第三十四話:不躾な訪問者
温室の中に満ちているのは、湿り気を帯びた土の匂いと、青く瑞々しい植物の香りだった。
私はしゃがみ込み、指先で土の湿り具合を確かめる。冷たく、適度な水分を含んだ黒土は、私の指に吸い付くような感触を返してきた。
ガラス越しに降り注ぐ冬の陽光は、本来ならば肌を刺すような冷気を孕んでいるはずだが、ベルの魔法によって作られたこの透明な城壁の内側では、春の木漏れ日のように優しく、植物たちの成長を促している。
「順調ですね」
私は目の前に広がる葉野菜の列に、満足げな息を吐き出した。
市場で購入した種から育ったホウレンソウは、濃い緑色の葉を肉厚に広げ、大地の養分をたっぷりと蓄えている。その隣では、ハーブ類が競うように背を伸ばし、触れるだけで鮮烈な香りを放っていた。
外の世界は雪に閉ざされた白銀の静寂に支配されているというのに、ここだけは色彩と生命力に溢れている。
それは、私とベルがこの森で勝ち取った豊かさの象徴そのものだった。
私は腰に下げた剪定ばさみを取り出し、育ちすぎたバジルの葉を数枚切り取った。
パチン、という軽快な音が響く。
切り口から漂う爽やかな香りが、昨夜の肉料理の記憶を呼び覚ます。あのスパイスの刺激的な風味と、このバジルの香りは相性が良さそうだ。今夜は鶏肉を焼いて、このハーブを添えてみるのもいいかもしれない。
そんな平和な献立の構想を練っている時だった。
ズズズ……。
微かな振動が、足裏から伝わってきた。
最初は、屋根に積もった雪が滑り落ちる音かと思った。あるいは、森の奥で大型の獣が動いたのかと。
だが、その音は規則的で、硬質だった。
自然界には存在しない、人工物が地面を叩くリズム。
ガタゴト、ガタゴト。
車輪が石を噛み、車軸が軋む音。
そして、複数の蹄が雪を踏みしめる重い響き。
私はハサミを止めた。
温室の入り口へ向かい、ガラス越しに教会の前庭を見下ろす。
森へと続く一本道――かつて私が泥まみれになりながら歩いたあの獣道――の奥から、異質な影が近づいてきていた。
それは、この辺境の森にはあまりに不釣り合いな光景だった。
先頭を行くのは、豪奢な装飾が施された黒塗りの馬車。
車輪は泥と雪にまみれているが、車体には金箔のラインが走り、扉には誇らしげに紋章が描かれている。
剣と百合。
見間違えるはずもない。この国の王家、ヴァルモン家の紋章だ。
その周囲を固めるのは、揃いの甲冑に身を包んだ騎馬の一団。磨き上げられた鎧が、冬の低い太陽を反射して鈍く光っている。冒険者のような実用重視の装備ではない。儀礼的で、権威を誇示するための武装だ。文官の護衛として連れられた、少数の騎士たち。
「……最悪ね」
口から零れた言葉は、思考するよりも早く吐き出された本音だった。
平和な午後の空気が、一瞬にして鉛色の緊張感へと塗り替えられる。
彼らが何のためにここへ来たのか。
考えるまでもない。
フロンティアの街で広まった噂。毒の湖を浄化した「白銀の聖女」。その正体を探り、確保するために派遣された使者だろう。
ギルドマスターの忠告は正しかった。王都の動きは、私の予想よりも遥かに早かったのだ。
私は一度、深く深呼吸をした。
動揺してはいけない。ここで取り乱せば、彼らの思う壺だ。
私はただの、森で暮らす一般人。
そう自分に言い聞かせ、エプロンの紐を締め直した。
温室を出て、冷たい外気の中に身を晒す。
教会の前庭に、馬車が滑り込んできた。
御者が手綱を引き、馬がいななき声を上げて停止する。騎士たちが素早く展開し、馬車を護衛するように包囲網を敷く。その手際は洗練されており、彼らが訓練された兵士であることを物語っていた。
馬車の扉が開く。
ステップが下ろされ、中から一人の男が降り立った。
年齢は四十代半ばだろうか。
上質なベルベットのコートを纏い、首元にはレースのクラバット。丸々と太った指には、いくつもの宝石が光っている。
典型的な、王都の文官だ。
彼は地面に降り立つなり、雪と泥が混じった足元を見て、露骨に顔をしかめた。
「……なんと汚らわしい場所だ。このような辺鄙な地に、本当に例の者がいるのか?」
彼がハンカチで鼻を覆いながら漏らした言葉は、風に乗って私の耳にも届いた。
