第三十一話:碧き奇跡の泉と、焦熱の食卓
巨大なクレーターと化した湖跡。
そのを目の前に、私とベルは立っていた。
先ほどまであった、毒の沼が消滅し、赤茶色に焼き固められた広大な窪地が広がっている。それは確かに、あの鼻を突く悪臭の元凶が根絶された証であり、私の相棒が持つ圧倒的な力の爪痕でもあった。
「さあ、いくぞ。コレット、これで解決だ」
「……待ってください、ベル」
私は、黒い相棒に声をかけた。
「あ? なんだ、忘れ物か?」
ベルは不機嫌そうに鼻を鳴らす。彼の頭の中はすでに、手に入れたばかりのスパイスと、それを使って焼かれる肉のことで埋め尽くされているはずだ。
「忘れ物と言えば、そうかもしれません。……あれを見てください」
私は眼下に広がる、乾き切った大地を指差した。
かつて湖だった場所は、今はただの荒野で水などどこにもない、空っぽだ。毒は消えた。ヘドロも消えた。だが、肝心の「水」も一滴残らず消え失せている。
「ギルドマスターの依頼を思い出してください」
「ああ?奴の依頼は『湖の浄化』だ。毒を消せと言われたから、消してやった。我は何も間違ってはおらん」
ベルは胸を張る。確かに、論理的には間違っていない。毒を取り除く究極の方法は、汚染された部分をすべて消滅させることだ。
けれど、人間の社会生活という観点から見れば、これは「解決」ではなく「別の問題の発生」でしかない。
「浄化というのは、元通りきれいにすることを指すんですよ、ベル。あれではただの『破壊』です。水がなければ、街の人々は結局困り果ててしまいます」
「知ったことか。雨が降れば溜まる」
「この広さですよ? 雨水だけで満たすには何年もかかります。その間、街の水源はどうするんですか? 困った彼らが、また私たちの教会に押し掛けてきますよ? 『水がないから助けてくれ』と、毎日、昼夜を問わず」
私が脅し文句を口にした瞬間、ベルの耳がピクリと反応した。
彼が何よりも嫌うのは、快適な睡眠と食事を妨害されることだろうからだ。
「……チッ。面倒な」
ベルは忌々しげに舌打ちをした。
「あの人間どもは、どこまで手がかかるのだ。毒を消してやっただけでも感謝すべきところを、水まで寄越せとは図々しいにも程がある」
「アフターサービスも一流であってこその王ですよ」
私は彼をおだてる。
ベルはふん、と鼻を鳴らし、乾いた大地を見下ろした。
「おい、コレット。離れていろ。湿気で髪がうねっても知らんぞ」
警告と共に、彼の全身から再び魔力が溢れ出す。
先ほどの焦熱の赤ではない。今度は、深く、澄み渡った蒼色の輝きだ。
周囲の大気が、急速に潤いを帯びていくのが分かる。
冬の乾燥した空気が、見えない水脈と繋がったかのように重くなる。
『天上の雫よ、大地の渇きを癒やせ』
ベルが厳かに告げた。
その声は、物理的な音量以上に響き渡り、空気を振動させる。
ゴオオオオオオッ……。
風の音が変わった。
上空の雲が渦を巻き、裂け目から青白い光が差し込む。
そして。
ドバアアアアアアアアアッ!!
