第三十五話:雪解けの音と春の苦味
季節の変わり目というのは、目に見える景色よりも先に、耳に届く音によって知らされるものらしい。
石造りの寝室で目を覚ました時、最初に感じたのは静寂の変化だった。
長い冬の間、この教会を包み込んでいたのは、風が唸るような重低音や、降り積もる雪がすべてを吸い込んでしまうような、重たい無音の世界だった。そこには、厳しい寒さが牙を剥いて待ち構えている気配が常にあったのだ。
けれど今朝は違った。
窓の外から聞こえてくるのは、ポチョン、サラサラ、という軽やかな音色だ。
私は毛布を跳ね除け、窓辺へと歩み寄った。留め金を外し、木枠を押し開ける。
ひやりとした空気が流れ込んできたが、それはもう肌を刺すような刃物の鋭さを持っていなかった。どこか丸みを帯びた、水の匂いを含んだ風だ。
「……ようやくですね」
眼下を見下ろせば、一面の銀世界だった教会の庭に、黒い土の斑点がいくつも浮かび上がっていた。
屋根から滴り落ちた雫が、軒下で小さな水たまりを作り、それが細い筋となって低い方へと流れている。
太陽の光を受けてきらきらと輝く無数の水流。
それはまるで、森全体が大きく背伸びをして、冬の眠りから覚めようとしている吐息のように見えた。
視線を少しずらすと、ガラス張りの温室が朝日を反射して輝いているのが見えた。
冬の間、私たちに貴重な緑と香草を提供し続けてくれたあの場所も、外気の温まりとともに、どこか誇らしげに見える。ガラス越しに見えるバジルやローズマリーの緑が、今までよりも一層濃く、生き生きとしている気がした。
庭の鶏小屋からは、「コッコッ」という元気な鳴き声が聞こえてくる。寒さで身を寄せ合っていた鶏たちも、今日は外に出て羽根を伸ばしているようだ。
私は深く息を吸い込んだ。
肺の中が、瑞々しい空気で満たされていく。
この森に来てから初めて迎える春だ。
追放された直後の絶望も、冬の寒さへの恐怖も、王都からの使者との諍いも、すべてが雪解け水と共に洗い流されていくような気がした。
「おい、下僕。なぜ朝から窓を全開にするのだ」
背後から、不満げな声が飛んできた。
振り返ると、ベッドの上で黒い毛玉となっていた相棒――暴食の王ベルモスこと、ベルが、半目でこちらを睨んでいる。
彼は寒がりだ。冬の間は暖炉の前か、私のベッドの中が定位置だった。
「おはようございます、ベル。もう春ですよ。いつまでも冬眠気分でいては、美味しいものを逃してしまいます」
「春? ふん、地面がぬかるんで歩きにくい季節ではないか。我の肉球を泥で汚せと言うのか」
ベルは鼻を鳴らし、再び毛布の中に潜り込もうとする。
どうやら、この最強の魔獣は、春の情緒よりも足元の衛生状態を気にするらしい。
「そんなことを言わずに。今日は久しぶりに、森へ散策に行きましょう。雪が溶けた直後の、ほんの短い期間しか味わえない『大地の恵み』を探しに行くんです」
私が楽しげに提案すると、毛布の膨らみがピクリと止まった。
のそり、と黒い頭が出てくる。
金と赤の瞳が、私を疑わしげに見つめている。
「……大地の恵みだと?この泥だらけの森に、何か美味いものがあるのか?」
「ありますとも。肉や魚のような派手さはありませんが、生命力に溢れた、この時期だけの贅沢です」
私は収納箱を開け、冬の間ずっとお世話になっていた厚手のコートを奥へと押しやった。
代わりに、動きやすい厚手のカーディガンと、防水加工を施した革のブーツを取り出す。
身軽になるだけで、心まで浮き立つようだ。
「……仕方あるまい。貴様一人で行かせて、冬眠明けの熊に襲われては、我の昼食を作る者がいなくなるからな。護衛としてついて行ってやろう」
ベルは恩着せがましく言いながらも、軽やかにベッドから飛び降りた。
その尻尾が、期待を含んでゆらりと揺れているのを私は見逃さなかった。
◇
教会の扉を開けると、陽射しの暖かさに驚かされた。
