際に据え付けられ、重厚な机と椅子が埃を被って佇んでいる。

 奥には暖炉があり、煙突が天井へと伸びていた。煤の跡から察するに、かつては実際に使われていたのだろう。

 私は暖炉に近づき、煙突の状態を確認した。

 詰まりはなさそうだ。掃除をすれば、すぐにでも火を入れられるかもしれない。


「ここが寝室になるわね」


 独り言が漏れる。

 埃さえ払えば、王都の自室よりも快適かもしれない。石壁は外気を遮断し、暖炉があれば冬も越せる。


 次に、建物の裏手へと回った。

 そこには、かつて水回りとして使われていたであろう区画があった。

 石造りのシンクが壁に据え付けられ、その隣には頑丈なかまどが残っている。

 床には排水溝が切られており、水を流せば外へ排出される仕組みのようだ。

 井戸や水路から水を引き込んでいた痕跡もある。


「これは……」


 私は思わず息を呑んだ。

 私の水魔法があれば、この設備は機能する。

 水を生成し、シンクで調理や洗い物を行い、排水溝から汚水を流す。

 とても衛生的で機能的な水回りが実現できるではないか。


 探索を終え、私は確信した。

 ここを、私の城とする。

 掃除さえすれば、この建物は要塞のように快適な住居となるだろう。

 問題は、この数十年分の埃と塵だ。

 だが、それこそが私の得意分野だった。


 私は礼拝堂へと戻り、祭壇のある奥の方へと歩を進めた。

 足元には、風に運ばれてきた枯れ葉が吹き溜まっている。

 歩くたびにカサカサと乾いた音が鳴り、積もった埃が舞い上がる。

 私は無意識のうちに、鼻のあたりを指で押さえた。

 不衛生だ。

 この埃の中には、ダニの死骸やカビの胞子が無数に含まれていることだろう。

 私の生活圏として、これは看過できない状態だ。

 とりあえず、居住空間を確保しなければならないが、その前に――


 私の視線は、空間の中心に鎮座する「主」に吸い寄せられた。

 礼拝堂の最奥。

 本来なら聖女や神の像が祀られているはずの場所に、それはあった。

 石造りの台座の上に、一抱えほどもある大きさの像が置かれている。

 しかし、その形状は、私が知るいかなる宗教的な石像とも異なっていた。

 長い年月による風化と、付着した汚れのせいで細部は判然としないが、全体的なシルエットは「獣」そのものだ。

 低く身を構え、今にも獲物に飛びかかろうとしているかのような躍動感。

 背中には、畳まれた翼のような突起が見える。

 猛獣か、あるいは神話に登場する有翼の幻獣か。


 私は興味を惹かれ、さらに数歩近づいた。

 近づくにつれて、その汚れの酷さが目につくようになった。

 石の表面は、長年の湿気で生じた黒カビと、風に乗って運ばれてきた土埃が層を成し、こびりついている。さらに、鳥の糞らしき白い跡や、絡みついた蔦の痕跡が、像の本来の姿を無惨に覆い隠していた。

