第三十六話:疾走する馬車と密告者
春の陽気が、まどろみを誘うような午後のことだった。
私は教会の前庭に置いた木製のテーブルに肘をつき、手の中にあるティーカップから立ち上る湯気を眺めていた。
カップの中には、庭の温室で摘んだばかりのフレッシュハーブを使ったお茶が注がれている。ミントの清涼感あふれる香りが、春の穏やかな風に乗って鼻先をくすぐる。
テーブルの中央には、籠に盛られた焼き菓子。平和な時間が流れていた。
私の足元では、黒い毛玉――もとい、我が家の主であるベルが、日当たりの良い石畳の上で液状化していた。
仰向けになり、無防備にお腹を晒して、太陽の熱を全身で吸収している。
王都からの干渉もなく、ただ穏やかに過ぎていく日々。このまま、この時間が永遠に続けばいいのに。そんな、叶うはずもない願いを抱いてしまうほど、今日の午後は完璧だった。
その静寂を破ったのは、車輪が石を弾く、乱暴な音だった。
ガタゴト、ガタゴト!
遠くから近づいてくるその音は、優雅な馬車のそれではない。何かに追われているかのような、切迫した響きだ。
ベルが片目を開け、不機嫌そうに耳を動かした。
「……騒々しいな。また、例の使い走りか?」
「どうでしょう。あんなに急いで……事故でも起こさなければいいのですが」
森の緑を切り裂くようにして、一台の馬車が飛び出してきた。
幌をかけただけの、塗装も剥げかけた粗末な荷馬車だ。だが、それを引く二頭の馬は、口から白い泡を吹きながら、限界を超えた速度で脚を動かしている。
「止まれぇぇッ!」
御者台に座っていた人物が手綱を引き絞り、悲鳴のような声を上げた。
馬がいななき、砂煙を舞い上げて、馬車は私たちの目の前で強引に停止した。
あまりの勢いに、御者台の人物が転げ落ちるようにして地面に降り立つ。
フードを目深に被り、顔を隠しているが、その巨体と纏う雰囲気には見覚えがあった。
「……ゼェ、ハァ……! 間に合ったか……!」
男は肩で息をしながら、フードを乱暴に剥ぎ取った。
現れたのは、無数の傷が走る禿頭と、眼帯で覆われた左目。
フロンティアの冒険者ギルドを束ねる、ギルドマスターその人だった。
「ギルドマスター? どうしてここに? それにその格好は」
私が驚きの声を上げると、彼は血走った右目で私を捉え、叫ぶように言った。
「くつろいでる場合じゃねぇぞ! 緊急事態だ!」
私は彼に椅子を勧め、冷たい水を差し出した。彼はそれを一気に飲み干すと、荒い息を整えながら話し始めた。
「王都だ。……軍隊が来るぞ」
その言葉は、春の空気を一瞬で凍りつかせた。
「軍隊、ですか」
「ああ。俺が掴んだ情報によれば、先日の使者を追い返したことに激昂したエリオット王子が、面子を潰された腹いせに軍を動かしたらしい。『王家に仇なす反逆者の討伐』という名目でな」
ギルドマスターは声を潜め、しかし切迫した調子で続けた。
「その数、およそ五百。歩兵だけじゃねぇ。大砲や攻城兵器まで持ち出してやがる。完全に『戦争』の構えだ」
五百の兵。そして大砲。
たかが一人の追放令嬢と一匹の猫を相手にするには、あまりに過剰な戦力だ。
一つの砦を落とす規模である。
「……随分と高く評価されたものですね」
「呑気なことを言ってる場合か! 相手は本気だ。この教会ごと、お前らを消し飛ばすつもりだぞ!」
ギルドマスターは私の肩を掴まんばかりの勢いで身を乗り出した。
「逃げろ、コレット。今すぐにだ。ここを捨てて、隣国へ亡命しろ。ギルドの裏ルートを使って手配してやる。金も貸す。だから……」
彼の瞳には、私の身を案じる誠実な色が浮かんでいた。
自分の立場を危険に晒してまで、こうして変装して知らせに来てくれたのだ。その厚意には、感謝してもしきれない。
多勢に無勢。いくらベルが規格外の強さを持っていても、物量で押し潰されればひとたまりもない。そう判断するのが、常識的な大人の考え方だろう。
けれど。
「お気持ちは嬉しいです。ですが……」
