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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第十一章:丘の上の晩餐

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第三十九話:王の咆哮、あるいは食後の運動

 王都軍の指揮官、エリオット王子が、焦燥にかられたように軍旗を振り回す姿が、丘の上からでもはっきりと見えた。

 矢も魔法も大砲も通じない。

 彼らの常識を覆すその現実に、理性が焼き切れたのだろう。


「全軍突撃! 魔法がダメなら物理で押し潰せ! あの結界を叩き割れ!」


 その命令は、戦術としてはあまりに稚拙で、下策中の下策だった。

 魔法すら弾く防壁に、剣や槍で挑んだところで結果は見えている。

 だが、恐怖と焦燥に駆られた彼らには、もはや他に手がないのだろう。

 数百人の兵士たちが、自棄になったような雄叫びを上げて、教会へとなだれ込み始めた。

 騎兵が馬を駆り、歩兵が槍を構える。

 彼らは何も知らない。

 教会の周囲には、私が丹精込めて育てた花壇があり、温室があり、そしてイチゴの苗があることを。


「……あ」


 丘の上から見ていた私は、思わず声を上げた。

 先頭集団の騎兵たちが、勢い余って花壇の柵を乗り越えようとしているのが見えたからだ。

 あそこには、ようやく芽を出したばかりのチューリップが植えられている。

 蹄が、柔らかな土を踏み荒らそうとしていた。


「……下郎どもが」


 隣で、低く、地を這うような声がした。

 ベルが立ち上がっていた。

 彼の手には、食べかけのローストビーフサンドが残っているが、その目はもう食事を楽しんではいなかった。

 金と赤の瞳孔が細まり、純粋な怒りが揺らめいている。

 それは、獲物を狙う捕食者の目であり、同時に、自分の領土を侵す者を許さない王の目だった。


「我の庭で、調子に乗るなよ」


 ベルはサンドイッチを一息に飲み込むと、ゆらりと前に出た。

 丘の端、眼下の軍勢を見下ろす位置。

 彼の小さな体から、どす黒い靄のような魔力が立ち昇り、周囲の空気を歪ませる。

 風が止んだ。

 鳥の声も、木々のざわめきも消えた。

 世界が凍りついたような静寂。

 その異変に気づいたのか、下界の兵士たちの動きが一瞬、ピタリと止まる。

 馬がいななき、怯えて後ずさりする。

 動物としての本能が、これから起こる何かを察知したのだ。


 ベルが、軽く息を吸い込んだ。

 小さな胸が膨らむ。

 そして。


「失せろ」


 たった一言。

 物理的な音量で言えば、それは決して大きくはなかった。

 叫び声でも、咆哮でもない。

 ただの、低い呟き。

 だが、その言葉には「暴食の王」としての本質的な力が込められていた。

 魔法でも物理攻撃でもない。

 魂の格の違いによる、絶対的な「威圧」。


 ドォォォォォォン……ッ!!


