第三十二話:白銀の聖女
翌朝。
窓の向こうには、昨日の激闘――と言っても、相棒が一方的に蹂躙しただけだが――が嘘のような、穏やかな冬の晴天が広がっていた。
私は湯気の立つカップを両手で包み込み、深く息を吸い込んだ。
鼻腔をくすぐるのは、若草のような瑞々しさと、華やかな花畑を連想させる高貴な香り。昨日、ギルドマスターから報酬の前払いとして受け取った『春告げの白茶』だ。
口に含むと、渋みは一切なく、雪解け水のように澄んだ甘みが喉を潤していく。
まさに至福。
王城のサロンで、愛想笑いを張り付けながら飲んだどのお茶よりも、この辺境の石造りの部屋で、ジャージのような部屋着で飲む一杯の方が、遥かに美味しく感じるのはなぜだろう。
それはきっと、この一杯が「労働」と「交渉」の対価として勝ち取ったものだからだ。
「……おい、下僕」
足元から、不満げな声が聞こえた。
視線を落とすと、私の相棒――暴食の王ベルモスこと、黒猫のベルが、空になった自分の皿を前足でリズミカルに叩いている。カチン、カチン、という硬質な音が、私の優雅なティータイムに割り込んでくる。
「茶に現を抜かしている場合か。昨晩の『赤の衝撃』……あのスパイスの魔力は凄まじかった。だが、一夜明けてみて気付いたことがある」
「なんでしょう? まだお腹が空いているのですか?」
「否。肉が足りん」
彼は真顔で――猫の顔で真顔というのも変だが、極めて真剣な眼差しで――言い放った。
「あのスパイスは、肉の消費量を倍増させる危険な粉だ。昨夜、あれほど食ったというのに、我が胃袋はすでに新たな生贄を求めて咆哮している。鹿肉のストックはあと僅かではないか? これでは、今後の献立に支障が出るだろう」
私は保存庫の中身を脳内で検索した。
確かに、昨夜の宴で大きなブロック肉を二つも消費してしまった。残りは燻製用の端肉と、スープ用の骨付き肉くらいだ。これでは、美食家を気取る王の舌を満足させることは難しい。
「そうですね。また森へ狩りに行かないといけません」
「ふん。狩りもよいが、たまには脂の乗った牛が食いたい。あの市場で売っていた、霜降りの塊肉だ。あれにスパイスをまぶせば、鹿とはまた違った景色が見えるはずだ」
ベルが舌なめずりをする。
市場の牛肉。確かに美味しいが、あれは安くない。私たちの手持ちの資金は潤沢だが、調子に乗って散財すれば、春を待たずに底をつく可能性もある。
だが、今の私たちには「報告」という用事があった。
「……分かりました。では、街へ行きましょう。ちょうど、ギルドへ報告もしなければなりませんから」
「報告? 昨日のドブさらいの件か? 終わったことは忘れる主義だ」
「依頼主に『完了しました』と伝えるまでが仕事です。それに、ギルドマスターは『報酬』と言っていましたが、昨日のスパイスと紅茶はあくまで『着手金』のようなもの。成功報酬として、追加のお金がもらえるかもしれませんよ?」
私が親指と人差し指で丸を作って見せると、ベルの耳がピクリと反応した。
「金か……ふむ。金があれば、牛が一頭買えるな?」
「一頭は無理でも、貴方のお腹を満たす分くらいは買えるでしょう」
「ならば行くぞ! 善は急げだ!」
欲望に忠実なベルの行動力は、もはや芸術の域だ。
彼は私の肩に飛び乗り、早く扉を開けろと急かす。
私は苦笑しながらカップを置き、外出用の厚手のマントを羽織った。
◇
移動はもちろん、ベルの風魔法による空の旅だ。
雪の積もった森を歩くのは骨が折れるが、空を行けば関係ない。
私たちは翡翠色の風を纏った白い矢となって、冬の空を進んでいく。
あっという間に森を抜け、フロンティアの街が見えてくる。
街の周囲には、まだ昨日の雪が残っているが、街道は多くの人々で行き交い、活気を取り戻していた。