私はティーポットを持ち上げ、空になった彼のカップにお茶を注ぎ足した。
琥珀色の液体が、静かにカップを満たしていく。
「逃げるつもりはありません」
「なっ……!?」
ギルドマスターが絶句する。
その横で、それまで我関せずとあくびをしていたベルが、ようやく口を開いた。
「逃げる? なぜ我が?」
彼は鼻で笑い、テーブルの上のスコーンを前足で引き寄せた。
「たかが人間が数百人集まったところで、何ができるというのだ。昼寝の邪魔になる羽虫が増えた程度のことだろう」
「お、おい! 相手は大砲を持ってるんだぞ!? 石造りの教会なんて一撃で……」
「壊される前に壊せばよい。単純な理屈だ」
ベルはスコーンを齧りながら、平然と言い放った。
私も彼に同意するように微笑んだ。
「それに、せっかく植えたイチゴの苗を置いてはいけませんから。もうすぐ実がなるんですよ」
私の言葉に、ギルドマスターは口をあんぐりと開けたまま固まった。
軍隊よりも、イチゴ。
私たちの優先順位が理解できないのだろう。
しかし、これは本心だ。
私が築き上げたこの生活、この場所。理不尽な暴力に屈して明け渡すつもりは毛頭ない。
「……狂ってやがる。どいつもこいつも、肝が太すぎるんだよ」
彼は深いため息をつき、天を仰いだ。
しかし、その表情からは悲壮感が薄れ、代わりに諦めにも似た苦笑が浮かんでいた。
「分かったよ。俺の負けだ。お前らがそこまで腹括ってるなら、これ以上は言わねぇ」
彼は立ち上がり、帽子を被り直した。
「軍の到着は明日か、明後日だ。気が変わったら逃げろよ。……死ぬなよ」
ギルドマスターは背を向け、馬車へと戻っていった。
土煙を上げて去っていく彼を見送りながら、私は静かに決意を固めていた。
戦うのではない。
守るのだ。私の日常を。
◇
ギルドマスターの馬車が土煙を上げて去っていくのを、私たちは無言で見送った。
森には再び、春の穏やかな静寂が戻ってきた。
残されたのは、冷めた紅茶と、これから来る嵐の予感だけ。
しかし、私とベルの間に漂う空気は、緊迫感とは程遠いものだった。
「さて、ベル。どうしましょうか」
私が問いかけると、ベルは前足を舐めながら億劫そうに答えた。
「どうもこうもない。向こうから来るというのなら、迎え撃つまでだ。だが、わざわざ玄関先で出迎えてやる義理もないな」
「そうですね。かといって、庭を戦場にされて、ハーブやイチゴの苗を踏み荒らされるのは絶対に阻止しなければなりません」
五百の軍勢。大砲。
まともにぶつかれば、庭が泥沼になるのは避けられない。
それは困る。非常に困る。
彼らを「排除すべき害虫」として処理するにしても、こちらの生活圏を汚されるのは御免だ。
私が腕を組んで思案していると、ベルがふいと鼻を鳴らし、尻尾で一点を指し示した。
「コレット。明日の朝、あそこへ行くぞ」
彼が示したのは、教会の裏手にある小高い丘の上だった。
あそこならば、森の入り口から教会へと続く一本道を完全に見下ろすことができる。
「あそこへ? どうしてまた、わざわざあんな高いところへ?」
「地べたで蟻どもと戯れるのは芸がないからな。王たる者、愚民を見下ろす位置に座してこそ、その威光も遍く届くというものだ」
ベルは不敵に笑い、金と赤の瞳を細めた。
「あそこなら視界を遮るものもない。一網打尽にするには絶好の配置だ。……それに、風通しも良い」
なるほど。
彼の言いたいことは分かった。
要するに、高いところから広範囲の魔法か何かをぶっ放して、軍隊ごと消し飛ばすつもりなのだろう。
ベルの規格外の火力を考えれば、教会付近で戦うよりも、離れた高所から狙い撃ちにする方が、こちらの被害を最小限に抑えられる。理にかなった判断だ。
私は丘を見上げ、そしてポンと手を打った。
「なるほどですね。あそこなら景色も良いですし、これだけ暖かいなら外で過ごすのも気持ちよさそうです。……そうです、せっかくですからピクニックにしましょう」
「……ククッ」
ベルの喉の奥から、愉快そうな音が漏れた。
