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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第八章:焦熱の浄化

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第三十一話:碧き奇跡の泉と、焦熱の食卓

 巨大なクレーターと化した湖跡。

 そのを目の前に、私とベルは立っていた。

 先ほどまであった、毒の沼が消滅し、赤茶色に焼き固められた広大な窪地が広がっている。それは確かに、あの鼻を突く悪臭の元凶が根絶された証であり、私の相棒が持つ圧倒的な力の爪痕でもあった。


「さあ、いくぞ。コレット、これで解決だ」


「……待ってください、ベル」


 私は、黒い相棒に声をかけた。


「あ? なんだ、忘れ物か?」


 ベルは不機嫌そうに鼻を鳴らす。彼の頭の中はすでに、手に入れたばかりのスパイスと、それを使って焼かれる肉のことで埋め尽くされているはずだ。


「忘れ物と言えば、そうかもしれません。……あれを見てください」


 私は眼下に広がる、乾き切った大地を指差した。

 かつて湖だった場所は、今はただの荒野で水などどこにもない、空っぽだ。毒は消えた。ヘドロも消えた。だが、肝心の「水」も一滴残らず消え失せている。


「ギルドマスターの依頼を思い出してください」


「ああ?奴の依頼は『湖の浄化』だ。毒を消せと言われたから、消してやった。我は何も間違ってはおらん」


 ベルは胸を張る。確かに、論理的には間違っていない。毒を取り除く究極の方法は、汚染された部分をすべて消滅させることだ。

 けれど、人間の社会生活という観点から見れば、これは「解決」ではなく「別の問題の発生」でしかない。


「浄化というのは、元通りきれいにすることを指すんですよ、ベル。あれではただの『破壊』です。水がなければ、街の人々は結局困り果ててしまいます」


「知ったことか。雨が降れば溜まる」


「この広さですよ? 雨水だけで満たすには何年もかかります。その間、街の水源はどうするんですか? 困った彼らが、また私たちの教会に押し掛けてきますよ? 『水がないから助けてくれ』と、毎日、昼夜を問わず」


 私が脅し文句を口にした瞬間、ベルの耳がピクリと反応した。

 彼が何よりも嫌うのは、快適な睡眠と食事を妨害されることだろうからだ。


「……チッ。面倒な」


 ベルは忌々しげに舌打ちをした。


「あの人間どもは、どこまで手がかかるのだ。毒を消してやっただけでも感謝すべきところを、水まで寄越せとは図々しいにも程がある」


「アフターサービスも一流であってこその王ですよ」


 私は彼をおだてる。

 ベルはふん、と鼻を鳴らし、乾いた大地を見下ろした。


「おい、コレット。離れていろ。湿気で髪がうねっても知らんぞ」


 警告と共に、彼の全身から再び魔力が溢れ出す。

 先ほどの焦熱の赤ではない。今度は、深く、澄み渡った蒼色の輝きだ。

 周囲の大気が、急速に潤いを帯びていくのが分かる。

 冬の乾燥した空気が、見えない水脈と繋がったかのように重くなる。


『天上の雫よ、大地の渇きを癒やせ』


 ベルが厳かに告げた。

 その声は、物理的な音量以上に響き渡り、空気を振動させる。


 ゴオオオオオオッ……。


 風の音が変わった。

 上空の雲が渦を巻き、裂け目から青白い光が差し込む。

 そして。


 ドバアアアアアアアアアッ!!