その声色に含まれる侮蔑の響き。
ああ、懐かしい。
かつて私が身を置いていた、あの腐った社交界の匂いがする。
自分たちが世界の中心であり、それ以外はすべて泥濘であると信じて疑わない、特権階級特有の傲慢さ。
私は表情を消し、静かに彼らの前へと歩み出た。
騎士たちが一斉に私に視線を向ける。
警戒、値踏み、そして微かな驚き。
私の姿――実用一点張りの服装にエプロン、手には泥のついた手袋――を見て、彼らは拍子抜けしたようだった。
「どなた様でしょうか。ここは私有地ですが」
私は努めて冷静な、しかし拒絶の意志を含んだ声で問いかけた。
文官の男が、ゆっくりとこちらを向く。
私を一瞥した彼の目には、あからさまな落胆と軽蔑が浮かんだ。
「……なんだ、この薄汚い娘は。おい、使用人か? 主を呼べ。我々は王都からの使者だぞ」
彼は私を使用人と断定し、手で追い払うような仕草をした。
私がこの教会の主であるなどとは、微塵も考えていないようだ。
無理もない。
彼らの想像する「聖女」とは、清らかなドレスを纏い、祈りを捧げる儚げな少女なのだろう。土にまみれて野菜を育てている女など、彼らの美しい物語には登場しない。
「あいにくですが、ここには私しか住んでおりません。ご用件がないようでしたら、お引き取り願えますか? 見ての通り、冬支度で忙しいので」
私は背を向けようとした。
関わりたくない。
このまま「人違いでした」で帰ってくれれば、それが一番だ。
だが、現実はそう甘くはなかった。
「待て」
文官の声が、鋭く響いた。
騎士の一人が、私の前に立ちはだかり、進路を塞ぐ。
ガシャン、と鎧が鳴る音が威圧的に響いた。
「貴様、その髪……」
文官が目を細め、私の髪を凝視した。
フードからわずかに覗く、銀色の髪。
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、そこに書かれた内容と私を見比べる。
「銀色の髪、青い瞳。そして、人里離れた森の教会……。間違いない、報告にあった特徴と一致する」
彼の中で、パズルのピースが嵌まったらしい。
軽蔑の色はそのままに、その瞳に「獲物を見つけた」という貪欲な光が宿る。
「ほう、まさかこのような田舎娘が、噂の『白銀の聖女』とはな。世も末だ」
彼は鼻で笑い、大仰な態度で一歩前に出た。
「おい、女。名を名乗れ」
命令形だ。
相手が誰であろうと、自分が上位にいることを疑わない態度。
私はため息を噛み殺し、彼に向き直った。
「コレットと申します。聖女などという大層な肩書きは持ち合わせておりませんが」
「コレット、か。家名は?」
「ありません。ただのコレットです」
私が答えると、彼は「ふん、平民か」と吐き捨てた。
元公爵令嬢であることに気づいていない。
当然だろう。彼らのような人間にとって、追放された罪人の顔など記憶に留める価値もない情報だ。それに、今の私はあの頃の着飾った人形とは似ても似つかない。
それが、私にとっては幸いだった。
「まあいい。平民であろうが、力が本物ならば使い道はある」
文官は、まるで市場で家畜を品定めするかのような目で私を見た。
「喜べ、女。貴様に王都へ行く栄誉を与えてやる」
彼は宣言した。
招待でも、依頼でもない。
決定事項の通達だ。
「我らが主、エリオット殿下が貴様の力に興味を持たれた。殿下の御前でその力を披露し、王国の繁栄のために尽くすのだ。これは、下賤な身分の者にとっては身に余る光栄だぞ」
エリオット。
その名前が出た瞬間、私の胸の奥で冷たい感情が渦巻いた。
あの愚かな元婚約者。
私を無実の罪で追放し、この森へ捨てた張本人。
彼が、今さら私に何の用だというのか。
いや、彼は私がコレットであるとは知らないのだ。ただ、便利な力を持った「新しい道具」が欲しくなっただけだろう。
相変わらずだ。
自分の欲望のためなら、他者の都合など一切顧みない。
「お断りします」
私は即答した。
考える余地などない。
「私はこの森での生活に満足しています。王都へ行くつもりはありませんし、誰かに仕えるつもりもありません」
私の言葉に、文官は目を剥いた。
予想外の反応だったらしい。
彼にとって、王家からの招集を断る人間など、想像の埒外なのだ。
