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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第十一章:丘の上の晩餐

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第三十七話:最前線ピクニック

 夜明け前の空気は、冷水で洗われたように澄んでいた。

 石造りの教会の中はしんとしていて、私の立てるわずかな衣擦れの音だけが、高い天井へと吸い込まれていく。

 かまどにはすでに種火がいこり、鍋の中では湯が沸く柔らかな音がしていた。

 私は袖をまくり上げ、調理台の上に並べられた食材を見渡す。

 今日という日は、のんびりと寝坊を決め込む休日でもなければ、優雅に読書に耽る平日でもない。

 これから数百の軍勢が、この森を目指して進軍してくる。

 大砲を引きずり、剣を研ぎ、明確な敵意を持って。

 普通ならば、恐怖に震えて荷物をまとめるか、あるいはバリケードを築いて籠城の準備をするところだろう。

 だが、私が手に取ったのは剣でも盾でもなく、研ぎ澄まされた一本の包丁だった。

 戦うつもりはない。逃げるつもりもない。

 私たちが選んだのは、彼らの必死な行軍を「観戦」するという、いささか意地の悪い選択肢だった。

 そのためには、長時間の観劇に耐えうるだけの、心躍る食料が必要不可欠だ。

 これは、そのための準備。

 ある意味で、剣を振るうよりも重要な「戦支度」と言えるだろう。


 まずは、一品目に取り掛かる。

 鍋の中で静かに踊る卵たちを引き上げる。

 殻を割り、つるりとした白肌を露わにする。まだ温かいそれをボウルに入れ、フォークの背で粗く潰していく。

 黄身のほっくりとした感触と、白身の弾力のある手応えが指先に伝わる。

 あまり細かくしすぎないのが、私のこだわりだ。

 口に入れた時、白身のごろっとした食感が残っている方が、食べているという実感が湧く。

 そこへ、あらかじめ作っておいた特製マヨネーズをたっぷりと投入する。

 新鮮な卵黄と、香り高い植物油、そして少量の酢を乳化させた黄金色のソース。

 木べらでざっくりと混ぜ合わせると、ボウルの中身は鮮やかな黄色へと染まっていく。

 塩と、挽きたての黒胡椒をパラリと振る。

 味見をひとつ。

 濃厚な卵のコクと、マヨネーズのまろやかな酸味が舌の上で広がる。胡椒の刺激が後味を引き締め、次の一口を誘う。

 間違いない。

 これを挟むのは、昨日焼いておいた食パンだ。

 一晩寝かせたことで生地が落ち着き、しっとりとした質感になっている。

 厚めにスライスしたパンの片面に、薄くバターを塗る。これは具材の水分がパンに移るのを防ぐためと、風味を足すためのひと手間だ。

 そこへ、先ほどの卵サラダを惜しげもなく盛り付ける。

 端まで均一に、分厚く。

 もう一枚のパンで蓋をして、軽く手のひらで押さえる。

 パンと具材が馴染むのを待つ間、私は次の工程へと移った。


 二品目は、本日の主役とも言える肉料理だ。

 低温で時間をかけて火を通し、肉汁を閉じ込めたローストビーフ。

 塊肉をまな板の上に乗せる。

 表面はこんがりと焼け、香ばしい匂いを放っているが、中は美しい薔薇色に仕上がっているはずだ。

 包丁を引く。

 抵抗なく刃が沈み、薄く切り出された肉の断面が露わになる。

 しっとりと濡れたような赤身。

 予想通りの焼き加減だ。

 これを何枚も切り出し、パンの上に波打つように重ねていく。

 一枚だけでは頼りない薄切り肉も、幾重にも重ねることで、空気を含んだ柔らかな食感と、噛み締めた時のボリューム感を両立させることができる。

 合わせるソースは、飴色になるまで炒めた玉ねぎと、果実酒、そして醤油を煮詰めた特製オニオンソースだ。

 甘みと酸味、そして深みのある塩気が、赤身肉の旨味を最大限に引き立てる。

 肉の上にソースを回しかけ、シャキシャキのレタスと共にパンに挟む。

 『王者のローストビーフサンド』の完成だ。


「……ふあぁ。朝から騒がしいぞ」


 足元から、寝起き特有のかすれた声が聞こえた。

 視線を落とすと、黒い毛玉――ベルが、大きなあくびをしながら前足を伸ばしているところだった。

 まだ眠気が残っているのか、金と赤の瞳はとろんとしているが、その鼻先は正確に調理台の上の獲物を捉えている。


「おはようございます、ベル。お目覚めはいかがですか?」


「悪くはない。夢の中で、牛を一頭丸呑みにする夢を見たところだ。……して、コレットよ。約束のブツは出来ているのだろうな?」


 ベルは音もなく調理台に飛び乗ると、完成したばかりのサンドイッチに顔を寄せた。

 長い髭がピクリと動く。


「もちろんですよ。貴方のリクエスト通り、卵たっぷりのサンドイッチと、ローストビーフを山ほど挟んだ特製品です」


「ほう。卵に、肉か。……うむ、この香り、昨日の約束を違えぬ出来栄えと見える」


 彼が口を開き、ローストビーフの端を齧ろうとした瞬間、私は素早く皿を引いた。

 カチリ、とベルの牙が空を噛む。


「おっと。つまみ食いは禁止ですよ」


「……何をする。味見をしてやろうという王の慈悲を無下にする気か?」


 ベルは不満げに耳を伏せ、抗議の声を上げた。

 その目は「寄越せ」と雄弁に語っている。


「味見なら私が済ませました。これは今日の『観戦』のための重要物資です。ここで食べてしまっては、本番の楽しみが減ってしまいますよ。昨日の夜、あんなに楽しみにしていたじゃありませんか」