 それは雨などという生易しいものではなかった。

 バケツをひっくり返したかのような雨。それが空から叩きつけられるように降ってきた。

 それはまるで滝だった。

 何万トンという質量の水塊が、干上がった湖底へと流れていく。


 乾いた大地が水を吸う音、水同士がぶつかり合う音、そして空気が弾ける音が混ざり合い、爆音となって世界を揺らす。

 私は風の結界の中で、ただ呆然とその光景を見つめていた。

 私の生活魔法である「水魔法」とは、根本的に次元が異なる。私が操るのは、精々がバケツ数杯分の水だ。汚れを落とし、運び、形を変える程度のささやかな奇跡。

 けれど、目の前で起きているのは「災害」だ。

 国一つを水没させかねないほどの水量が、ベルの意思一つで生み出されている。


 赤茶色だった湖底が、瞬く間に蒼色に塗り潰されていく。

 水位が見る見るうちに上昇していく。

 濁りは一切ない。

 生成された水は、宝石のように透き通った純粋な液体だ。

 先ほどまでの死臭漂うヘドロの沼が嘘のように、清浄な空気が立ち込め始める。


「……すごいです」


 素直な感想が漏れた。

 破壊だけでなく、創造においても彼は規格外だ。


「ふん。これくらい、朝飯前だ」


 数分も経たぬうちに、巨大なクレーターは縁まで水で満たされた。

 波一つない鏡のような水面が、冬の空を映し出している。

 周囲の雪景色と相まって、それは息を呑むほどに美しく、神聖な光景だった。

 かつてここにあった湖よりも、遥かに深く、青く、美しい「泉」の誕生だ。


「これで文句はあるまい」


 ベルが魔力を収束させる。

 滝のような水流が止まり、静寂が戻ってきた。


「素晴らしいです。これなら、街の人々も感謝してもしきれないでしょう」


「感謝などいらん。我に旨いものを献上すればそれでよいのだ」


 ベルは興味なさげに言い捨てると、くるりと背を向けた。


「さあ、今度こそ帰るぞ。肉だ。スパイスだ。我の胃袋は限界を迎えている」


 私たちは、生まれたばかりの美しい湖を背に、再び空の旅路についた。

 白い森の上を爆速で進んでいく。

 心なしか、行きの時よりも速度が上がっている気がするのは、ベルの食欲が加速しているからだろうか。



 教会に帰り着いた頃には、日はすでに傾き、森は藍色の夕闇に包まれ始めていた。

 玄関の扉を閉め、外の冷気を遮断する。

 暖炉の火はまだ種火として残っており、少し薪を足してやると、すぐにパチパチと元気な音を立てて燃え上がった。


 我が家だ。

 安心感と共に、ドッと疲れが出るかと思ったが、今の私にはそれ以上の高揚感があった。

 キッチンのテーブルの上に置かれた、戦利品たち。

 ギルドマスターからせしめた、北の大陸のスパイスセットと、春告げの白茶だ。


「さあ、コレット。食事だ」


 ベルがテーブルの上で待ちきれない様子で足踏みをしている。

 私はコートを脱ぎ、手を洗ってからエプロンを締めた。

 今日のメインディッシュは、保存庫で熟成させておいた冬鹿のロース肉だ。

 厚さ三センチはある分厚い切り身を、二枚用意する。

 常温に戻しておいた肉の表面に、まずは岩塩を振る。

 そして、主役の登場だ。


 木箱から取り出した小瓶。

 中には、鮮やかな深紅色の粉末が入っている。

 『赤の衝撃』。

 蓋を開けると、ツンとした刺激的な香りが立ち上った。唐辛子のような辛味成分の中に、柑橘系の爽やかさと、土のような力強い香りが複雑に絡み合っている。

 ただ辛いだけではない、食欲を喚起する魔性の香りだ。


「……良い匂いだ」


 ベルがうっとりと目を細める。

 私はその粉末を、肉の両面にたっぷりとまぶした。

 さらに、乾燥ハーブを砕いて散らす。


 フライパンを火にかけ、牛脂を溶かす。

 煙が立つ寸前まで熱したところに、肉を投入する。


 ジュウウウウウウウッ!!


