第三十八話:届かぬ刃とサンドイッチ
私たちがいる丘から見える眼下。
森の緑に不自然な一団が布陣をしていた。
金属の冷たい輝きと、土埃の灰色。
王都からの討伐軍が、攻撃の準備を整えたのだ。
「構えろッ!!」
指揮官の怒号が、遠く丘の上まで響いてくる。
五百人の兵士たちが一斉に動き出す。
弓兵が矢をつがえ、魔法使いたちが杖を掲げる。
さらに後方では、魔導大砲の砲口が怪しく光り始めた。魔力が充填され、今にも暴発しそうなエネルギーが見て取れる。
「……随分と、大掛かりな花火ですね」
私はサンドイッチを片手に、その様子をぼんやりと眺めていた。
普通なら、震え上がって逃げ出すところだろう。
数百の矢と魔法、そして大砲の直撃を受ければ、どんな堅牢な城壁でも耐えられない。
ましてや、ここはただの古い教会だ。
石造りとはいえ、長年の風雪に晒され、本来なら一撃で崩壊してもおかしくない。
けれど、私には確信があった。
隣にいる、この気まぐれで食いしん坊な王様がいる限り、あの攻撃が私たちに届くことはないという確信が。
「撃てぇぇぇッ!!」
号令と共に、世界が音に埋め尽くされた。
ヒュンヒュンヒュンッ!
無数の矢が、雨のように空を覆う。
ドォォォォン!!
大砲が咆哮し、青白い光弾が放たれる。
さらに、炎の球、氷の槍、雷撃といった攻撃魔法が、色鮮やかな奔流となって教会へと殺到する。
それは、暴力的なまでに美しい光景だった。
死をもたらす虹色の雨。
教会の屋根や壁が粉砕され、土煙が舞い上がる――はずだった。
ガィィィィィン!!
硬質な音が、森全体に響き渡った。
破壊音ではない。何かが弾かれる音だ。
教会の数メートル手前、何もないはずの空中で、すべての攻撃が静止した。
矢が折れ、魔法が霧散し、大砲の弾が粉々に砕け散る。
まるで、見えない壁にぶつかったかのように。
全てが無効化されて、攻撃の成果がまったく得られていない。
「……ふむ」
ベルが紅茶を啜りながら、つまらなそうに鼻を鳴らした。
彼が何かをした素振りはない。
ただ、あくびを噛み殺し、退屈そうに尻尾を振っているだけだ。
だが、私には分かった。
教会の周囲を取り巻く大気が、彼の意思に呼応して変質しているのを。
目には見えない、しかし鋼鉄よりも硬い風の断絶。
彼が呼吸をするように、無意識のうちに展開した絶対的なバリアなのだろう。
矢も魔法も、その大気の層に触れた瞬間、すべての効力を奪われて、無に帰しているのだ。
「……やはり塩気が足りんか? いや、マヨネーズの酸味が効いているから、これくらいが丁度いいのか」
ベルは眼下の爆撃など気にも留めず、卵サンドの感想を口にしている。
彼にとって、五百人の総攻撃など、食事の邪魔をする羽虫の羽音にも劣る些事なのだ。
「気に入っていただけて何よりです。紅茶はいかがですか?」
「うむ。少しぬるいぞ。温め直せ」
私たちは爆音をBGMに、優雅なランチタイムを継続していた。
下界では兵士たちが動揺し、隊列が乱れ始めている。
「なぜ当たらない!?」「何も見えないのに弾かれる!」という悲鳴のような報告が、エリオット王子の元へ集まっていることだろう。彼が顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、さらに攻撃を激化させている姿が目に浮かぶが、どちらにしても結果は同じだ。
ベルの周囲に漂う風の加護は、傷一つ付かず、ただすべての攻撃を弾き続ける。
「さて、次はこれを」
私は重箱の二段目から、ローストビーフサンドを取り出した。
しっとりとした肉と、シャキシャキのレタス。
一口齧ると、凝縮された赤身肉の旨味が口いっぱいに広がる。オニオンソースの甘辛さが食欲を刺激し、次の一口を誘う。
「……美味しい」
戦場を見下ろしながら食べるサンドイッチが、こんなに美味しいなんて知らなかった。