「む……。確かに、高みの見物と洒落込みながら食らうと言ったのは我だが」


 ベルは少し考え込むように首を傾げ、やがてニヤリと口元を歪める。


「……ふむ。そうであったな。愚かな人間どもが右往左往する様を肴に、極上の肉を食らう。それこそが今日のメインイベントだ」


「ええ。最高のスパイスになるはずですよ」


「違いない。ならば我慢してやろう。だが、現地に着いたら即座に献上しろよ?」


 ベルは大人しく引き下がった。

 単純で助かる。

 私は彼が手を出さないよう監視しつつ、仕上げの作業に入った。


 取り出したのは、黒塗りの重箱だ。

 以前、街の道具屋で見つけた掘り出し物で、艶やかな漆黒の表面に、金色の縁取りが施されている。

 この和の器に、洋のサンドイッチを詰める。

 そのアンバランスさが、なんとも言えない粋な雰囲気を醸し出すはずだ。


 一段目には、鮮やかな黄色の『黄金の卵サンド』を。

 切り口を上にして並べると、まるで一面に菜の花が咲いたように華やかだ。

 二段目には、『王者のローストビーフサンド』を。

 こちらは重厚な赤と茶色のグラデーションが、食欲をそそる力強さを放っている。

 そして三段目には、口直し用のピクルスと、彩り豊かなフルーツをぎっしりと詰める。

 真っ赤なイチゴ、瑞々しいメロン、そして紫色のブドウ。

 黒い箱の中に並ぶ食材たちは、まるで宝石箱の中身のようだ。


「……美しい」


 ベルが感嘆の声を漏らした。

 彼はテーブルの上で、完成した重箱をうっとりと見つめている。

 その瞳には、これから来るであろう数百の軍勢への警戒心など微塵もなく、ただ純粋な食への渇望だけが映っていた。

 彼が待ち望んでいるのは、敵の来襲ではなく、あくまでこのサンドイッチだ。

 その揺るぎない態度が、私に勇気をくれる。

 最強の魔獣が、ただの食いしん坊として振る舞ってくれるなら、私もただのピクニック客として振る舞えばいい。


「飲み物も忘れずに」


 私は魔法で沸かしたお湯をポットに注ぎ、たっぷりの茶葉を入れた。

 選んだのは、香りの良いアールグレイだ。

 ベルガモットの柑橘系の香りが、肉料理の後味をさっぱりとさせてくれるだろう。

 水筒に茶を移し替え、しっかりと蓋を閉める。

 準備は整った。


 私は重箱を大きな風呂敷で包み、しっかりと結んだ。

 ずっしりとした重みが、手に心地よい。

 これが、今日の私たちの全てだ。


「行きましょうか、ベル。特等席が待っていますよ」


「うむ。早く明日にならんものかと言っていたが、ようやくその時が来たな。我の胃袋も臨戦態勢だ」


 ベルは軽やかに床に降りると、玄関の方へと歩き出した。

 その足取りは軽く、弾んでいる。

 まるで遠足に行く子供のようだ。

 私もバスケットと敷物を手に持ち、彼の後に続いた。


 教会の扉を開けると、ひんやりとした朝の空気が流れ込んできた。

 空はまだ薄暗く、星の名残がちらほらと見えている。

 森は静まり返り、鳥たちのさえずりさえまだ聞こえない。

 嵐の前の静けさ、というやつだろうか。

