第三十話:蒸発する湖
玄関の扉を開け放った瞬間に押し寄せたのは、頬を鋭利な刃物で撫でられるような冷気と、視界を白く染める雪の世界だった。
けれど、その寒さが私の肌を刺したのは、ほんの数瞬のことだ。
私の首元に巻き付いていた黒い毛皮の襟巻き――もとい、我が相棒であるベルが、小さく鼻を鳴らしたからだ。
「さっさと行くぞ!」
不機嫌な呟きと共に、彼を中心に魔力が渦を巻いていた。
それは風だ。
けれど、自然界に吹く気まぐれな風ではない。彼の意思によって統率され、物理的な法則をねじ伏せる力を持った、魔力の暴力。
風は繭のように私たちを包み込み、次の瞬間、重力を断ち切った。
浮遊感を感じる暇さえなかった。
景色が後方へと弾け飛ぶ。
雪を踏みしめる感触が消え、代わりに足の裏には頼りない大気の層だけが残る。
私たちは、鉛色の雲が垂れ込める冬の空へと、弾丸のように射出されていた。
ごうごうと、外の世界では大気が悲鳴を上げているのが見える。
雪片が矢のように横殴りに過ぎ去り、森の木々が残像となって流れていく。
だが、この風の結界の内側は、とても静かだった。
風切り音すら遮断された空間で、私は流れる景色を眺める。
眼下には、雪化粧を施された『還らずの森』が広がっていた。普段なら迷宮のように入り組んで見える樹海も、上空から見下ろせば、白い砂糖菓子をまぶした箱庭のようだ。
「……相変わらず、無茶な移動方法ですね」
私は風の壁に手を触れそうになりながら、首元の相棒に話しかけた。
「優雅さの欠片もありません。もう少し、こう、空の旅を楽しむ余裕というものがあっても良いのでは?」
「何を言う。これこそが最速だ」
ベルは私の肩に顎を乗せ、進行方向を睨み据えている。その金と赤の瞳は、獲物を追う猛禽類のように鋭い。
「我々の目的は観光ではない。晩餐だ。一秒でも早くあの泥沼を片付け、肉を焼く。そのためには、音速を超えることすら辞さん」
「音速を超えたら私が耐えられませんから、ほどほどにお願いしますよ」
彼の頭の中は、すでにあのスパイスを使った肉料理で埋め尽くされているらしい。
食欲という名の燃料を投下されたこの魔獣は、誰にも止められない。
私は諦めて、風に身を任せることにした。
進行方向の空気が、円錐状に切り裂かれていく。
私たちは白い矢となって、雪雲の中を突き進んだ。
目指すは、森の北側に位置する水源の湖。
かつては清らかな水を湛え、多くの水鳥が羽を休めていた場所だ。
だが、近づくにつれて、私の鼻腔が異変を捉え始めた。
最初は、微かな違和感だった。
澄み切った冬の大気の中に、異質な粒子が混じり込んでいる。
風の結界は物理的な衝撃や寒さは防いでくれるが、匂いまでは完全に遮断していないらしい。
それは、鼻の奥に粘りつくような、不快な甘ったるさと、腐敗臭が入り混じったものだった。
「……臭いますね」
私が顔をしかめると、ベルもまた、不愉快そうに耳を伏せた。
「チッ……。風下から近づくべきではなかったか。だが、元凶がそこにいるという証拠でもある」
ベルが風の軌道をわずかに修正し、高度を下げる。
雲を抜けた瞬間、眼下にその光景が広がった。
私は息を呑む――ことすら躊躇われた。
空気を吸い込むこと自体が、汚れを取り込む行為に思えたからだ。
そこにあったのは、湖ではなかった。
大地に開いた、巨大な膿んだ傷口。
そう表現するのが最も適切だろう。
