第三十九話:王の咆哮、あるいは食後の運動
王都軍の指揮官、エリオット王子が、焦燥にかられたように軍旗を振り回す姿が、丘の上からでもはっきりと見えた。
矢も魔法も大砲も通じない。
彼らの常識を覆すその現実に、理性が焼き切れたのだろう。
「全軍突撃! 魔法がダメなら物理で押し潰せ! あの結界を叩き割れ!」
その命令は、戦術としてはあまりに稚拙で、下策中の下策だった。
魔法すら弾く防壁に、剣や槍で挑んだところで結果は見えている。
だが、恐怖と焦燥に駆られた彼らには、もはや他に手がないのだろう。
数百人の兵士たちが、自棄になったような雄叫びを上げて、教会へとなだれ込み始めた。
騎兵が馬を駆り、歩兵が槍を構える。
彼らは何も知らない。
教会の周囲には、私が丹精込めて育てた花壇があり、温室があり、そしてイチゴの苗があることを。
「……あ」
丘の上から見ていた私は、思わず声を上げた。
先頭集団の騎兵たちが、勢い余って花壇の柵を乗り越えようとしているのが見えたからだ。
あそこには、ようやく芽を出したばかりのチューリップが植えられている。
蹄が、柔らかな土を踏み荒らそうとしていた。
「……下郎どもが」
隣で、低く、地を這うような声がした。
ベルが立ち上がっていた。
彼の手には、食べかけのローストビーフサンドが残っているが、その目はもう食事を楽しんではいなかった。
金と赤の瞳孔が細まり、純粋な怒りが揺らめいている。
それは、獲物を狙う捕食者の目であり、同時に、自分の領土を侵す者を許さない王の目だった。
「我の庭で、調子に乗るなよ」
ベルはサンドイッチを一息に飲み込むと、ゆらりと前に出た。
丘の端、眼下の軍勢を見下ろす位置。
彼の小さな体から、どす黒い靄のような魔力が立ち昇り、周囲の空気を歪ませる。
風が止んだ。
鳥の声も、木々のざわめきも消えた。
世界が凍りついたような静寂。
その異変に気づいたのか、下界の兵士たちの動きが一瞬、ピタリと止まる。
馬がいななき、怯えて後ずさりする。
動物としての本能が、これから起こる何かを察知したのだ。
ベルが、軽く息を吸い込んだ。
小さな胸が膨らむ。
そして。
「失せろ」
たった一言。
物理的な音量で言えば、それは決して大きくはなかった。
叫び声でも、咆哮でもない。
ただの、低い呟き。
だが、その言葉には「暴食の王」としての本質的な力が込められていた。
魔法でも物理攻撃でもない。
魂の格の違いによる、絶対的な「威圧」。
ドォォォォォォン……ッ!!