空は高く、澄み切った青色が広がっている。
庭先では、鶏たちが雪解けの地面をついばみ、温室の換気窓からはハーブの爽やかな香りが漂ってくる。
命の息吹を感じながら、私たちはまだ残雪の残る森の小道へと足を踏み入れた。
ザク、ジュワッ。
ブーツが雪を踏むたびに、小気味よい音と水音が響く。
ベルはというと、私の予想通り、泥に触れるのを嫌がっていた。
彼は風魔法を巧みに操り、地面から数センチ浮いた状態で、ふわふわと私の後をついてくる。
まるで幽霊か何かのようだが、本人は至って真面目な顔で「王たるもの、地べたを這う必要はない」などと言っている。便利な魔法の無駄遣いだと思うけれど、口には出さないでおいた。
「おい、コレット。一体何を探しているのだ? さっきから地面ばかり見て」
ベルが呆れたように声をかけてきた。
私は手にした籠を揺らしながら、足元の枯れ葉や残雪に目を凝らしていた。
「緑色の、小さな蕾のようなものです。日当たりの良い斜面や、水辺の近くにあるはずなんですが」
私は杖の先で、湿った落ち葉をそっとかき分けた。
黒い土と、朽ちた葉の匂い。
その隙間から、鮮やかな黄緑色が顔を出した。
土の中からひょっこりと現れたような、愛らしい球状の植物。
「あ、ありました! これです!」
私は嬉々として駆け寄り、しゃがみ込んだ。
ベルも興味深そうに空中を浮かびながら、ふわふわと近づいてくる。
「……なんだそれは。ただの草ではないか」
私の手元を覗き込んだベルが、露骨に失望の色を浮かべた。
そこにあったのは、幾重にも重なった薄緑色の苞に包まれた、フキノトウだ。
「肉ではないのか? あるいは甘い果実とか」
「これはフキノトウと言って、春を告げる山菜です。これを食べると、冬の間に体に溜まった澱みが抜けると言われているんですよ」
私はナイフを取り出し、フキノトウの根元を慎重に切り取った。
手に取ると、独特の青い香りが鼻をくすぐる。どこか懐かしい、大地の匂いだ。
「そんなもの、魔力で分解すればよい。わざわざ苦そうな草を食う必要はないだろう」
ベルは興味なさげにプイと横を向く。
肉食獣の彼には、この魅力はまだ伝わらないらしい。
私は苦笑しながら、籠の中にフキノトウを入れた。
まだ開ききっていない、硬く締まった蕾のようなものが美味しいのだ。
「苦いだけじゃありませんよ。この苦味こそが、春の味なんです。調理法次第で、驚くような御馳走になるんですから」
「ふん。お手並み拝見といこうか」
私たちはさらに森の奥へと進んだ。
日当たりの良い斜面に出ると、今度はトゲのある細い木が群生している場所を見つけた。
その枝先に、王冠のような形をした新芽がついている。
タラの芽だ。
山菜の王様とも呼ばれる逸品である。
「タラの芽もありました。今日は大豊作ですね」
私は厚手の手袋をして、慎重に芽を摘み取った。
トゲがあるので注意が必要だが、その分、味は格別だ。
ぽきり、ぽきり、と手で折る感触が心地よい。
ふと見ると、ベルが近くの木の枝に止まっている小鳥を目で追っていた。
狩猟本能がうずいているのだろうか。
でも、今日はお腹いっぱいになる予定なので、小鳥たちを見逃してあげてほしいところだ。
「ベル、そっちに何かありますか?」
「……いや。ただ、森が騒がしくなったなと思っただけだ」
ベルが耳をピクリと動かした。
確かに、冬の間は沈黙していた森が、今は小鳥のさえずりや、小動物が草むらを駆ける音で満ちている。
生き物たちが一斉に動き出したのだ。
「王都の連中も、この賑やかさに紛れて来なければいいのですが」
ふと、そんな懸念が口をついて出た。
先日の使者を追い返してから数週間。彼らは沈黙を守っている。
私の予測通り、雪深い森を軍隊が進むことはできなかったのだろう。
けれど、この雪解けは、同時に彼らの進軍が可能になることも意味している。
道が乾き、馬車が通れるようになれば、あの紋章を掲げた軍団がやってくる。