「……は? 貴様、耳が腐っているのか? これは王家からの命令だぞ? 断る権利などあると思っているのか?」
「命令に従う義務は、王国の臣民にのみ発生します。私はこの森で、国に頼らず生きています。税も納めていなければ、法の保護も受けていません。従って、貴方方の命令に従う理由はありません」
正論だ。
追放された時点で、私は王国の民としての権利も義務も剥奪されている。
それを今さら、都合よく利用しようなど虫が良すぎる。
文官の顔が、怒りで赤く染まった。
彼はプライドを傷つけられたのだ。
こんなみすぼらしい格好をした小娘に、公然と反論されたことに。
「……生意気な。少しばかり珍しい魔法が使えるからといって、図に乗るなよ」
彼は声を荒げ、騎士たちに合図を送った。
「おい、構わん。この女を捕らえろ。手足の一本や二本折れても構わん。生きて連れて行けば、殿下は納得される」
もはや、交渉ですらない。
ただの誘拐だ。
騎士たちが剣の柄に手をかけ、私を取り囲むように距離を詰めてくる。
彼らの目に、躊躇いの色はない。
命令があれば、女子供だろうと容赦なく踏みにじる。それが彼らの「忠誠」なのだ。
私は半歩下がった。
背中は温室のガラス壁に触れている。逃げ場はない。
腰の剪定ばさみに手をかけるが、武装した騎士たち相手に通用するはずもない。
恐怖がないと言えば嘘になる。
暴力という理不尽が、すぐそこまで迫っている。
だが、不思議と心は冷えていた。
諦めではない。
怒りだ。
せっかく手に入れた平穏を、またしても彼らに奪われるのか。
私が築き上げたこの場所を、土足で踏み荒らされるのか。
(……嫌よ)
強く思う。
もう二度と、誰かの都合で人生を左右されたくない。
私は、私の意志でここにいるのだ。
「抵抗するな。痛い目を見たくなくば、大人しく馬車に乗れ」
騎士の一人が、私の腕を掴もうと手を伸ばした。
その指先が、私の服に触れようとした、その瞬間。
ドンッ!!
空気が爆ぜたような音が響いた。
それと同時に、私に触れようとした騎士が、見えない巨槌で殴られたかのように真横へ吹き飛んだ。
「ぐあっ!?」
彼は数メートルも宙を舞い、雪の上に激しく叩きつけられた。
何が起きたのか分からない。
他の騎士たちが、驚愕に足を止める。
「……騒々しい」
頭上から、不機嫌極まりない声が降ってきた。
全員の視線が、上へと向けられる。
教会の屋根。
雪が積もったその頂点に、黒い影があった。
黒猫だ。
だが、その纏う雰囲気は、愛玩動物のそれとは決定的に異なっていた。
逆光の中で、金と赤のオッドアイだけが、鮮血のように、あるいは溶岩のように輝いている。
ベル。
私の相棒であり、この家の真の主。
彼はゆっくりと立ち上がり、眼下の侵入者たちを見下ろした。
「我の庭で、随分と大きな顔をしているではないか、雑種ども」
彼の言葉は、物理的な音量以上に、聞く者の魂を震わせる響きを持っていた。
文官が、顔色を変えて後ずさる。
「な、なんだ、あの猫は……! 喋ったぞ!?」
「魔獣か!? 構えろ! 聖女の使い魔だ!」
騎士たちが剣を抜き、ベルに切っ先を向ける。
だが、ベルは彼らの剣など、道端の枯れ枝ほどにも気にしていないようだった。
彼はふわりと屋根から飛び降りた。
着地音すらしない。
私の前に舞い降りた彼は、私と騎士たちの間に立ちはだかった。
小さな背中。
けれど、それはどんな城壁よりも頼もしく見えた。
「おい、コレット。昼寝の邪魔だと言ったはずだぞ」
ベルは振り返らずに言った。
「静かにさせていたのですが、どうにも聞き分けのないお客様でして」
「ふん。客? これがか?」
ベルは蔑むような目で文官と騎士たちを一瞥した。
「我には、餌にたかる羽虫にしか見えんがな」
その言葉に、文官の顔が屈辱で歪んだ。
「猫風情が……! 殺せ! その化け物を切り捨てろ! 皮を剥いで殿下への献上品にしてやる!」
愚かな命令。
それが、彼らの運命を決定づけた。
騎士たちが一斉に襲いかかる。
鋼の剣が、殺意を持って振り下ろされる。
ベルは、あくびをした。
「――不敬だぞ」
彼が前足を軽く振るう。
それだけの動作。
魔法の詠唱すらない、単なる「はらう」仕草。
ゴオオオオッ!!