それは雨などという生易しいものではなかった。
バケツをひっくり返したかのような雨。それが空から叩きつけられるように降ってきた。
それはまるで滝だった。
何万トンという質量の水塊が、干上がった湖底へと流れていく。
乾いた大地が水を吸う音、水同士がぶつかり合う音、そして空気が弾ける音が混ざり合い、爆音となって世界を揺らす。
私は風の結界の中で、ただ呆然とその光景を見つめていた。
私の生活魔法である「水魔法」とは、根本的に次元が異なる。私が操るのは、精々がバケツ数杯分の水だ。汚れを落とし、運び、形を変える程度のささやかな奇跡。
けれど、目の前で起きているのは「災害」だ。
国一つを水没させかねないほどの水量が、ベルの意思一つで生み出されている。
赤茶色だった湖底が、瞬く間に蒼色に塗り潰されていく。
水位が見る見るうちに上昇していく。
濁りは一切ない。
生成された水は、宝石のように透き通った純粋な液体だ。
先ほどまでの死臭漂うヘドロの沼が嘘のように、清浄な空気が立ち込め始める。
「……すごいです」
素直な感想が漏れた。
破壊だけでなく、創造においても彼は規格外だ。
「ふん。これくらい、朝飯前だ」
数分も経たぬうちに、巨大なクレーターは縁まで水で満たされた。
波一つない鏡のような水面が、冬の空を映し出している。
周囲の雪景色と相まって、それは息を呑むほどに美しく、神聖な光景だった。
かつてここにあった湖よりも、遥かに深く、青く、美しい「泉」の誕生だ。
「これで文句はあるまい」
ベルが魔力を収束させる。
滝のような水流が止まり、静寂が戻ってきた。
「素晴らしいです。これなら、街の人々も感謝してもしきれないでしょう」
「感謝などいらん。我に旨いものを献上すればそれでよいのだ」
ベルは興味なさげに言い捨てると、くるりと背を向けた。
「さあ、今度こそ帰るぞ。肉だ。スパイスだ。我の胃袋は限界を迎えている」
私たちは、生まれたばかりの美しい湖を背に、再び空の旅路についた。
白い森の上を爆速で進んでいく。
心なしか、行きの時よりも速度が上がっている気がするのは、ベルの食欲が加速しているからだろうか。
◇
教会に帰り着いた頃には、日はすでに傾き、森は藍色の夕闇に包まれ始めていた。
玄関の扉を閉め、外の冷気を遮断する。
暖炉の火はまだ種火として残っており、少し薪を足してやると、すぐにパチパチと元気な音を立てて燃え上がった。
我が家だ。
安心感と共に、ドッと疲れが出るかと思ったが、今の私にはそれ以上の高揚感があった。
キッチンのテーブルの上に置かれた、戦利品たち。
ギルドマスターからせしめた、北の大陸のスパイスセットと、春告げの白茶だ。
「さあ、コレット。食事だ」
ベルがテーブルの上で待ちきれない様子で足踏みをしている。
私はコートを脱ぎ、手を洗ってからエプロンを締めた。
今日のメインディッシュは、保存庫で熟成させておいた冬鹿のロース肉だ。
厚さ三センチはある分厚い切り身を、二枚用意する。
常温に戻しておいた肉の表面に、まずは岩塩を振る。
そして、主役の登場だ。
木箱から取り出した小瓶。
中には、鮮やかな深紅色の粉末が入っている。
『赤の衝撃』。
蓋を開けると、ツンとした刺激的な香りが立ち上った。唐辛子のような辛味成分の中に、柑橘系の爽やかさと、土のような力強い香りが複雑に絡み合っている。
ただ辛いだけではない、食欲を喚起する魔性の香りだ。
「……良い匂いだ」
ベルがうっとりと目を細める。
私はその粉末を、肉の両面にたっぷりとまぶした。
さらに、乾燥ハーブを砕いて散らす。
フライパンを火にかけ、牛脂を溶かす。
煙が立つ寸前まで熱したところに、肉を投入する。
ジュウウウウウウウッ!!