「来たら来たで、また追い払うまでだ。それに、今の我は機嫌が良い。この陽気のおかげかな」
ベルは空中であくびをし、背伸びをした。
確かに、今日の彼はいつになく穏やかだ。
ポカポカとした陽射しが、最強の魔獣の闘争心を溶かしてしまったのかもしれない。
あるいは、ただ単に空腹でないだけかもしれないが。
一時間ほどの散策で、籠にはフキノトウ、タラの芽、そして少しだけ顔を出していたノビルなどが山盛りになった。
肉や魚のような派手さはないが、この生命力溢れる緑色は、何よりも贅沢な春の宝石だ。
土と草の匂いにまみれた私は、心地よい疲労感と共に立ち上がった。
「さあ、帰りましょうベル。最高のお昼ご飯にしますよ」
「……その草が最高になるとは思えんが。まあ、貴様の料理の腕だけは信用している。期待外れだったら、代わりに貴様の秘蔵の干し肉を食い尽くしてやるからな」
「それは困ります。全力を尽くしますよ」
私たちは意気揚々と教会へ戻った。
帰り道、私の足取りは行きよりもずっと軽かった。
◇
教会に戻ると、私はすぐにキッチンに立った。
籠いっぱいの山菜をシンクに広げ、丁寧に水洗いする。
冷たい井戸水で泥を落とし、フキノトウの外側の汚れた葉を取り除く。
タラの芽の袴の部分もきれいに掃除する。
単純作業だが、これを怠ると口当たりが悪くなる。料理は下準備が命だ。
本日のメニューは、これらを使った「天ぷら」だ。
山菜の苦味と香りを最大限に楽しむには、油で揚げるのが一番だ。
熱でアクが和らぎ、油のコクが加わることで、食べやすくなる。
まずは衣作り。ここが最大のポイントだ。
ボウルに卵を割り入れ、冷水を加えてよく混ぜる。
水は、事前に水魔法でキンキンに冷やしておいたものを使う。温度差がサクサク感を生むのだ。
そこへ小麦粉をふるい入れ、菜箸でさっくりと混ぜる。
混ぜすぎてはいけない。粉っぽさが残るくらいでいいのだ。粘り気を出さないことが、軽やかな食感を生む秘訣である。
厚手の鉄鍋に油をたっぷりと注ぎ、火にかける。
油の温度が上がるにつれて、香ばしい匂いが立ち上る。
菜箸を入れ、細かい泡がシュワシュワと上がってくるのを確認する。
適温だ。
「ベル、見ていてくださいね。ここからが魔法の時間ですよ」
テーブルの上で待機しているベルに声をかけ、私は調理を開始した。
フキノトウに薄く打ち粉をし、衣液にくぐらせる。
ポタリと余分な衣を落とし、油の中へと静かに滑り込ませた。
シュワワワワッ……。
心地よい音が響き、細かい泡がフキノトウを包み込む。
衣の中で水分が蒸発し、素材の味が凝縮されていく音だ。
続いてタラの芽も投入する。
鍋の中がお花畑のように賑やかになる。
油の表面で踊る山菜たちを見ていると、不思議と心が弾む。
テーブルの上で、ベルが鼻をヒクヒクさせていた。
「……ほう。油の焼ける匂いか。悪くない」
彼は身を乗り出し、鍋の中を覗き込もうとする。
金色の瞳が、油の中で変化していく山菜たちを追っている。
「危ないので離れていてくださいね。油が跳ねますから」
「ふん、我の反射神経なら油の一滴など避けるのは容易いが……まあ、大人しく待っていてやろう」
衣が固まり、軽快な音に変わったところで引き上げる。
網の上に乗せて油を切ると、そこには薄衣を纏い、鮮やかな緑色が透けて見える美しい揚げ物が完成していた。
黄金色の衣と、内側から透ける春の色。
熱々のうちに皿に盛り付け、最後に粗塩をパラリと振る。
天つゆもいいが、山菜の香りを殺さないためには、シンプルな塩が一番だ。
「お待たせしました。春の山菜天ぷらです」
私は湯気の立つ皿をテーブルに運んだ。
ベルは皿の上に乗った物体を、しげしげと観察している。
前足でちょんちょんと皿の縁を叩き、確認作業をしているようだ。
「見た目は……まあ、金色の衣を纏って少しはマシになったか。だが、中身はただの草だろう? 本当にこれが旨いのか?」