私たちは人目につかないよう、街外れの林に着陸した。
そこからは徒歩だ。
私はフードを目深に被り、ベルを懐に入れた。黒猫を連れた銀髪の少女など、目立ちすぎる。
街門をくぐり、大通りへと出る。
すると、街の雰囲気がいつもと違うことに気がついた。
何やら浮き足立っているというか、熱に浮かされたような興奮した空気が漂っているのだ。
すれ違う人々が、楽しげに、そして熱っぽく言葉を交わしている。
「おい、聞いたか? 昨日の夕方、北の空に巨大な水柱が立ったって!」
「ああ! 俺も見たぞ! 黒い雲が割れて、そこから天の川みてぇな滝が落ちてきたんだ!」
「あれはきっと、湖の女神様がお怒りを鎮められたんだわ!」
「いや、白銀の光が見えたって話だぞ。聖女様が奇跡を起こして、毒を聖水に変えたに違いない!」
私はマントの襟を立て、さらに顔を隠した。
昨日の「湖の再生」。
ベルが派手にやりすぎたせいで、遠く離れたフロンティアの街からでもその「奇跡」が目撃されていたらしい。
しかも、話が尾ひれどころか翼を生やして飛び回っている。
女神だの聖女だの、大層な単語が飛び交う中を、私は背を丸めて歩いた。
懐の中で、ベルがクックッと喉を鳴らして笑っている。振動が胸に伝わる。
(愉快だな、コレット。貴様、いつの間にか神格化されているぞ)
(笑い事じゃありません。これ以上目立つと、平穏な生活が脅かされます)
私は早足で冒険者ギルドへと向かった。
重厚な扉を押し開け、中に入る。
ギルド内は、外以上の熱気に包まれていた。
冒険者たちが昼間から酒を片手に、昨日の「異常気象」について議論を戦わせている。
「だからよぉ! あの毒沼が一瞬で蒸発したんだぞ!? 並の魔法使いにできる芸当じゃねぇ!」
「やっぱ、スタンピードを止めたあの『二人組』じゃねぇのか?」
「黒猫を連れた少女……いや、あれは精霊の化身だろ。水の精霊王が人の姿を借りているに違いない」
話題の中心は、間違いなく私たちだ。
私は誰とも目を合わせないようにして、カウンターへ直行した。
受付の女性が、私に気づいて顔を上げる。
彼女は私――というより、私の懐から顔を覗かせている黒猫――を見た瞬間、息を呑んで硬直した。
「あ……」
彼女の目が泳ぐ。
どうやら、ギルド職員の間では、私の正体は周知の事実らしい。
彼女は、奥の部屋を指差した。
「ギ、ギルドマスターが……お待ちです……奥の、応接室へ……どうぞ……」
「ありがとうございます」
私は会釈をし、逃げるように奥へと進んだ。
背後で、酒場の喧騒が一瞬止まり、ざわざわとした囁き声に変わったのを感じたが、振り返る勇気はなかった。
応接室の扉をノックすると、すぐに「入れ」という太い声が返ってきた。
中に入ると、ギルドマスターが執務机で頭を抱えていた。
目の前には、山のような書類が積み上げられている。
彼は私たちが部屋に入ったのを見ると、深いため息をつき、しかしその表情には明らかな安堵の色を浮かべた。
「……来たか。待ってたぜ」
彼は立ち上がり、私たちをソファへと促した。
目の下に濃いクマができている。昨日は一睡もしていないのかもしれない。
「報告に来ました。湖の件、片付きましたよ」
私が言うと、彼は力なく笑った。
「ああ、知ってるよ。嫌でも耳に入ってくるからな。……昨日の夕方、空から湖へ向かって、とんでもねぇ水柱が落ちるのを見た。その後、調査隊を走らせたんだが……帰ってきた奴らが、腰を抜かして報告してきたぜ。『毒の湖が、澄んだ泉に生まれ変わっていた』ってな」
ギルドマスターは、信じられないものを見る目でベルを見た。
ベルは「当然だ」と言わんばかりに、ソファの上でふんぞり返っている。
「毒を消すだけじゃなく、水まで元通り……いや、元通り以上にしてくるとはな。お前さんたちの『掃除』ってのは、天地創造の類義語なのか?」