 まるで、泥人形だ。

 かつては精緻な彫刻が施されていたであろう表面も、今はただの凸凹とした塊にしか見えない。


 私は眉を寄せた。

 汚い。

 単に「汚れがついている」という事実以上に、あるべき姿が損なわれているという状態そのものが、私の神経を逆撫でする。

 美しいものが汚されているのではない。

 整然としていたはずの秩序が、無秩序な自然の浸食によって乱されているのだ。

 私の美学において、それは許容しがたい感覚だった。


「……ひどい有様ね」


 ぽつりと呟いた声が、石壁に吸い込まれる。

 私は像の足元に視線を落とした。

 そこには、床の石材に直接彫り込まれた、複雑な幾何学模様があった。

 円と直線を組み合わせたその図形は、単なる装飾ではない。魔法陣の構成要素に酷似している。

 だが、その溝にも泥が詰まり、線が途切れてしまっている。

 これでは、たとえ何らかの機能を持っていたとしても、もはや作動することはないだろう。


 私は腕組みをして、その薄汚れた像を見上げた。

 今日からしばらくの間、ここが私の家となる。

 ということは、この像はいわば同居人であり、この家のシンボルということになる。

 毎日、目覚めて最初に目にするのがこの泥まみれの塊というのは、精神衛生上よろしくない。

 それに、家主として場所を借りる以上、最低限の敬意を払って手入れをするのは、礼儀というものだろう。

 ……というのは建前で、本音を言えば、ただ単に私が我慢ならないだけだ。

 目の前に、整えられるべき乱れがある。

 それを放置することは、私の中の規律が許さない。


「お邪魔させてもらうお礼に、少し整えましょう」


 私は誰に言うでもなく宣言した。

 鞄の奥にしまってある雑巾を取り出そうかとも思ったが、この頑固な汚れ相手では、布で擦った程度では落ちないだろう。

 それに、水場までは遠い。バケツもない。

 ならば、方法は一つだ。


 私は像の正面に立ち、足を肩幅に開いて姿勢を正した。

 深く呼吸をし、肺の中の空気をすべて入れ替える。

 湿った廃墟の空気が、肺の奥底まで満ちていく。

 目を閉じ、意識を内側へと向ける。

 へその下あたりにある熱源を探る。

 そこには、確かな魔力の脈動があった。

 貴族社会において、私の魔力は「弱く、役に立たない水属性」と評価されていた。

 攻撃力もなく、派手さもない。

 戦場で敵を焼き払うこともできなければ、強固な城壁を築くこともできない。

 だが、私にとってこの力は、誰かを傷つけるためのものではない。

 生活を整え、理を正すための、もっとも合理的で美しいツールなのだ。


 イメージを構築する。

 頭の中で、水が細やかに整列する様を思い描く。

 荒れ狂う津波ではない。

 岩を砕く激流でもない。

 もっと繊細で、もっと浸透力の高い、静謐な水。

 対象の表面を覆い、そこにあるべきではない埃を優しく、しかし断固として引き剥がす力。


 目を開ける。

 視界がクリアになり、世界がくっきりと浮かび上がる。

 私は杖を取り出すこともなく、ただ静かに、石像に意識を向けた。

 大仰な身振りも、叫ぶような詠唱も必要ない。

 魔法に必要なのは、明確な意志と、具体的な結果の提示。


「――清らかなる水よ」


 私の唇から紡がれた言葉は、静かながらも力強い響きを持って空間に広がった。

 それに応えるように、像の周囲に大気中の水分が集まっていく。

 きらきらと光る微細な粒が渦を巻き、やがてひとつの形として顕現する。

 それは不定形のゼリーのように揺らめきながら、私の意思に従って形を変えていく。


「あるべき姿へ還せ」


 決定的な言葉と共に、私は魔力を解き放った。

 水の塊が、石像をふわりと包み込んだ。

 バシャン、という激しい衝突音はない。

 水はまるで生き物のように、石の表面に吸い付き、這い回り、その凹凸の隅々まで行き渡っていく。


 ここからが、私の魔法の真骨頂だ。

 単に水をかけて洗い流すのではない。それでは表面の泥が落ちるだけで、染み込んだ汚れやカビの根までは届かない。

 私は意識をさらに集中させ、水を操る。

 水の層を、石像の表面と汚れの間に滑り込ませるのだ。

 石材と、泥やカビというゴミ。

 その境界を見極め、水を流し込んでいく感覚。


 水の中で、汚れが浮き上がっていく。

 こびりついていた泥が、水に溶けだし、石像から洗い流されていく。

 石の隙間に食い込んでいた苔の根が、水によって押し出される。

 長い年月をかけて蓄積された垢が剥がれていく。


 それは見ていて、飽きることがない。


 私にとって、これ以上の娯楽はない。


 石像を包んでいた水が、次第に茶色く濁っていく。

 吸着した汚れを取り込み、重く淀んだ色へと変わっていく。

 十分に汚れを引き剥がしたと確信した瞬間、私は掌を横に払った。


「去れ」


 その動作に合わせて、汚れた水が一気に石像から離れ、宙を飛んで入り口の外へと排出された。

 バシャアッ、と外の地面に水が落ちる音がする。

 あとには、水気を含んで艶やかに光る石像だけが残された。


 私は息を吐き、腕を下ろした。

 軽い疲労感が心地よい。

 魔力を通したことで、体内の巡りも良くなった気がする。

 私は改めて、目の前の成果物を見上げた。