爆ぜるような音が、静かな教会に響き渡った。
途端に、スパイスが熱せられたことで香りが爆発的に広がる。
香ばしい脂の匂いと、刺激的なスパイスの香りが混ざり合い、暴力的なまでに胃袋を刺激する。
ベルが喉を鳴らす音が聞こえる。
私も、口の中に唾液が溢れるのを止められない。
表面をカリッと焼き固め、旨味を閉じ込める。
裏返して、弱火でじっくりと火を通す。
レアすぎず、焼きすぎず。指で押して弾力を確かめる。
仕上げに、鍋肌から少量の赤ワインを回し入れ、フランベする。
ボッ、と炎が上がり、アルコールの香りが飛ぶと同時に、肉に艶やかな照りが生まれた。
「完成です」
熱々の皿に盛り付け、付け合わせの甘く煮た人参――ベルのリクエスト通り、雪の下から掘り出したものだ――を添える。
テーブルに運ぶと、ベルは待ちきれない様子で椅子に飛び乗った。
「……待っていた。この時を、永遠のように感じていたぞ」
彼は厳かにフォークを構える。
私も自分の席につき、ナイフを手に取った。
その前に、もう一つの楽しみを忘れてはいけない。
ポットの中で蒸らしておいた、春告げの白茶だ。
カップに注ぐと、淡い黄金色の液体から、花園のような優雅な香りが立ち上る。
肉の重厚な香りとは対照的な、繊細で清らかな香り。
「いただきます」
私が言うと同時、ベルは肉にかぶりついた。
熱さをものともせず、大きな一口を頬張る。
咀嚼する音が、静寂の中に響く。
そして、彼の動きが止まった。
「……むぅッ!!」
金色の瞳孔がカッと見開かれる。
「なんだこれは! 口に入れた瞬間、雷に打たれたような衝撃が走ったかと思えば、次の瞬間には肉汁の津波が押し寄せてくる! この赤い粉……ただ辛いだけではない! 肉の獣臭さを完全に消し去り、脂の甘みを極限まで引き立てている!」
彼は興奮気味にまくしたて、次々と肉を口に運んでいく。
私も一口食べてみる。
……美味しい。
鹿肉特有の鉄分を含んだ濃い旨味が、スパイスの刺激によって洗練された味に昇華されている。
噛むほどに溢れる肉汁と、ピリッとした辛味のコントラスト。
飲み込んだ後も、舌の上に心地よい痺れと余韻が残る。
これは確かに、いつもの塩焼きとは別次元の料理だ。
「ご飯が欲しくなりますね」
「うむ! パンでは受け止めきれん! この溢れ出る脂とスパイスの聖汁を、白米に染み込ませて食らいたい!」
幸い、以前手に入れた米の備蓄はまだある。
私は炊きたてのご飯を皿によそい、ベルに差し出した。
彼は肉をワンバウンドさせ、米と共に貪る。
至福の表情だ。
数千の魔獣を消し飛ばし、湖を蒸発させ、そして再生させた最強の魔獣が、今はただの一皿の肉料理に酔いしれている。
私は口の中の脂を、白茶で流し込んだ。
すっきりとした渋みと、鼻に抜ける花のような香り。
荒々しい肉の味を、優しくリセットしてくれる。
理想的な組み合わせだ。
「……生きててよかったですね、ベル」
「大袈裟な。だが、今日ばかりは同意してやろう。この味を知らずに死ぬのは、王としてあるまじき失態だ」
皿が空になる頃には、私たちの体は芯から温まり、心地よい満腹感に包まれていた。
外では再び雪が降り始めているようだが、分厚い石壁と暖炉の火、そして満たされた胃袋がある限り、冬の寒さなど恐れるに足りない。
食後の片付けを終え、私はソファに深く沈み込んだ。
ベルは私の膝の上に乗ることもなく、暖炉の前のクッションで丸くなっている。
お腹がいっぱいで動けないのだろう。
時折、「うまい……」と寝言のように呟きながら、尻尾をパタンパタンとさせている。
私は窓の外に目を向けた。
暗闇の中で、雪が白く浮かび上がっている。
明日の朝には、また一面の銀世界だろう。
湖の様子を見に行くのもいいかもしれない。
きっと、新しく生まれた泉は、朝日に照らされて美しく輝いているはずだ。
薪がパチリと爆ぜた。
炎の揺らめきを見つめながら、私は静かに目を閉じた。
口の中に残るスパイスの余韻と、お茶の香りに包まれて、意識が微睡みへと落ちていく。




