第三十三話:極厚の牛タンと香辛料
石造りの教会の扉を閉ざし、かんぬきをかけると、フロンティアの街から持ち帰った喧騒がふっつりと途絶えた。
私は背負っていた革鞄と、両手に抱えていた大きな包みをテーブルの上に置く。ドサリ、という重量感のある音が、今日の収穫の豊かさを雄弁に物語っていた。
肩を回し、強張った筋肉をほぐす。風魔法による空の旅だったとはいえ、興奮する相棒をなだめながら、傷つけないように大量の荷物を抱え続けるのは、なかなかの重労働だった。
「……ようやく、落ち着けましたね」
私が息を吐くと、足元で黒い影が弾むように躍り上がった。
暴食の王ベルモスこと、黒猫のベルだ。彼はテーブルの上に軽やかに着地すると、待ちきれないといった様子で肉の包みを前足でバンバンと叩いた。
「コレットよ、何を悠長にしている! 火だ! 早く火を起こせ! 我の腹時計は、空腹を通り越して餓死の警鐘を鳴らしているのだぞ!」
「はいはい、分かっていますよ。まずは着替えて、手を洗ってからです。衛生管理は美食の基本ですからね」
私は逸る彼を制し、身支度を整えるために寝室へと向かった。
街での「聖女」騒ぎで浴びた好奇の視線や、市場の熱気による精神的な疲れを、冷たい水で顔を洗うことで物理的に洗い流す。
鏡代わりの銀の盆に映る自分は、どこにでもいる村娘のような地味な格好だが、その瞳にはこれから始まる宴への期待が宿っていた。
キッチンに戻ると、ベルはすでに暖炉の前に陣取り、薪に火を点け終わっていた。彼が吐き出した魔法の火種は、瞬く間に薪を包み込み、最適な火力を維持している。食への執念が、彼を勤勉な働き者に変えていた。
「準備万端ですね。では、始めましょうか」
私はエプロンを締め、テーブルの上の包みを解いた。
現れたのは、市場の精肉店主が「とっておきだ」と言って奥から出してきてくれた、最高級の牛肉たちだ。
まずは、メインディッシュの一つであるサーロインの塊。
見事な霜降りだ。赤身の中に細かく入った脂肪の網目は、まるで芸術品のよう。常温に戻りつつある脂が、表面で艶やかに光っている。
そしてもう一つ。細長い形状をした、牛タンだ。
皮付きのままの一本買い。グロテスクに見えるかもしれないが、これこそが鮮度の証だ。
「……ほう。改めて見ると、奇妙な形だな。それが舌か?」
ベルが牛タンを覗き込み、不思議そうに首を傾げた。
「ええ。牛の舌です。見た目は少し怖いかもしれませんが、味は絶品ですよ。特に根元の部分は脂が乗っていて、焼くととろけるような食感になります」
「舌を食うのか……。我も多くの獲物を食らってきたが、舌だけを好んで食べた記憶はないな」
「人間は貪欲ですからね。美味しいと分かれば、どこの部位でも工夫して食べます。さて、まずはこれの下処理からですね」
牛タンは、そのままでは硬い皮に覆われている。通常なら、茹でてから皮を剥くか、鋭利な刃物で削ぎ落とす必要がある手間のかかる食材だ。
だが、私には魔法がある。
私は牛タンをシンクに置き、右手をかざした。イメージするのは「分離」。皮と肉の境界線に、薄い水を浸透させる感覚。
『清らかなる水よ、真なる姿を露わにせよ』
詠唱と共に、水が生成される。その水は牛タンの表面を覆い、皮の下へと浸透していく。
メリメリ……という微かな音と共に、硬い皮が肉から浮き上がった。私は端を掴み、するりと引く。まるで脱皮するように、皮が綺麗に剥がれた。
現れたのは、淡いピンク色をした美しい肉肌だ。
「……相変わらず、貴様の水魔法は地味だが便利だな」
「料理においては最強の魔法だと自負しています。さて、これを切り分けましょう」
私はナイフを手に取り、牛タンをカットしていく。舌先の方は硬いので、薄切りにして明日の煮込み用に回す。
そして、今回使うのは根元の部分――タン元だ。ここは最も脂が乗っており、柔らかい。
私は贅沢に、指二本分ほどの厚切りにした。分厚い円盤状の肉が、まな板の上に積み重なっていく。
「厚いな。焼けるのか?」