これは背徳感のスパイスだろうか。
いや、自分たちを害そうとする悪意が、まったく届かない安全圏にいるという絶対的な安心感が、味を底上げしているのかもしれない。
「コレット、次はあれだ。あの、肉がたっぷりのやつをよこせ」
ベルが私の袖を引く。
彼もまた、眼下の軍勢など意に介していないようだ。
王都の精鋭部隊よりも、ローストビーフサンドの方が、彼にとっては遥かに価値がある。
「はいはい。どうぞ」
私がサンドイッチを差し出すと、彼は器用に前足で受け取り、大口を開けてかぶりついた。
「むぐ……! うまい! この肉、柔らかいな! 噛むほどに味が染み出してくる!」
「低温でじっくり火を通しましたからね。パンとの相性も抜群でしょう?」
「うむ。合格だ。このソースの甘みもたまらん」
私たちは轟音をBGMに、食の批評会を始めた。
下では、必死の形相で攻撃を続ける兵士たち。
上では、優雅にランチを楽しむ一人と一匹。
この温度差こそが、私たちの最大の武器であり、彼らに対する痛烈な皮肉だった。
「次弾装填! 撃てぇぇ!」
「魔法部隊、詠唱を合わせろ! 一点集中だ!」
指揮官たちの叫び声が枯れ始めている。
攻撃の手は緩まない。むしろ、焦りからか激しさを増している。
大砲が次々と火を噴き、魔法の閃光が絶え間なく瞬く。
だが、結果は同じだ。
すべてがベルの無意識の防壁に弾かれ、虚しく消えていく。
教会は傷一つ負うことなく、静かに佇んでいる。
まるで、彼らの存在そのものを無視するかのように。
「……可哀想に。無駄な努力ですね」
私はサンドイッチを飲み込み、冷たいレモン水を飲んだ。
彼らは気づいていないのだ。
自分たちが戦っている相手が、人間という枠組みを超えた存在だということに。
魔法を行使するために詠唱も、杖も、身振りすら必要としない。
ただそこに在るだけで、大気を従え、世界を拒絶できる存在。
数の暴力も、最新の兵器も、圧倒的な個の前では意味をなさない。
蟻が象に挑むようなものだ。
象は、蟻の存在に気づくことさえなく、ただ歩くだけで彼らを踏み潰してしまうだろう。
「おい、コレット。あそこの指揮官、顔が紫色になってるぞ。血管が切れそうだ」
ベルが面白そうに言った。
彼が指差す先には、馬上で剣を振り回し、地団駄を踏んでいるエリオット王子の姿があった。
プライドをズタズタにされ、理性を失っている。
王族としての品位など、かなぐり捨ててしまったようだ。
「放っておきましょう。彼らも仕事なんです。……まあ、成果の出ない仕事ほど辛いものはありませんが」
「ふん。仕事なら、もう少しマシな相手を選べばよいものを。よりにもよって、この我に喧嘩を売るとはな」
ベルは最後のサンドイッチを口に放り込み、満足げに腹をさすった。
皿の上は綺麗に空っぽだ。
「さて、腹も満ちたことだし、少し運動でもするか」
彼がゆらりと立ち上がる。
その瞬間、周囲の空気が変わった。
のんびりとしたピクニックの空気が霧散し、ピリリとした緊張感が漂う。
ただの食いしん坊な猫から、森の王へと戻る瞬間。
「……ベル? 何をするつもりですか?」
「何、少し挨拶をしてやるだけだ。せっかくここまで来たのだから、王の威光というものを拝ませてやらねば失礼だろう?」
ベルはニヤリと笑った。
その笑顔は凶悪で、それでいてどこか楽しげだ。
捕食者が、獲物を前にした時に浮かべる笑み。
「お手柔らかにお願いしますね。あまり散らかすと、後で掃除が大変ですから」
「善処しよう」
ベルが前へ進み出る。
丘の端、眼下の軍勢を見下ろす位置に立つ。
風が彼の黒い毛並みを撫で、金色の瞳が怪しく輝く。
下界では、攻撃の手が止まりかけていた。
いくら撃っても効果がないことに、兵士たちが動揺し、疲弊し始めているのだ。
絶望的な空気が、軍全体を覆い始めていた。