 けれど、私の心は不思議と凪いでいた。

 手に持った重箱の温かさと、前を行く小さな黒い背中がある限り、何も恐れることはない。


 私たちは教会の裏手にある、小高い丘を目指して歩き始めた。

 草を踏む音が、朝の静寂にサクサクと響く。

 朝露に濡れた下草が、ブーツの先を濡らす。

 坂道を登るにつれて、視界が開けていく。

 ここは、かつてこの場所を拠点にしようと決めた際、最初に見つけたお気に入りの場所だ。

 森全体を見渡せる高台。

 ここからなら、森の入り口から教会へと続く一本道を、手に取るように眺めることができる。

 王都軍がどのような陣形で、どのような顔をして攻めてくるのか、すべてお見通しというわけだ。


 丘の頂上に到着すると、私は手頃な平らな場所を見つけ、レジャーシートを広げた。

 湿気を防ぐ厚手の布地の上に、クッションを並べる。

 ベルは当然のように、一番見晴らしが良く、かつクッションの柔らかい場所を陣取った。


「ここなら、下界の様子がよく見えるな」


 ベルが満足げに言い、ごろんと横になった。

 私は重箱と水筒をシートの中央に置き、その隣に腰を下ろした。

 東の空が、徐々に白み始めている。

 太陽が顔を出そうとしていた。

 光の矢が森に差し込み、霧を晴らしていく。

 木々の緑が鮮やかに浮かび上がり、世界が色彩を取り戻す。

 美しい朝だ。

 これからここで戦争まがいのことが起きるとは、とても思えないほどに。


「……そろそろですね」


 私が呟くと、ベルは片目だけを開けて、森の向こうを睨んだ。


「ああ。臭うぞ。鉄と油、そして人間の欲望の臭いだ」


 彼の感覚は鋭い。

 私にはまだ何も見えないし、聞こえない。

 けれど、森の空気が変わり始めているのは感じ取れた。

 鳥たちが一斉に飛び立ち、騒がしく鳴き始めたのだ。

 動物たちが、異物の侵入を察知して逃げ出している。


 やがて、地平線の彼方に、黒い染みのようなものが見えた。

 それはゆっくりと動き、形を変え、一本の太い帯となって森の街道を埋め尽くしていく。

 王都軍だ。

 距離があっても分かるほどの、圧倒的な数。

 先頭には、見覚えのある紋章旗が掲げられている。

 剣と百合。

 この国を象徴する王家の旗印だ。

 その後ろには、きらきらと朝日を反射する甲冑の群れ。

 騎兵が馬を並べ、歩兵が槍を掲げている。

 さらに後方には、荷車に引かれた巨大な筒状の物体が見えた。

 魔導大砲。

 城壁をも打ち砕く攻城兵器を、たった二人のためにわざわざ運んできたらしい。


「……大層な行列ですね」


 私は呆れたように言った。

 五百人。いや、もっといるかもしれない。

 蟻の行列のように、途切れることなく続いている。

 これだけの人間を動かすのに、どれだけの税金が使われているのだろう。

 その目的が、私という一人の女を捕まえるためだけだというのだから、滑稽と言うほかない。


「ふん。数だけは揃えたようだが、中身は空っぽだ」


 ベルがつまらなそうに鼻を鳴らした。