暴風が生まれた。
いや、それは風というよりは、衝撃波の壁だった。
迫りくる騎士たちが、鎧ごと紙切れのように吹き飛ばされる。
剣が折れ、盾がひしゃげる音が響く。
悲鳴を上げる暇さえなく、彼らは森の木々や雪山へと叩きつけられた。
一瞬で、前庭から立っている人間が消えた。
残ったのは、腰を抜かしてへたり込んだ文官ただ一人。
彼はガタガタと震えながら、目の前の現実を受け入れられずにいた。
精鋭であるはずの護衛騎士たちが、たった一匹の猫に、一撃で壊滅させられたのだ。
ベルはゆっくりと、文官へと歩み寄った。
雪を踏む音が、死刑執行の足音のように響く。
「ひッ……ひぃぃッ……!」
文官は地面を這いずり、後退しようとするが、足がもつれて動けない。
失禁したのか、股間が濡れているのが見えた。
王都で見せた威丈高な態度はどこへやら、今の彼はただの怯える小動物だ。
「貴様、言ったな。我の皮を剥ぐと」
ベルが文官の目の前で止まった。
見上げるような小さな体なのに、その影は巨獣のように文官を覆い尽くしている。
「我は寛大だが、自身の毛皮には誇りを持っている。それを傷つけようとする言葉、万死に値するぞ」
ベルの周囲で、空気がグニャリと歪んだ。
魔力が可視化し、揺らめく炎のように立ち上る。
殺す気だ。
このままでは、文官は灰も残らず消滅するだろう。
「ベル、待ってください」
私は声をかけた。
ベルの動きが止まり、ちらりとこちらを見る。
「なんだコレット。止めるのか? こやつは貴様を攫おうとしたのだぞ」
「ええ。ですが、ここで殺してしまえば、王都との全面戦争になります」
私は文官の前に進み出た。
彼は縋るような目で私を見上げてくる。助けてくれ、と。
私は冷ややかな目で見下ろした。
「勘違いしないでください。貴方を助けるわけではありません。ただ、私の庭を血で汚したくないだけです」
私は彼に告げた。
「お帰りください。そして、主に伝えてください。『二度とここへは来るな』と。もし次、私の平穏を乱すような真似をすれば……」
私はベルに視線を向けた。
ベルは理解し、ニヤリと笑ったように見えた。
そして、文官の耳元で、楽しげに囁いた。
「次は、王都ごと消し飛ばしてやる。我は『暴食の王』ベルモス。貴様らの築いた石積みなど、砂上の楼閣に過ぎんことを忘れるな」
その名は、文官にとって決定的なトドメとなったようだ。
彼は白目を剥きかけながらも、必死に頷いた。
古の伝説。災厄の魔獣。
おとぎ話だと思っていた存在が、現実に目の前にいる恐怖。
「い、行け! 撤退だ! 早く馬車を出せぇぇッ!」
彼は悲鳴のような命令を下すと、這うようにして馬車へと逃げ込んだ。
吹き飛ばされた騎士たちも、痛む体を引きずりながら、慌てて馬に跨る。
彼らの顔には、戦意など欠片も残っていなかった。
あるのは、一刻も早くこの魔境から逃げ出したいという一心のみ。
御者が鞭を振るい、馬車が急発進する。
車輪が空転し、泥を撒き散らしながら、彼らは来た道を猛スピードで逃げ去っていった。
まるで、悪夢から逃れるように。
森に静寂が戻ってきた。
遠ざかる馬車の音だけが、微かに響いている。
私はほっと息を吐き、その場にしゃがみ込んだ。
膝が少し震えている。
強がってはいたが、やはり怖かったのだ。