「騙されたと思って、熱いうちに一口食べてみてください。やけどしないように気をつけて」
私は自分の分の箸を取り、フキノトウを一つ摘み上げた。
口に近づけると、熱気と共にフキノトウ特有の香りが立ち上る。
パクリ。
口に入れる。
サクッ。
軽やかな音と共に、衣が砕ける。
その瞬間、口の中に広がるのは、強烈な春の息吹だ。
フキノトウ独特の、鼻に抜けるような清涼感と、舌の奥に残るほろ苦さ。
だが、それは決して不快なものではない。油のコクが苦味を包み込み、塩気が素材の甘みを引き立てている。
噛むたびに、ジュワッと溢れるエキス。
冬の間に縮こまっていた味覚が、一気に開花するような感覚だ。
「……んんっ、美味しい」
思わず声が漏れる。
これだ。この苦味こそが、体に活力を与えてくれるのだ。
私の恍惚とした表情を見て、ベルも恐る恐るタラの芽に口をつけた。
猫舌の彼は、慎重に端っこを齧る。
カリッ、サクッ。
良い音がした。
彼は咀嚼し、首を傾げ、そしてカッと目を見開いた。
「……む?」
彼の動きが止まる。
金色の瞳が、驚きに揺れている。
口の中のものを飲み込み、信じられないといった顔で皿を見つめ直した。
「なんだこれは……。苦い。確かに苦いのだが……嫌な苦さではない」
彼はもう一口、今度は大きく頬張った。
「衣のサクサクとした食感と油の旨味、その後に来る青い香りと、じんわり広がる苦味。その対比が、次の一口を誘う……! 塩が絶妙だ。この苦味があるからこそ、塩の甘みが際立っている!」
「大人の味が分かってきましたね、ベル」
「生意気な。だが、認めよう。これはただの草ではない。大地の生命力を油で閉じ込めた、うま味の塊だ!」
ベルの食欲に火がついたようだ。
彼は次々とフキノトウやタラの芽を平らげていく。
あれほど「草など食えるか」と言っていたのが嘘のような勢いだ。
サクサク、カリカリという咀嚼音が、心地よいリズムとなって響く。
「コレット! もっと揚げろ! 足りんぞ! これは酒だ! 酒を持ってこい! この苦味には、辛口の白ワインか、冷やしたエールが合うはずだ!」
「昼間からお酒ですか? まあ、これだけの御馳走なら仕方ありませんね」
私は苦笑しながら席を立ち、保存庫から白ワインを取り出した。
キリッと冷えたワインをグラスに注ぐ。
ベルには、専用の平皿に少量を注いであげる。
ベルは猫舌でワインを舐め、その猫の手で天ぷらをパシパシと器用に叩きながら、かぶりついて齧っていく。
「……くぅーっ! たまらん! 苦味をワインで流し込むこの快感! これぞ王の休日に相応しい!」
ベルは上機嫌に尻尾を振っている。
私もグラスを傾け、窓の外を見た。
雪解けの進む森は、明るい陽射しに満ちている。
平和だ。
この上なく。
ふと、遠くの空を見る。
王都の方角だ。
雪が溶ければ、道が開く。
彼らはきっと来るだろう。面子とプライドをかけた騎士団を引き連れて。
この静寂が破られる日は、そう遠くないかもしれない。
けれど、今は考えないことにしよう。
不安で胃を縮こまらせるよりも、春の苦味とワインの味を楽しむ方が、よほど建設的だ。
それに、ここには王であるベルがいる。
何より、この美味しい食事を守るためなら、私はどんな相手にだって立ち向かえる気がした。
「……うまい。春というのも、悪くないな」
ベルが満足げに喉を鳴らした。
口の周りに衣の屑をつけている姿がおかしくて、私はふふっと笑った。
ナプキンで彼の口元を拭ってあげる。
「ええ。春は美味しい季節ですから」
私は揚げたてのフキノトウをもう一つ、彼の皿に追加した。
サクサクという音と、二人の笑い声が、春の教会に響いていた。
嵐の前の、穏やかで、少し苦味のある、幸せな午後のひとときだった。
この時間が、いつまでも続けばいいのに。
心の片隅でそう願いながら、私は最後の一口を噛み締めた。