 空気が震え、見えない衝撃波となって眼下の軍勢を襲った。

 兵士たちの反応から察するに、それは鼓膜ではなく、精神を直接殴りつけたようだった。

 彼らの表情には、心臓を鷲掴みにされたかのような絶望が感じられた。


「あ……が……ッ!?」


 兵士たちが、次々と膝をついた。

 白目を剥き、泡を吹いて倒れる者。

 恐怖のあまり失禁し、その場にうずくまる者。

 馬たちは制御を失い、乗り手を振り落として森の奥へと逃げ去っていく。

 前線にいた数百人の兵士が、たった一瞬で戦闘不能に陥った。

 ドミノ倒しのように崩れ落ちる軍勢。

 残ったのは、後方にいて直接の余波を受けなかった者たちだけだが、彼らもまた、目の前で起きた異常事態に腰を抜かして動けずにいる。


 何が起きたのか、彼らには理解できていないだろう。

 ただ、圧倒的な「死」の気配が通り過ぎたことだけは、骨の髄まで理解させられたはずだ。


「……やりすぎですよ、ベル」


 私は呆れたように言ったが、ベルは涼しい顔で前足を舐めていた。


「手加減はしたぞ。本気で吠えれば、木端微塵になっているところだ」


「それはどうも。おかげで死体の山を見ずに済みました」


 私は眼下に視線を戻した。

 教会の前は、死屍累々――ではないが、気絶した兵士たちの山で埋め尽くされている。

 その中で一人、豪華な鎧を着た指揮官だけが、へたり込んだまま震えていた。

 兜が落ち、見覚えのある顔が露わになっている。

 端正だが、今は恐怖で歪みきったその顔。

 エリオット王子だ。

 やはり、来ていたのか。


「……ひ、ひぃぃ……ッ!」


 彼は後ずさりし、地面を這いずっている。

 その体がガタガタと震えているのが、ここからでも分かった。

 恐怖のあまり、その場にへたり込んでいる姿は、

 かつて私を見下していた尊大な王子とは別人のようだった。


 私に追放を言い渡した男の、あまりに無様な姿。

 同情すら湧かない。

 あるのはただ、冷めた失望だけだ。

 こんな男に、私は人生を左右されかけていたのかと思うと、虚しさすら覚える。


 王子は、何かから逃れるように空を仰いだ。

 そして、目が合った。

 丘の上に立つ、私とベルに。

 逆光の中で、私たちは黒いシルエットとなって彼を見下ろしていたはずだ。

 特に、ベルの金と赤の瞳は、彼の網膜に焼き付いただろう。


「あ……あ……あく、ま……!」


 彼はかすれた声を上げ、そのまま白目を剥いて気絶した。

 精神の許容量を超えた恐怖が、彼の意識を強制的に落としたのだろう。


「さて、食後の運動も済んだことだし、片付けるか」


 ベルが退屈そうに尻尾を振った。

 彼はもう、眼下の敗残兵たちに興味を失っている。

 彼にとって、これは戦いですらなく、ただの害虫駆除だったのだ。

 食事の邪魔をする羽虫を追い払っただけ。


「そうですね。デザートのフルーツが残っていますし」


 私はバスケットから、カットしたリンゴを取り出した。

 シャクッとかじる。

 甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。

 下界では、ようやく正気を取り戻した側近たちが、失神した兵士たちを引きずり、王子を抱えて撤退を始めていた。

 蜘蛛の子を散らすような逃げ足の速さだ。

 捨て台詞を吐く余裕すらないらしい。

 武器も、旗も、大砲も、すべてを投げ出して逃げていく。

 その背中は、あまりに小さく、脆かった。


 軍隊が去った後の庭は、酷い有様だった。

 泥だらけになり、武器や旗が散乱している。

 だが、花壇は無事だった。

 ベルが寸前で止めてくれたおかげだ。

 踏み荒らされそうになったチューリップも、無傷で春風に揺れている。


「……ありがとう、ベル」


 私は彼の頭を撫でた。

 ベルは喉を鳴らし、私の手に頭を擦り付けてくる。

 その毛並みの温かさが、私の心を落ち着かせてくれる。


「礼には及ばん。貴様の悲しむ顔を見たくなかっただけだ」


 素直じゃない。

 でも、それが彼らしい。

 私たちは、撤退していく軍隊の土煙が消えるまで、丘の上で風に吹かれていた。

 遠ざかる蹄の音が、勝利のファンファーレのように聞こえた。


 これで、しばらくは静かになるだろう。

 彼らが再び攻めてくる気力を取り戻すには、かなりの時間が必要なはずだ。

 いや、二度と来ないかもしれない。

 あの恐怖は、彼らの魂に深く刻み込まれたはずだから。

 その頃には、庭のイチゴも赤く熟しているだろう。


「帰ろう、コレット。腹がこなれてきた」


「えっ、まだ食べるんですか?」


「当然だ。デザートは別腹というだろう?」


 ベルは私の肩に飛び乗り、早く帰ろうと急かした。

 私は苦笑しながら、空になったバスケットを手に取った。

 さあ、帰ろう。

 私たちの家へ。

 そこには、温かい紅茶と、平和な日常が待っているのだから。

 私たちは丘を降り、春の光に満ちた森の中へと消えていった。


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