「あのような鉄屑を並べて、何ができるというのだ。我の爪の先ほども脅威に感じん」


 彼の言葉には、強がりではない、純粋な事実としての響きがあった。

 伝説の魔獣にとって、人間の軍隊など、群れをなした羽虫程度にしか見えていないのだろう。

 その傲慢さが、今は何よりも頼もしい。


 軍勢が近づくにつれ、音が聞こえてきた。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 数百の足音が重なり合い、地響きのような低音となって森を震わせる。

 金属が擦れ合う音。

 馬のいななき。

 指揮官の怒号。

 それらの不協和音が、静かな森の朝を蹂躙していく。


 普通なら、この光景を見て足がすくむだろう。

 圧倒的な暴力の奔流。

 個人の力など無意味だと悟らせる、組織的な圧力。

 けれど、私は冷静だった。

 心拍数は変わらない。手も震えていない。

 隣にベルがいるから、というだけではない。

 私自身が、彼らに対して何の恐怖も抱いていないことに気づいたのだ。

 かつて王城で、彼らの顔色を窺い、機嫌を損ねないように生きていた頃の私は、もういない。

 今の私は、自分の足で立ち、自分の手で生活を切り開いてきた。

 彼らが持っているのは、借り物の権威と、数に頼った暴力だけ。

 そんなものに、私の尊厳を傷つける力はない。


「さあ、始めましょうか」


 私は重箱に手をかけた。

 蓋を開けると、ふわりと美味しそうな匂いが漂った。

 卵の甘い香り。ローストビーフの香ばしさ。

 それが、火薬と鉄の臭いに満ちようとしている空気を、優しく、しかし確実に塗り替えていく。


「ベル、どれからいきますか?」


「決まっている。卵だ。あの黄色い輝きが、我を呼んでいる」


 ベルが身を乗り出す。

 眼下の軍隊よりも、目の前の卵サンドの方が、彼にとっては遥かに重大な関心事なのだ。


 その時、軍勢の先頭が教会の前庭に到達した。

 彼らは扇形に展開し、教会を包囲する。

 完全に逃げ場を塞ぐ陣形だ。

 中に誰もいないとも知らずに、彼らは緊張した面持ちで武器を構えている。


 指揮官らしき男が前に進み出た。

 豪奢な鎧に身を包み、白馬に跨ったその姿。

 エリオット王子だ。

 彼は剣を抜き、教会に向かって何かを叫んだ。

 距離があるため声は届かないが、その身振りから察するに、「出てこい、反逆者!」とでも言っているのだろう。

 顔を真っ赤にして、唾を飛ばしているのが目に見えるようだ。


「……五月蝿いな」


 ベルが卵サンドを片手に、鬱陶しそうに言った。


「せっかくの朝食が台無しだ。もう少し静かにできんのか」


「無理でしょうね。彼らは今、自分が世界の正義を執行しているという陶酔感の中にいますから」


「正義、か。腹の足しにもならん言葉だ」


 ベルは大きな口を開け、サンドイッチにかぶりついた。

 もぐもぐと咀嚼する音が、不思議なほど大きく響いた。


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