第三話:泥濘の中
車輪が石を噛む不快な振動が、唐突に止んだ。
三日間続いた、骨の髄まで揺さぶられるような感覚が消える。あとに残ったのは、体に張り付くような静寂と、遠くで響く雷鳴の余韻だけだった。
私は強張った体をほぐすように、小さく息を吐き出した。
固い木のベンチに座り続けていたせいで、背中と腰の感覚が麻痺している。まるで自分の体ではないような重さを感じながら、私は膝の上で抱えていた革鞄の感触を確かめた。
指先が冷え切っている。
鉄格子の隙間から吹き込んでくる風は、王都のそれとは明らかに違っていた。湿り気を帯び、どこか獣の獣臭さを孕んだ冷たい風。
どうやら、到着したらしい。
ガチャン、と乱暴に鍵が外される音がした。
そのまま馬車の扉が開け放たれる。
視界に飛び込んできたのは、鉛色の分厚い雲に覆われた空と、鬱蒼と茂る木々の壁だった。
「着いたぞ、元公爵令嬢様」
扉の向こうに立っていたのは、護送を担当していた騎士の一人だった。
無精髭を生やした顔には、隠しきれない疲労と、それ以上の苛立ちが張り付いている。
彼は私の返事など待たずに、馬車の中へと手を伸ばしてきた。その手つきは、荷物を扱うそれよりも雑で、私という人間に対する敬意など微塵も感じられないものだった。
「降りろ。ここが終点だ」
腕を掴まれ、半ば引きずり出されるようにして、私は馬車の外へと放り出された。
地面に足がつくと同時、足首までがぬるりとした感触に包まれる。
泥だ。
数日前から降り続いている雨のせいで、地面は茶色い沼のようになっていた。
私はバランスを崩しそうになりながらも、なんとか踏みとどまる。しかし、騎士はそんな私の事情などお構いなしに、背中を強く突き飛ばした。
「っと……」
抵抗する間もなく、私はぬかるんだ地面へと膝をついた。
冷たい泥が、厚手のズボンの生地を通して肌へと浸透してくる。
跳ねた泥水が頬に飛んだ。
最悪だ。
私は眉をひそめながら、掌についた泥を見つめた。
不衛生極まりない。この泥の中には、どれだけの雑菌や寄生虫が潜んでいることか。
「おい、こいつも忘れるなよ」
頭上から声が降り注ぐと同時に、私の革鞄が放り投げられた。
ドサリ、と鈍い音を立てて、鞄が泥の中に着地する。
あぁ、と私は心の中で嘆息した。
丁寧に手入れをしてきた革が、無惨にも汚れていく。中身は防水対策をしてあるとはいえ、外側の汚れを落とす手間を考えると、憂鬱にならざるを得ない。
私はゆっくりと立ち上がり、鞄を拾い上げた。
騎士たちは、そんな私を囲むようにして立ち、侮蔑に満ちた笑みを浮かべている。
「ここが『還らずの森』の入り口だ。ありがたく思えよ。本来なら処刑台に送られるところを、殿下の慈悲でチャンスをいただいたんだからな」
慈悲、という言葉の使い方が、彼らと私とでは根本的に異なっているらしい。
武器も持たせず、食料も数日分だけ。それで魔獣の巣窟に放り込むことが慈悲だというなら、この国の辞書は書き直されるべきだろう。
「この森には狼が出る。特に雨の日は、血の匂いに敏感になるらしいぜ」
「あんたみたいな華奢な令嬢じゃ、一晩もつかどうか怪しいもんだがな」
彼らは口々に、私の不幸な未来を予言した。
恐怖を煽り、泣き叫んで許しを請う姿を見たいのだろう。
それが彼らにとっての、退屈な護送任務における唯一の娯楽なのだ。
残念ながら、私は彼らの期待に応える役者ではない。
「ご忠告、感謝いたします。皆様も、王都への帰り道には十分お気をつけくださいませ。この天候ですと、馬車の車輪が泥に取られることもございましょうから」
私は鞄の泥を払いながら、淡々と告げた。
あの整備不良の馬車で、このぬかるんだ街道を戻るのは骨が折れるだろう。
私の言葉に、騎士の一人が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん、強がりを。まあいい、死ぬ前に精々、森の空気でも楽しむんだな」
「行くぞ。こんな気味の悪い場所に長居したくない」
彼らは興味を失ったように私から視線を外すと、逃げるように馬車へと戻っていった。
鉄格子の嵌まった扉が閉ざされ、御者の掛け声と共に、馬車が動き出す。
泥を跳ね上げながら遠ざかっていく馬車の背中を、私はただ静かに見送った。
車輪の音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
周囲を取り巻くのは、圧倒的な自然の音だけだ。
雨が葉を打つ音。
風が枝を揺らす音。
そして、自分の呼吸音。
一人になった。
法も、身分も、社会的な義務も及ばない場所。
普通なら、ここで孤独感に打ちひしがれ、絶望に涙するところなのかもしれない。
けれど、私の胸の奥底から湧き上がってきたのは、黒く重い感情ではなく、炭酸水のような軽やかな高揚感だった。
「……静かだわ」
私は大きく息を吸い込んだ。
湿った土と、青臭い植物の香り。
そこには、王都の大広間に充満していた、腐った香水の匂いも、欲望の悪臭もない。
誰も私を見ていない。
誰も私を評価しない。
髪が乱れていようが、服に泥がついていようが、それを咎める者は誰もいない。
その事実が、たまらなく心地よかった。
私は足元のぬかるみに視線を落とした。
ブーツは泥まみれで、ズボンの裾も悲惨な状態だ。
不快であることに変わりはない。
けれど、これは私が選んで、私の足で立った結果の汚れだ。
誰かにワインをかけられたり、身に覚えのない罪を着せられたりしてついた汚れとは、意味が違う。
「さて」
感傷に浸る時間は終わりだ。
私は懐から、手拭い代わりの布を取り出した。
まずは、この鞄を綺麗にしなければならない。
表面にこびりついた粘土質の泥を、丁寧に拭き取っていく。
革の縫い目に入り込んだ砂粒一つ見逃さないように、指先を使って慎重に。
この鞄は、これからの私の生命線だ。道具を雑に扱う者は、サバイバルにおいて真っ先に淘汰される。それは前世の知識であり、この世界での私の鉄則でもあった。
金具の部分を磨きながら、私は思考を巡らせる。
現在地は、森の最南端だろう。
時刻は、空の明るさから推測するに、正午を過ぎたあたりだろうか。
分厚い雲のせいで正確な時間は分からないが、日没まではまだ時間があるはずだ。
最優先事項は、雨風をしのげる拠点の確保。
このまま雨に打たれ続ければ、体温を奪われて動けなくなる。低体温症は、魔獣よりも静かで、確実な殺し屋だ。
私は拭き終えた鞄を背負い直すと、ブーツの紐をきつく締め直した。
足首を固定し、泥に足を取られないようにする。
準備は整った。
私は顔を上げ、目の前に広がる『還らずの森』を見据えた。
巨木が立ち並び、昼間だというのに薄暗い。
奥からは、得体の知れない気配が漂ってくる。
怖いか?
と自問する。
答えは、イエスであり、ノーだ。
生物としての生存本能が警鐘を鳴らしている。
だが、知性がそれを制御し、これからの計画を組み立てる喜びに変換している。
私は一歩、ぬかるんだ地面を踏みしめた。
グチャリ、と湿った音が響く。
その一歩は、追放された令嬢の末路ではなく、自由な開拓者としての最初の一歩だった。