 そこには、先ほどまでの泥人形とは似ても似つかない、美しい像があった。

 素材は、深い黒色をした黒曜石に近い石材のようだ。

 磨き上げられた表面は、わずかな光を反射して濡れたような光沢を放っている。

 精緻な彫刻が、鮮やかに蘇っていた。

 一本一本の毛並みの流れまでが忠実に再現され、筋肉の隆起や、翼の羽の重なりまでが見て取れる。

 やはり、獣の像だった。

 どこか猫のようにも見えるが、その体躯はもっと逞しく、威厳に満ちている。

 顔の造形も詳細に見て取れる。鋭い牙を剥き出しにし、眼窩には何か別の宝石が嵌め込まれていた跡があるが、今は空洞になっている。

 その姿は、獰猛でありながら、どこか気高い美しさを湛えていた。


「……ふふっ」


 思わず笑みが零れた。

 汚れが落ちて、綺麗だ。

 石の本来の色、本来の質感、本来の造形。

 それが何の障害もなく目の前にあるという事実が、私を満たしてくれる。

 これなら、同居人として歓迎できそうだ。


 足元の幾何学模様も、詰まっていた泥が綺麗に取り除かれ、くっきりとその形を現していた。

 溝の底まで洗い上げられたそれは、まるで先ほど彫られたばかりのように鋭い線を描いている。

 円と線のバランス、配置。

 作った者の知性と美意識が感じられた。


 私は満足感に浸りながら、ハンカチを取り出して額に滲んだ汗を拭った。

 魔法を使ったことで、少し体温が上がったようだ。

 寒さはもう感じない。

 この廃墟が、少しだけ自分の空間になったような気がした。

 自分の手を入れた場所には、愛着が湧くものだ。

 たった一つの石像を洗っただけだが、それによってこの空間全体の空気が変わったようにさえ感じる。

 澱んでいた空気が動き出し、清浄な気配が漂い始めたような。


 私は石像に近づき、その滑らかな表面に触れてみようと手を伸ばした。

 ひんやりとした石の感触を確かめようとした、その時だった。


 ――ピシリ。


 微かな音が、静寂を裂いた。

 私は手を止めた。

 音は、石像の方から聞こえた気がした。

 気のせいだろうか?

 建材がきしんだ音かもしれない。

 私は耳を澄ませた。


 ピシッ。ピシピシッ。


 いや、違う。

 明らかに、目の前の石像から音がしている。

 硬い氷に亀裂が入るような、繊細で危険な音。

 私は反射的に半歩下がった。

 よく見ると、黒く艶やかな石の表面に、蜘蛛の巣のような細かい筋が走り始めていた。

 先ほどまで磨き上げられていた表面に、白い線が次々と走っていく。


「えっ……?」


 思考が追いつかない。

 私が何かミスをしたのだろうか?

 水の圧力をかけすぎた?

 いや、私の魔法は表面の汚れを落としただけで、石材そのものに負荷をかけるような力は入れていない。

 それとも、この石像自体が古すぎて、汚れによってかろうじて形を保っていたのだろうか?

 長年放置された骨董品が、触れた瞬間に崩れ去るように。

 だとしたら、取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。


 貴重な文化遺産を、私の潔癖症が破壊してしまったのだとしたら――


 その思考は、次の瞬間に起こった現象によって遮断された。


 足元の幾何学模様が、淡い光を帯び始めたのだ。

 最初は蛍の光のように頼りない明滅だったが、次第にその輝きは増し、青白い光が溝を流れるように走り始めた。

 光のラインが複雑に交差し、円を描き、中心の台座へと収束していく。

 魔法陣だ。

 やはり、これは単なる装飾ではなかった。

 泥を取り除き、溝をクリアにしたことで、途切れていた魔法陣が繋がり、その力を取り戻したのだ。


「待って……まさか」


 私の予感が警鐘を鳴らす。

 この魔法陣が起動したトリガーは、私の魔力を含んだ水か。

 私が注ぎ込んだ魔力が、鍵となってこの装置を目覚めさせてしまったのか。

 台座が低く唸りを上げ始めた。

 ヴィン、ヴィン、と空気を震わせる振動が足の裏に伝わってくる。

 石像のひび割れから、強烈な光が漏れ出した。

 内側から何かが、殻を破ろうとしている。


 私は咄嗟に身構えた。

 逃げるべきか?

 だが、出口までは距離がある。

 それに、この現象から目が離せなかった。

 恐怖よりも、好奇心が勝っていた。

 魔法使いとしての私の本能が、これから起こることを目撃せよと告げている。


 バキンッ!!


 一際大きな音がして、石像の翼の部分が砕け散った。

 破片が床に落ち、乾いた音を立てる。

 それを合図にするように、胴体部分にも大きな亀裂が走り、眩い光が溢れ出した。

 私は眩しさに目を細め、腕で顔を覆った。


 光の中で、黒い石塊が崩れ落ちていく。

 パラパラと小石が落ちる音。

 そして、立ち込める土煙と、焦げたような匂い。

 視界が白く染まる中、私は確かに感じた。

 強大な何かの気配が、そこで膨れ上がっているのを。

 それは、ただの石像の崩壊ではない。

 封じ込められていた何かが、長い眠りから解き放たれようとしている。


 私は息を呑み、その光を見つめ続けた。


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