「表面をカリッと焼いて、中は余熱で火を通します。噛み締めた時の弾力が違いますよ」
私は切り分けたタンの両面に、格子状の隠し包丁を入れた。こうすることで火の通りが良くなり、食感も良くなる。下味はシンプルに。岩塩を強めに振り、黒胡椒を挽く。素材の味をダイレクトに楽しむためだ。
次に、サーロインの準備だ。
こちらは、先日手に入れた秘密兵器――ギルドマスターからせしめた『赤の衝撃』と名付けられたスパイスミックスを使う。
小瓶の蓋を開けると、刺激的な香りがキッチンに広がった。唐辛子、クミン、コリアンダー、そして未知の香辛料が複雑に配合されたその粉末は、嗅ぐだけで唾液腺を刺激する。
「……いい匂いだ。脳髄が痺れるようだ」
ベルが鼻をヒクヒクさせ、うっとりとしている。
私はサーロインの塊を分厚いステーキサイズに切り出し、その表面にスパイスをたっぷりとまぶした。赤い粉が肉の表面を覆い、焼かれる時を待っている。
「さあ、焼きの工程に入ります。ベル、火加減をお願いしますね」
「任せろ。最高の焼き場を提供してやる」
ベルが暖炉の火力を調整し、その上に厚手の鉄板をセットした。熱せられた鉄板から、陽炎が立ち上る。
私は牛脂の欠片を鉄板に滑らせた。チリチリという音と共に脂が広がり、香ばしい煙が上がる。
まずは、牛タンからだ。私は分厚いタンを、鉄板の上に並べた。
ジューッ!!
激しい音が教会内に響き渡る。肉が焼ける音。それは、空腹の人間にとって最も美しい音楽だ。
表面の色が変わっていく。脂が滲み出し、鉄板の上で踊る。私はこまめに肉を返し、両面にしっかりとした焼き色をつけた。中まで火を通しすぎないよう、絶妙なタイミングで皿に取り出す。
「……まだか? もう食えるだろう?」
ベルがテーブルの上に飛び乗り、足踏みをしている。彼の視線は、皿の上の肉に釘付けだ。
「もう少し待ってください。次は主役のステーキですから」
続けて、スパイスをまぶしたサーロインを鉄板に乗せる。
ジャアアアアッ!!
先ほどよりも重低音の響き。スパイスが焦げる香りが、肉の脂の匂いと融合し、暴力的なまでの芳香となって襲いかかってくる。これは危険だ。理性が吹き飛びそうになるほどの、強烈な食欲への誘惑。
表面をカリッと焼き固め、肉汁を閉じ込める。側面も焼き、全体に火を通す。最後に、香り付けのバターを一欠片。バターが溶け出し、スパイスと絡み合って黄金色のソースとなる。
「完成です」
私はステーキを皿に盛り付け、温室で摘んでおいたクレソンと、ローストしたジャガイモを添えた。さらに、炊きたての白米も用意する。この濃厚な肉には、パンよりも米が合うはずだ。
テーブルに料理が並ぶ。
厚切り牛タンの塩焼き。スパイスステーキ。そして、付け合わせの野菜たち。
王侯貴族の晩餐会でも、これほど熱気と期待に満ちた食卓はないだろう。
「……美しい」
ぽつり、とベルが呟いた。彼は前足を揃え、皿の前に座る。
「では、いただきましょう」
私が合図をすると、ベルは迷うことなく牛タンに喰らいついた。猫の口には大きすぎる切り身だが、彼は器用に噛み切り、咀嚼する。
「……むぐっ!?」
ベルの動きが止まった。金色の瞳が大きく見開かれる。
「……なんだこの食感は! サクッとした歯切れの良さがあるのに、中は驚くほど柔らかい! 噛むたびに、濃厚な肉汁が溢れ出してくる!」
「でしょう? それがタン元の魅力です」
私も一切れ、口に運ぶ。
サクリ。心地よい歯ごたえ。その直後に広がる、脂の甘み。
決してしつこくない、上品でありながら力強い旨味だ。岩塩の塩気が、肉の甘みを極限まで引き立てている。
「うまい! これは癖になる歯ごたえだ! 普通の肉とは違う、弾むような弾力……まさに王の好物だ!」
ベルは次々とタンを口に運んでいく。
気に入ってもらえたようで何よりだ。
「では、次はこちらもどうぞ」
私はステーキを指し示した。ベルは口の周りの脂を舐め取り、ステーキへと標的を変える。ナイフで切り分けるのがもどかしかったのか、彼は大きめの一切れをそのまま口に入れた。