「ただの現状復帰です。水がないと困るでしょう?」
「困るどころか、街の寿命が繋がったんだ。感謝してもしきれねぇよ」
彼は机の引き出しを開け、ずっしりと重そうな革袋を取り出した。
それをテーブルの上に、ドンと置く。
袋の口が少し開き、中から眩い黄金の輝きが漏れ出した。
「今回の報酬だ。依頼金に加え、街議会からの特別報奨金、それに……個人的な感謝の気持ちも上乗せしてある」
その量は、前回のスタンピードの時よりもさらに多いように見えた。
金貨百枚近くあるのではないだろうか。
「……こんなに? 着手金のスパイスと紅茶だけでも、十分すぎる価値がありましたが」
「受け取ってくれ。これでも足りねぇくらいだ。街の水源を守ったんだぞ? 本来なら、銅像を建ててパレードを開いてもいいくらいの功績だ」
銅像とパレードは丁重にお断りしたいが、お金はあって困るものではない。
特に、ベルのエンゲル係数を考えれば、この臨時収入はありがたい。
「では、ありがたく頂戴します。これでまた、美味しいお肉が買えます」
「ははは! お前さんらしいな。世界を救うような力を持ちながら、望みは今日の晩飯か」
ギルドマスターは豪快に笑ったが、すぐに真剣な眼差しに戻った。
「だがな、コレットくん。一つ忠告しておかなきゃならねぇことがある」
「なんでしょう?」
「今回の件で、お前さんの名前――いや、二つ名と言った方がいいか。それが完全に定着しちまった」
彼は机の上の書類を一枚、私の方へ滑らせた。
それは、街で配られている新聞のようなものだった。
一面には、巨大な見出しが踊っている。
『水源の奇跡! 舞い降りた白銀の聖女、毒の沼を癒やしの泉へ!』
記事の中には、目撃者の証言として、私の外見的特徴――フードを被っていたが、隙間から見えた銀色の髪、連れている黒猫、そして圧倒的な魔法の行使――が、詳細に、かつ極めてドラマチックに記述されていた。
「……白銀の聖女」
私がその単語を口にすると、背中がむず痒くなった。
誰のことだ。
私はただの、料理好きの元公爵令嬢だ。聖女らしいことなど、何一つしていない。
ベルが毒を焼き払い、水を注いだだけだ。私は横で見ていただけなのに。
「民衆ってのは、分かりやすい英雄を求めるもんだ。特に、これだけ不安なご時世だからな。お前さんが否定しようが、隠れようが、彼らの中で『白銀の聖女』はすでに実在する希望の象徴になっちまった」
ギルドマスターは苦々しげに言った。
「俺の方でも、お前さんの個人情報は伏せている。住処も教えてねぇ。だが、噂は足が速い。この街を越えて、王都や他の領地まで話が広がるのも時間の問題だろう」
王都。
再びその言葉が出てきた。
私を追放した元婚約者の王子や、実家の家族たちが住む場所。
彼らがこの「白銀の聖女」の噂を聞いたら、どう思うだろうか。
まさか、無能として追放した女だとは夢にも思わないだろう。
だが、万が一正体がバレれば、面倒なことになるのは火を見るより明らかだ。利用しようとするか、あるいは消そうとするか。
「……困りましたね。私はただ、静かに暮らしたいだけなのに」
「分かってる。だからこそ、俺たちも全力で守るさ。この街の恩人を、政治の道具になんかさせねぇよ」
ギルドマスターの言葉は力強かった。
彼のような権力者が味方でいてくれるのは心強い。
それに、いざとなれば私たちにはベルがいる。
最強の魔獣が側にいる限り、どんな軍隊が来ようと怖くはない。
「ありがとうございます。……まあ、噂が広まるのは止めようがありませんし、気にしないことにします。実害がないうちは」
「その度胸、大したもんだ」
私たちは報酬を受け取り、席を立った。
部屋を出る際、ベルが振り返り、ギルドマスターに言った。