ベルがいなければ、今頃私はあの馬車の中で、手枷をはめられていただろう。
「……ふん、他愛もない」
足元で、ベルが退屈そうに欠伸をした。
彼は前足についた雪を払うと、興味を失ったように背を向ける。
「まあよい。我は旨い肉を食べるのに忙しいのだ。この我の手さえ煩わせなければ、この不敬を特別に見逃してやろう」
「いいえ、ベル。彼らは必ずまた来ますよ」
私の言葉に、ベルが片耳だけをこちらに向けた。
「ほう? 我に恐れをなして逃げ帰った腰抜け共が、再び顔を出すと?」
「ええ。王家とはそういうものです。彼らにとって、面子を潰されることは死よりも重い屈辱。特にあのエリオット王子は、自分の思い通りにならない玩具を許せるような度量を持っていません」
私はかつての婚約者の顔を思い浮かべた。
整ってはいるが、常に他者を見下す薄い唇。自分の正しさを疑わない傲慢な瞳。
文官からの「平民風情に門前払いを食らった」という報告を聞けば、彼は激昂するだろう。そして、次こそは確実に私を屈服させるため、より強制力のある手段を選んでくるはずだ。
「次は、文官のような使い走りではなく、正式な騎士団の一隊でも派遣してくるでしょうね。『不敬な平民を拘束し、王都へ連行せよ』といった名目で」
「ならば、今すぐ追って根絶やしにするか? 王都ごと消せば、後腐れもないだろう」
ベルから放たれる殺気は本物だった。彼なら本当に、一晩でこの国の地図を書き換えてしまうかもしれない。
けれど、私は首を横に振った。
「その必要はありません。それに、彼らが来るとしても、今すぐではありませんから」
「何故だ? 怒り狂っているのなら、すぐにでも兵を差し向けるのが道理ではないか」
「物理的に不可能です」
私は周囲の雪景色を指差した。
「見てください、この雪を。馬車一台を通すのさえ一苦労です。騎士団を動かすとなれば、それなりの馬や人間が必要になります。ですが、この冬の森で大人数を動かすのは至難の業です。兵士が凍え、馬が倒れれば、たどり着く前に自滅します」
これは、私が公爵令嬢として学んだ、貴族らしい考え方による結論だ。
それに、騎士団員の多くは、かなり位の高い家柄だ。彼らは泥と雪にまみれる過酷な行軍を何よりも嫌う。
「雪が溶け、道が固まるまでは、正規の騎士団は動かせません。つまり、春までは安全です」
私の説明を聞いたベルは、ふん、と鼻を鳴らした。
「人間というのは、なんと不便な生き物だ。天候一つで戦う時期も選べんとは」
「その不便さが、今の私たちには好都合です。彼らは春を待って、雪解けと共に仰々しい布告書を携えてやってくるでしょう。それまでは、こちらのものです」
私は空を見上げた。
鉛色の雲の隙間から、薄日が差している。
春はまだ遠い。けれど、確実に近づいている。
いずれ来る「招かれざる客」への対応は、その時考えればいい。少なくとも、この雪に閉ざされた冬の間は、誰にも邪魔されない私たちの時間が続くのだ。
「コレットよ。ならば、今日の夕飯は何だ?」
「そうですね……。寒いですし、根菜たっぷりのポトフにしましょうか」
「肉は?」
「大きなベーコンを入れますよ」
「よろしい。帰るぞ」
私たちは背を向け、教会へと戻った。
背後に残る馬車の跡は、降り始めた新しい雪によって、白く塗り潰されようとしていた。




