第四話:雨音の森と石造りの教会
森の中へ入ると、雨粒の勢いが少しだけ弱まった。
頭上を覆う幾重もの枝葉が、天然の傘となってくれているようだ。
とはいえ、葉から滴り落ちる雫は冷たく、容赦なく体温を奪っていく。
足元は悪くなる一方だった。
腐葉土と泥が混ざり合い、油断すると足首まで埋まってしまいそうになる。
私は慎重に、木の根や岩など、少しでも固い場所を選んで足を進めた。
視界は悪い。
立ち込める霧が、遠近感を狂わせる。
私は時折立ち止まり、周囲の音に耳を澄ませた。
風の音に紛れて、獣の息遣いが聞こえないか。
枝が折れる音はないか。
幸い、今のところ聞こえてくるのは雨音だけだ。
この豪雨が、私の体臭や足音を消してくれているのかもしれない。その点においてのみ、この悪天候に感謝すべきだろう。
歩きながら、私は周囲の植物を観察した。
見慣れない植物や、毒々しい色をしたキノコ。
王都の温室で育てられているような、鑑賞用の植物とは明らかに違う。
ここにあるのは、生き残るために独自に進化した、強かな命の形だ。
貴族社会での知識――誰それの家系図だとか、流行のドレスの色だとか――は、ここでは何の役にも立たないゴミ同然の知識だが、植物や地理の知識は、そのまま生存に直結する。
しばらく歩き続けると、息が上がり始めた。
普段から鍛えているつもりだったが、足場の悪い山道は予想以上に体力を削っていく。
背中の荷物が、重く感じる。
水分を含んだ衣服が肌に張り付き、動きを阻害する。
一度、休憩を入れるべきか。
いや、止まれば体温が下がる。
動けるうちに、少しでも安全な場所を見つけなければ。
その時、ふと風向きが変わったような気がした。
湿った土の匂いに混じって、何か、別の匂いが鼻を掠めたのだ。
焦げ臭いような、いや、もっと古い、乾燥した石の匂い。
自然界には存在しない、人工的な気配。
私は足を止め、匂いのする方角へと目を凝らした。
木々の隙間、霧の向こう側に、何かが微かに見えた。
岩肌ではない。もっと直線的で、作為的なシルエット。
私は杖代わりの木の枝を突き、慎重にその方向へと進んだ。
近づくにつれ、その輪郭がはっきりとしてくる。
それは、石造りの建物だった。
蔦が絡まり、苔に覆われてはいるが、確かにそこには壁があり、屋根があった。
大きさからして、かつては礼拝堂か何かだったのだろうか。
驚いたことに、外壁の石組みはしっかりとしていて、屋根も形を保っており、まるで時が止まったかのようだ。
窓には水晶がガラスの代わりにはめ込まれており、それは泥で曇ってこそいるが、割れている箇所は見当たらなかった。
「……雨宿りどころか、住居になりそうね」
独り言が漏れる。
安堵よりも先に、警戒心が湧き上がった。
人工物があるということは、かつてここに人がいたということだ。
そして、今は廃墟となっている。
つまり、何らかの理由で放棄された場所なのだ。
魔獣の巣になっている可能性も高い。
私は鞄から銀のナイフを取り出し、逆手に持った。
武器としては心許ないが、ないよりはマシだ。
足音を殺し、建物の入り口へと近づく。
扉は、重々しく閉ざされていた。
取っ手に手をかけ、力を込めて押すと、鍵はかかっていないようで、特に問題なく扉はゆっくりと開いた。
中は暗く、外からは様子が窺えない。
私は入り口の脇に身を隠し、中の気配を探った。
獣臭さは……ない。
代わりに、カビと埃の匂いが漂ってくる。
どうやら、先客はいないようだ。
私は意を決して、中へと足を踏み入れた。
一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
外で轟いていた雨音が、嘘のように遠くなる。
分厚い石壁と屋根が、嵐を遮断していた。
薄暗い堂内。
床には枯れ葉が積もり、天井の隅には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされている。
石造りの床は埃に覆われていたが、ひび割れや損傷は見当たらない。堅牢な造りだ。
まさに、時が止まったまま保存された遺構だった。
屋根は雨を完全に防ぎ、乾いた壁や床がある。
それだけで、今の私にとっては王城の客室以上の価値があった。
私はほっと息を吐き、ナイフを鞘に収めた。
とりあえず、今夜の寝床は確保できたようだ。
私は鞄を降ろし、近くにあった比較的手頃な大きさの石の上に腰を下ろした。
どっと疲れが押し寄せてくる。
緊張の糸が切れたせいだろう。手足が微かに震えているのが分かった。
私は鞄から水袋を取り出し、一口だけ水を含んだ。
ぬるい水が喉を通り、空っぽの胃袋に落ちていく。
生きている。
その実感が、じんわりと広がる。
ふと、堂内の奥に視線を向けた。
そこには、祭壇らしき石の台座があり、その上には何かの像が鎮座していた。
泥と埃にまみれていて、何の像かは判別できない。
ただ、一般的な女神像とはシルエットが違うことだけは分かった。
翼のようなものがあり、姿勢は獣のように低い。
(……掃除しがいがありそうね)
そんな感想が真っ先に浮かぶあたり、私の性根も大概なものだ。
普通なら、不気味だとか、怖いとか思うところだろうに。
でも、汚れているものを見ると、綺麗にしたいという衝動が湧いてくるのは止められない。
それは、乱雑に散らかった状況を整理し、あるべき姿に戻すという、私の根本的な欲求に近いものだった。
私は立ち上がり、祭壇の方へと歩み寄った。
床に積もった枯れ葉が、カサカサと乾いた音を立てる。
近づいてよく見ると、像の足元には、見たこともない魔法陣が刻まれていた。
これまで公爵令嬢として学んだ、どの紋章とも違う、もっと原始的で、力強い線。
興味深い。
けれど、今は魔法使いとしての探究よりも、優先すべきことがある。
私は自分の服を見下ろした。
泥だらけのブーツ。裾が濡れて重くなったズボン。
このままでは風邪をひいてしまう。
まずは着替えだ。そして、この場所を、人間が住めるレベルまで回復させなくては。
私は鞄の口を開け、中からタオルと着替えを取り出した。
これが、私の新生活の第一歩。
誰にも邪魔されない、私だけの城作り。
そう思うと、濡れた服の不快感さえも、これからの作業へのスパイスのように思えてくるから不思議だ。
私は小さく微笑み、タオルで濡れた髪を拭い始めた。
外では雷鳴が轟いているが、この小さな教会の中は静寂に包まれ、穏やかな時間が流れていた。