「戦場を前にしてピクニック、か。……言うようになったではないか、コレットよ」
「ベルがいれば負けるはずがありませんし、高いところから『見物』するなら、お食事やお茶があった方が楽しいじゃありませんか」
私が悪びれもせずに言うと、ベルは満足げに髭を震わせた。
「違いない。高みの見物と洒落込みながら、眼下の有象無象が右往左往する様を肴に酒を飲む。……うむ、実に王に相応しい余興だ。特別に我がその案、採用してやる」
ベルは立ち上がり、尊大に胸を張った。
「ならば、話は早い。供物を用意せよ。これから王が特等席で観戦するのだぞ? それに見合うだけの、極上の糧が必要だ」
「はいはい。何がよろしいですか?」
「皿など広げていられんからな。片手でつまめるものがよい。愚民どもをあしらいながら、優雅に食せるものを所望する」
片手で食べられて、優雅なもの。
私の脳裏にいくつかのメニューが浮かぶ。
「それなら、サンドイッチが最適ですね。パンに具材を挟めば、片手で食べられます」
「ほう、サンドイッチか。……中身は妥協するなよ? 黄金の輝きを放つ卵と、あと肉だ。分厚い肉を挟め」
ベルの要求は具体的だった。
どうやら、彼の頭の中ではすでに「戦争」よりも「食事」の比重が大きくなっているらしい。この余裕こそが、彼が最強たる所以なのだろう。
「分かりました。特製の卵サラダたっぷりのやつと、ローストビーフを贅沢に挟んだ豪華なやつにしましょう。どうですか?」
私がメニューを告げると、ベルの喉がゴクリと鳴った。
金色の瞳が、期待に爛々と輝く。
「……うむ。悪くない、いや最高だ」
彼は上機嫌に尻尾を揺らした。
「よかろう。明日は早起きだぞ、コレット。王のピクニックに遅刻は許されんからな」
「ありがとうございます。では、準備に取り掛かりますね」
方針は決まった。
私たちは戦わない。ただ、日常を続けるだけだ。
ベルが丘の上から眼下の軍勢を見下ろす間、私はその隣で、美味しいサンドイッチとお茶を用意する。
彼らが必死の形相で攻め込んでくるのを、特等席から優雅に「見物」するのだ。
その余裕こそが、彼らに対する最大の侮辱であり、私たちの勝利宣言となる。
私はギルドマスターを見送った後、おもむろにキッチンの棚を開いた。
取り出したのは、黒塗りの重箱だ。
以前、特別な日のためにと用意しておいた、三段重ねのお弁当箱。
これを使う日が、まさか軍隊を迎え撃つ日になるとは思わなかったけれど。
「さて、準備にかかりましょう」
キッチンに立ち、私はパンの入った袋を取り出した。
昨日のうちに焼いておいた、耳まで柔らかい食パンだ。サンドイッチにするには、焼きたてよりも少し落ち着かせた方が切りやすく、味も馴染む。
「……ベル、つまみ食いは禁止ですよ」
背後で忍び寄る気配に、私は振り返らずに釘を刺した。
ベルが不満げに舌打ちをする音が聞こえる。
「チッ……。気配を消していたはずなのだが」
「貴方の食い意地は、殺気よりも隠しきれていませんから」
私は手際よく下準備を始める。
卵を茹で、肉をマリネ液に浸す。
ベルはテーブルの上で、まだ見ぬサンドイッチを想像しているのか、うっとりとした表情で尻尾を揺らしている。
これから彼がやろうとしていることは、きっと恐ろしいことなのだろう。
五百の軍勢を相手に、「一網打尽」などと物騒なことを言っていたのだから、地形が変わるくらいの魔法を使うのかもしれない。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
彼が私のために――いや、自分の食卓のために怒ってくれていることが分かるからだ。
「楽しみですね、ベル」
「うむ。早く明日にならんものか」
夕闇が迫る中、教会の窓からは温かな光が漏れ続けていた。
その光は、迫り来る軍勢の足音など意に介さず、ただ静かに、揺るぎなく輝いていた。
明日は、いい天気になりそうだ。
絶好のピクニック日和に。