「おい、人間。あのスパイス、悪くなかったぞ。また手に入ったら寄越せ」
ギルドマスターは目を丸くし、それから嬉しそうに破顔した。
「へいへい、承知しましたよ、王様。極上のやつを探しときます」
◇
ギルドを出ると、私たちはそのまま市場へと向かった。
懐が温かくなった今、ベルの要望通り、牛肉を買わない手はない。
市場は相変わらず「聖女ブーム」で賑わっていた。
どの店も、「聖女様にあやかって」と銘打った商品を並べている。
『聖女の愛したパン』
『奇跡の泉の水』
『黒猫のお守り』
その適当な商品をこじつけで、売りつけようする商魂のたくましさに呆れつつ、私たちは精肉店へと進んだ。
馴染みの店主は、私たちが近づくと、パッと顔を輝かせた。
「おお! いらっしゃい! ……って、もしかしてその猫ちゃんは!」
店主の声が裏返る。
彼はベルを凝視し、それから私を見て、口をパクパクさせた。
「あ、いや、なんでもない! いつも通り、いい肉が入ってるよ!」
彼は慌てて誤魔化したが、その態度から察するに、彼もまた私たちが「噂の二人組」であることに気づいているようだ。
だが、それを大声で叫んだりせず、あくまで「いつもの客」として接してくれるあたり、店主の情の厚さを感じる。
あるいは、ベルに睨まれて怖かっただけかもしれないが。
「おじさん、今日は奮発します。この一番高いサーロインを、塊でください」
私がショーケースの中の、見事な霜降りの肉を指差すと、店主は目を剥いた。
「こいつぁすげぇ高ぇぞ!金貨3枚はするぞ?」
「構いません。それと、煮込み用のスネ肉と、牛タンも一本」
私は革袋から金貨を取り出し、カウンターに並べた。
店主は震える手でそれを受け取り、丁寧に肉を包んでくれた。
「へへっ、まいどあり! ……あのさ、嬢ちゃん」
肉を受け取る際、店主が小声で囁いた。
「湖のこと、ありがとな。おかげで俺たち、これからもここで商売ができるよ」
彼はウインクをして見せた。
私は驚き、それから小さく微笑み返した。
「……良いお肉をいつもありがとう。また来ますね」
多くを語る必要はなかった。
噂がどうあれ、聖女という名が一人歩きしようとも、目の前の人たちがこうして感謝の気持ちを持って接してくれるなら、悪いことばかりではないのかもしれない。
私は重たい肉の包みを抱え、ベルと共に市場を後にした。
◇
帰り道。
再び空を飛びながら、私はフロンティアの街について思い出していた。
煙突から煙が立ち上り、人々の営みが続いている。
平和が保たれたのだ。
「……ベル。聖女なんて呼ばれて、迷惑だと思っていましたけど」
風の中で、私は呟いた。
「悪くないかもしれませんね。皆さんが喜んでくれるなら」
「ふん。人間どもの評価などどうでもよい。重要なのは、今夜の肉の味だ」
ベルは素っ気ない。
けれど、私の首に巻き付く彼の体温が、いつもより少しだけ温かい気がした。
彼もまた、あの店主の言葉を憎からず思っているのだろう。
「不敬だ」と怒りながらも、ベルは自分に向けられる感謝や敬意には敏感なのだ。
「そうですね。帰りましょう、私たちの家へ」
日が傾き、空が茜色に染まり始めている。
森の奥にある、石造りの教会。
そこには、誰にも邪魔されない私たちだけの時間が待っている。
暖炉に火を入れ、買ってきたばかりの肉を焼こう。
スパイスを効かせて、白茶と共に。
金貨の重みと、肉の重み。
そして、少しばかり重くなった「名前」の重み。
ベルの操る風魔法によって、目の前の風景が進んでいく。
森の木々が、風に揺れてざわめいていた。
まるで、凱旋する王と聖女を迎える拍手のように。
やがて、教会が見えてきた。
ただいま。
そう私が心の中で呟くや否や、ベルが風の結界を解いた。
ふわりと、雪に覆われた庭に降り立つ。
雪を踏む音が、心地よく響いた。