 爆ぜるような音が、静かな教会に響き渡った。

 途端に、スパイスが熱せられたことで香りが爆発的に広がる。

 香ばしい脂の匂いと、刺激的なスパイスの香りが混ざり合い、暴力的なまでに胃袋を刺激する。

 ベルが喉を鳴らす音が聞こえる。

 私も、口の中に唾液が溢れるのを止められない。


 表面をカリッと焼き固め、旨味を閉じ込める。

 裏返して、弱火でじっくりと火を通す。

 レアすぎず、焼きすぎず。指で押して弾力を確かめる。

 仕上げに、鍋肌から少量の赤ワインを回し入れ、フランベする。

 ボッ、と炎が上がり、アルコールの香りが飛ぶと同時に、肉に艶やかな照りが生まれた。


「完成です」


 熱々の皿に盛り付け、付け合わせの甘く煮た人参――ベルのリクエスト通り、雪の下から掘り出したものだ――を添える。

 テーブルに運ぶと、ベルは待ちきれない様子で椅子に飛び乗った。


「……待っていた。この時を、永遠のように感じていたぞ」


 彼は厳かにフォークを構える。

 私も自分の席につき、ナイフを手に取った。

 その前に、もう一つの楽しみを忘れてはいけない。

 ポットの中で蒸らしておいた、春告げの白茶だ。

 カップに注ぐと、淡い黄金色の液体から、花園のような優雅な香りが立ち上る。

 肉の重厚な香りとは対照的な、繊細で清らかな香り。


「いただきます」


 私が言うと同時、ベルは肉にかぶりついた。

 熱さをものともせず、大きな一口を頬張る。

 咀嚼する音が、静寂の中に響く。

 そして、彼の動きが止まった。


「……むぅッ!!」


 金色の瞳孔がカッと見開かれる。


「なんだこれは! 口に入れた瞬間、雷に打たれたような衝撃が走ったかと思えば、次の瞬間には肉汁の津波が押し寄せてくる! この赤い粉……ただ辛いだけではない! 肉の獣臭さを完全に消し去り、脂の甘みを極限まで引き立てている!」


 彼は興奮気味にまくしたて、次々と肉を口に運んでいく。

 私も一口食べてみる。

 ……美味しい。

 鹿肉特有の鉄分を含んだ濃い旨味が、スパイスの刺激によって洗練された味に昇華されている。

 噛むほどに溢れる肉汁と、ピリッとした辛味のコントラスト。

 飲み込んだ後も、舌の上に心地よい痺れと余韻が残る。

 これは確かに、いつもの塩焼きとは別次元の料理だ。


「ご飯が欲しくなりますね」


「うむ! パンでは受け止めきれん! この溢れ出る脂とスパイスの聖汁を、白米に染み込ませて食らいたい!」


 幸い、以前手に入れた米の備蓄はまだある。

 私は炊きたてのご飯を皿によそい、ベルに差し出した。

 彼は肉をワンバウンドさせ、米と共に貪る。

 至福の表情だ。

 数千の魔獣を消し飛ばし、湖を蒸発させ、そして再生させた最強の魔獣が、今はただの一皿の肉料理に酔いしれている。


 私は口の中の脂を、白茶で流し込んだ。

 すっきりとした渋みと、鼻に抜ける花のような香り。

 荒々しい肉の味を、優しくリセットしてくれる。

 理想的な組み合わせだ。


「……生きててよかったですね、ベル」


「大袈裟な。だが、今日ばかりは同意してやろう。この味を知らずに死ぬのは、王としてあるまじき失態だ」


 皿が空になる頃には、私たちの体は芯から温まり、心地よい満腹感に包まれていた。

 外では再び雪が降り始めているようだが、分厚い石壁と暖炉の火、そして満たされた胃袋がある限り、冬の寒さなど恐れるに足りない。


 食後の片付けを終え、私はソファに深く沈み込んだ。

 ベルは私の膝の上に乗ることもなく、暖炉の前のクッションで丸くなっている。

 お腹がいっぱいで動けないのだろう。

 時折、「うまい……」と寝言のように呟きながら、尻尾をパタンパタンとさせている。


 私は窓の外に目を向けた。

 暗闇の中で、雪が白く浮かび上がっている。

 明日の朝には、また一面の銀世界だろう。

 湖の様子を見に行くのもいいかもしれない。

 きっと、新しく生まれた泉は、朝日に照らされて美しく輝いているはずだ。


 薪がパチリと爆ぜた。

 炎の揺らめきを見つめながら、私は静かに目を閉じた。

 口の中に残るスパイスの余韻と、お茶の香りに包まれて、意識が微睡みへと落ちていく。


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