かつては鏡のように空を映していた水面は、いまやどす黒い粘液に覆い尽くされていた。
コールタールを流し込んだような、光沢のない黒。
所々に、毒々しい紫色の泡が浮かび上がり、弾けては黄色いガスを吐き出している。
湖畔の木々は、その毒気に当てられたのか、無残に枯れ果てていた。
立ち枯れた幹は黒く変色し、枝には一枚の葉も残っていない。
本来なら雪の白さが際立つはずの湖岸も、飛沫を浴びたのか、あるいは毒ガスが雪を変質させたのか、薄汚れた灰色に染まっている。
生物の気配は、ない。
鳥の声も、風の音さえも、この場所では死に絶えているかのようだ。
「……酷いですね」
私が呟くと、ベルはさらに速度を落とし、湖のほとりにある岩場へと着地した。
ふわり、と風が霧散する。
途端に、強烈な悪臭が私たちを包み込んだ。
ウッ、と呻き声を漏らし、私は慌ててマントの裾で鼻と口を覆った。
腐った卵と、内臓を煮詰めたような匂い。そこに、化学薬品のようなツンとする刺激臭が混ざっている。
これは、ただの腐敗ではない。
生物として本能的に忌避すべき、死と病の匂いだ。
「不敬だな」
ベルが低い声で言った。
彼は岩の上から、黒く澱んだ湖面を見下ろしている。
その背中から立ち上るのは、寒さによる白い息ではなく、怒気を含んだ魔力の揺らぎだった。
「この我の鼻を、このような下劣な臭気で犯すとは。食事前において、嗅覚は最重要の感覚器だぞ。それを麻痺させようなど、万死に値する」
「怒るポイントがそこですか……。でも、確かにこれでは、水として使うどころか、近づくだけで病気になりそうです」
私は恐る恐る湖面に近づき、様子を観察した。
粘度の高い黒い液体は、水というよりは泥に近い。
岸辺には、魚の死骸が打ち上げられているが、どれも原形を留めていないほど溶け崩れている。骨まで溶かす猛毒なのだろう。
ギルドマスターが「浄化魔法でも表面を薄めるのがやっとだった」と言っていたのも頷ける。
これは、水が汚れているのではない。
汚染そのものが、水の形をしてそこに存在しているのだ。
「……ベル。元凶はどこに?」
私が尋ねると、ベルは湖の中央、一際泡立ちの激しい場所を黒いしっぽで示した。
「底だ。あの汚泥の下に、人間どもが捨てたゴミのように醜悪な塊が潜んでいる」
彼の瞳が、水面下の何かを捉えている。
「ポイズン・スライムの一種……いや、あれはもはやスライムという種族ですらないな。汚染物質を取り込みすぎて、自らが毒の沼と化している」
「毒の沼……」
想像するだけで気が滅入る相手だ。
通常のスライムであれば、核を破壊すれば終わる。だが、これだけの規模の汚染を引き起こす個体となれば、核を見つけることすら困難だろう。
しかも、相手は液状だ。
物理攻撃は効きにくく、魔法で攻撃しても拡散するだけかもしれない。
「どうしますか?私の水魔法で分離を試みるにしても、この量は……」
私が言いかけると、ベルは鼻で笑った。
「貴様のちまちました掃除など待っておれん。日が暮れてしまうわ」
彼は岩の先端に立ち、湖に向かって一歩を踏み出した。
ちゃぽん、という音はしない。
彼が足を下ろした空間に、見えない足場が生まれたかのように、彼は空中に立っていた。
「おい、底のゴミ屑。王の御前だぞ。顔くらい見せたらどうだ」
ベルが軽く前足を振るった。
それだけの動作で、不可視の風の刃が放たれる。
ヒュンッ!