瞬間、彼の体から魔力が漏れ出したかのような衝撃が走った。背中の毛が逆立ち、尻尾が太くなる。
「……ぬおおおおっ!!」
咆哮に近い唸り声。
「辛い! だが、うまい! なんだこの刺激は! 舌を刺すような痛みが走ったかと思えば、その奥から肉の旨味が津波のように押し寄せてくる! 脂の甘みがスパイスの辛さを包み込み、渾然一体となって脳を揺らす!」
彼は興奮のあまり、テーブルの上をぐるぐると回り始めた。
それほどまでに、この『赤の衝撃』とサーロインの組み合わせは破壊的だったらしい。
「ご飯と一緒に食べてみてください。もっと美味しいですよ」
私はスプーンでご飯をすくい、ベルの皿の肉汁とソースが混ざった部分に浸してから差し出した。彼はそれをパクりと食べる。
「……っ!! これだ! この白い穀物が、脂と辛味を受け止め、さらなる高みへと昇華させている! 貴様、天才か!?」
私もステーキを口にする。
ガツンとくるスパイスの香りと辛味。それを、上質な脂がまろやかに中和し、口の中でとろけていく。
白米をかきこむと、口の中がリセットされ、また肉が欲しくなる。無限のループだ。
私たちは無言で、しかし猛烈な勢いで食事を続けた。
教会の中に響くのは、咀嚼音と、皿とカトラリーがぶつかる音、そして時折漏れる感嘆のため息だけ。
外の世界では、私が「白銀の聖女」だなんだと騒がれているらしいが、そんなことはどうでもいい。今、この瞬間、世界で一番幸せなのは間違いなく私たちだ。
やがて、山のようにあった肉は綺麗になくなり、皿にはソースの跡しか残っていなかった。
ベルは膨れたお腹を上にして、ソファの上で伸びている。完全に野生を忘れた姿だ。
「……我は満足だ」
ベルの王様気分は絶好調らしい。
私は食後のお茶を淹れた。昨日手に入れた『春告げの白茶』だ。
脂っこくなった口の中を、爽やかなお茶が洗い流してくれる。温かい液体が胃に落ちると、深い充足感が広がった。
窓の外は完全に夜の闇に包まれている。
森の木々が風に揺れる音が、遠くから聞こえてくる。
静かだ。
ここには、煩わしい人間関係も、理不尽な命令もない。あるのは、満たされた胃袋と、温かい寝床、そして心を許せる相棒だけ。
「コレットよ」
ベルが、まどろみの中で口を開いた。
「あのスパイス、まだあるか?」
「ええ、まだ瓶に半分ほど残っていますよ」
「そうか。……ならば、明日は鶏を焼こう。あの粉をまぶして、皮をパリパリに焼くのだ」
「気が早いですね。でも、いいアイデアです」
明日の献立が決まる。それは、明日もまた平和で、楽しい一日になるという約束のようなものだ。
私はカップを置き、ベルの頭を撫でた。彼は嫌がることもなく、私の手に頭を押し付けてくる。
かつて、王城の冷たい部屋で、明日のことなど考えたくもないと思いながら眠りについていた日々が、遠い前世の記憶のように思える。
今の私は、明日が来るのが待ち遠しい。
そんな当たり前の幸せを、私はこの辺境の森で手に入れたのだ。
街で聞いた噂話が、脳裏をよぎる。
聖女、奇跡、救世主。人々が勝手に作り上げた虚像。
いずれ、その噂が王都に届き、面倒な事態を引き寄せるかもしれない。
けれど、今の私には恐れる理由が見当たらなかった。
私には、この教会がある。ベルという強力な守護者がいる。そして何より、自分の手で生活を切り開いてきた自信がある。
「……何が来ても、追い返してあげますよ」
私は小さく呟き、暖炉の炎を見つめた。
揺らめく光の中に、強い意志の光が宿るのを感じた。
私の平穏な生活を脅かす者は、誰であろうと許さない。たとえそれが、国の最高権力者であろうとも。
ベルが、夢の中で何かを捕まえるように足をピクリと動かした。
きっと、夢の中でも美味しいものを食べているのだろう。
私は微笑み、静かに立ち上がった。
さあ、片付けをして、寝る準備をしよう。明日は早起きして、温室の野菜の手入れもしなくてはならない。
忙しくも充実した日々が、また続いていく。
教会の窓から漏れる暖かな光は、深い森の闇の中で、小さく、しかし力強く輝き続けていた。