空気が震え、見えない衝撃波となって眼下の軍勢を襲った。
兵士たちの反応から察するに、それは鼓膜ではなく、精神を直接殴りつけたようだった。
彼らの表情には、心臓を鷲掴みにされたかのような絶望が感じられた。
「あ……が……ッ!?」
兵士たちが、次々と膝をついた。
白目を剥き、泡を吹いて倒れる者。
恐怖のあまり失禁し、その場にうずくまる者。
馬たちは制御を失い、乗り手を振り落として森の奥へと逃げ去っていく。
前線にいた数百人の兵士が、たった一瞬で戦闘不能に陥った。
ドミノ倒しのように崩れ落ちる軍勢。
残ったのは、後方にいて直接の余波を受けなかった者たちだけだが、彼らもまた、目の前で起きた異常事態に腰を抜かして動けずにいる。
何が起きたのか、彼らには理解できていないだろう。
ただ、圧倒的な「死」の気配が通り過ぎたことだけは、骨の髄まで理解させられたはずだ。
「……やりすぎですよ、ベル」
私は呆れたように言ったが、ベルは涼しい顔で前足を舐めていた。
「手加減はしたぞ。本気で吠えれば、木端微塵になっているところだ」
「それはどうも。おかげで死体の山を見ずに済みました」
私は眼下に視線を戻した。
教会の前は、死屍累々――ではないが、気絶した兵士たちの山で埋め尽くされている。
その中で一人、豪華な鎧を着た指揮官だけが、へたり込んだまま震えていた。
兜が落ち、見覚えのある顔が露わになっている。
端正だが、今は恐怖で歪みきったその顔。
エリオット王子だ。
やはり、来ていたのか。
「……ひ、ひぃぃ……ッ!」
彼は後ずさりし、地面を這いずっている。
その体がガタガタと震えているのが、ここからでも分かった。
恐怖のあまり、その場にへたり込んでいる姿は、
かつて私を見下していた尊大な王子とは別人のようだった。
私に追放を言い渡した男の、あまりに無様な姿。
同情すら湧かない。
あるのはただ、冷めた失望だけだ。
こんな男に、私は人生を左右されかけていたのかと思うと、虚しさすら覚える。
王子は、何かから逃れるように空を仰いだ。
そして、目が合った。
丘の上に立つ、私とベルに。
逆光の中で、私たちは黒いシルエットとなって彼を見下ろしていたはずだ。
特に、ベルの金と赤の瞳は、彼の網膜に焼き付いただろう。
「あ……あ……あく、ま……!」
彼はかすれた声を上げ、そのまま白目を剥いて気絶した。
精神の許容量を超えた恐怖が、彼の意識を強制的に落としたのだろう。
「さて、食後の運動も済んだことだし、片付けるか」
ベルが退屈そうに尻尾を振った。
彼はもう、眼下の敗残兵たちに興味を失っている。
彼にとって、これは戦いですらなく、ただの害虫駆除だったのだ。
食事の邪魔をする羽虫を追い払っただけ。
「そうですね。デザートのフルーツが残っていますし」
私はバスケットから、カットしたリンゴを取り出した。
シャクッとかじる。
甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。
下界では、ようやく正気を取り戻した側近たちが、失神した兵士たちを引きずり、王子を抱えて撤退を始めていた。
蜘蛛の子を散らすような逃げ足の速さだ。
捨て台詞を吐く余裕すらないらしい。
武器も、旗も、大砲も、すべてを投げ出して逃げていく。
その背中は、あまりに小さく、脆かった。
軍隊が去った後の庭は、酷い有様だった。
泥だらけになり、武器や旗が散乱している。
だが、花壇は無事だった。
ベルが寸前で止めてくれたおかげだ。
踏み荒らされそうになったチューリップも、無傷で春風に揺れている。
「……ありがとう、ベル」
私は彼の頭を撫でた。
ベルは喉を鳴らし、私の手に頭を擦り付けてくる。
その毛並みの温かさが、私の心を落ち着かせてくれる。
「礼には及ばん。貴様の悲しむ顔を見たくなかっただけだ」
素直じゃない。
でも、それが彼らしい。
私たちは、撤退していく軍隊の土煙が消えるまで、丘の上で風に吹かれていた。
遠ざかる蹄の音が、勝利のファンファーレのように聞こえた。
これで、しばらくは静かになるだろう。
彼らが再び攻めてくる気力を取り戻すには、かなりの時間が必要なはずだ。
いや、二度と来ないかもしれない。
あの恐怖は、彼らの魂に深く刻み込まれたはずだから。
その頃には、庭のイチゴも赤く熟しているだろう。
「帰ろう、コレット。腹がこなれてきた」
「えっ、まだ食べるんですか?」
「当然だ。デザートは別腹というだろう?」
ベルは私の肩に飛び乗り、早く帰ろうと急かした。
私は苦笑しながら、空になったバスケットを手に取った。
さあ、帰ろう。
私たちの家へ。
そこには、温かい紅茶と、平和な日常が待っているのだから。
私たちは丘を降り、春の光に満ちた森の中へと消えていった。