空気を切り裂く鋭い音が響き、次の瞬間、湖面の中央が真一文字に斬り裂かれた。
粘つく黒い液体が、左右に大きく分かれる。
それはまるで、海が割れる伝説の再現のようだったが、そこにあるのは神聖さなど微塵もない、冒涜的な光景だった。
裂け目の奥から、ごぼごぼという不気味な音が響いてきた。
地底から湧き上がるような、低く、湿った音。
湖面全体が大きく波打ち、黒い液体が盛り上がり始める。
ズズズズズ……!
山が、生まれる。
そう錯覚するほどの巨体が、水面を割って姿を現した。
それは、不定形の絶望だった。
高さは十メートルを超えるだろうか。
半透明の黒いゼリー状の体躯には、取り込んだであろう瓦礫や、動物の骨、そして枯れ木などが無数に浮遊している。
目も口もない。
ただ、敵意だけを純粋培養したような殺気が、その巨体に満ちていた。
「……大きいですね」
私は一歩後ずさりした。
見上げると首が痛くなるほどのサイズだ。
あれが、この湖を死の沼に変えた元凶。
怪物は、私たちの存在を感知したらしい。
体の表面に無数の気泡が浮かび上がり、それらが一斉にこちらを向く。
まるで、千の目が私たちを睨んでいるようだ。
ジュワッ、ジュワワ……。
気泡の一つ一つに、濃縮された毒液が充填されていくのが分かる。
あれを浴びれば、骨まで溶かされることは想像に難くない。
「――臭い」
ベルの冷徹な声が、周囲を支配していた。
彼は空中に立ったまま、心底軽蔑したような目で、眼前の巨体を見下ろしている。
「貴様、存在そのものが不快だ。……身の程を知れ」
ベルの全身から、膨大な魔力により何かが生成され始めていた。
『焦熱の理よ、ここに極まれよ』
純粋な破壊と浄化へ。
「消え失せろ。灰すら残さずな」
ベルから発せられた魔力の奔流から、直視できないほどに輝く光球が生まれていた。
それは火の玉などという生温かいものではない。
圧縮された太陽。
この世のあらゆる不浄を焼き尽くす、超高温のプラズマ。
ジリジリと、耳を焼くような音が、世界を支配する。
「死ね!」
ベルが短く咆哮した。
光球が、怪物に向かって放たれる。
ビュン!
目にもとまらぬ速さ。
その熱量は圧倒的だった。
その飛来する隕石のような攻撃に周囲のすべての物質が蒸発していた。
そして、光球が怪物の巨体に着弾した。
ジュウウウウウウウウッ!!
爆発音はしなかった。
ただ、目の前の毒液は音もなく蒸発し、沸騰する間もなく気化した。
圧倒的な量の毒は、太陽が爆発するかような火魔法の前では無意味だった。
そして、臨界を超えた。
カッ!!!
閃光。あまりにも眩しい。
まずい!
失明するほどの光に、とっさに私は目を閉じた。
目を閉じても、眩いばかりの光を全身で感じ、その熱波が余韻となって広がる。
「あはははははは!」
ベルの高笑いが聞こえた。
そして、徐々に熱波が収まっていく。
私はそろそろかと目を開けた。
そこにあったのは、もはや湖ではなかった。
湖水はすべて蒸発し、干上がった湖底が露出していた。
しかし、そこには泥一つ残っていない。
高温で焼き固められた地面は、陶器のように滑らかで、赤茶色に変色している。
毒も、ヘドロも、魚の死骸も。
すべてが消え去っていた。
立ち昇るのは、もうあの悪臭ではない。
焼け石の匂いと、雨上がりのような湿った空気。
頭上を見上げれば、蒸発した大量の水蒸気が雲となり、雪雲を押し退けていた。
ぽっかりと開いた空の穴から、本物の太陽の光が差し込んでいる。
浄化、とは聞いていた。
けれど、これは浄化というよりは、地形を書き換えるようなものだ。
地形ごと焼き払い、初期化してしまう神の御業。
それを、一介の魔獣が――いや、最強の魔獣だからこそ、やってのけたのだ。




